あの人が来ると、空気が変わる―正論では、人は動かない―

夜。

キッチンのシンクに、食器が積み重なっている。

リビングでは、テレビの音。

ソファに座る夫――結城 悠斗は、スマホを見ながらくつろいでいた。

「ねえ」

美咲が声をかける。

「この前言ったよね?ゴミ出し、朝お願いって」

「うん」

短い返事。

でも、視線はスマホのまま。

「今日、出してないよね?」

「……あー」

少しだけ顔を上げる。

「忘れてた」

その一言で、胸の奥がざわつく。

「忘れてた、じゃなくてさ」

思わず声が強くなる。

「何回も言ってるよね?」

「言ってるけどさ」

悠斗は、少しだけ面倒くさそうに眉をひそめた。

「そんな怒らんでもよくない?」

――まただ。

なんで、こっちが悪いみたいになるの?

「怒ってるんじゃなくて、ちゃんとやってほしいだけなんだけど」

「だから、忘れてただけだって」

「それが続いてるから言ってるの!」

空気がピリッと張り詰める。

悠斗はため息をついた。

「そんな毎回言われてもさ…」

「じゃあどうすればいいの?」

言葉がぶつかる。

でも、どこかズレている。

――伝わってない。

その時だった。

「ちょっといい?」

聞き覚えのある声。

振り向くと、キッチンの入り口に、あの女性が立っていた。

「……え?」

美咲が目を見開く。

女性は、ふたりの間に視線を向けた。

「今のさ、“言ってるのに伝わらない”やつだよね」

ドキッとする。

「言ってる側は、“ちゃんと伝えた”って思ってる」

美咲の方を見る。

「でも、受け取る側は、“聞いた”で終わってる」

今度は悠斗の方を見る。

悠斗は、少しだけ視線を逸らした。

「ねえ」

女性は続ける。

「“やってほしいこと”ってさ、言っただけじゃ動かないよ」

静かに言い切る。

「なんでか分かる?」

誰も答えない。

「“いつ・どのタイミングで・どうやるか”が決まってないから」

――あ。

美咲の中で、何かが繋がる。

「ゴミ出しお願いって言われてもさ」

女性は軽く肩をすくめる。

「朝のどのタイミング?
起きてすぐ?出る前?
袋まとめるのは誰?」

言葉が、具体的に落ちてくる。

「そこ曖昧だと、“あとでやろう”で終わる」

悠斗が、少しだけうなずいた。

「で、忘れる」

シンプルだった。

でも、それだけだった。

「じゃあどうするか」

女性はふたりを見る。

「一緒に決めればいい」

「……一緒に?」

美咲がつぶやく。

「うん。“やって”じゃなくて、“どうする?”って」

少し間を置いて、

「例えばさ」

女性は悠斗に視線を向ける。

「朝、いつならできそう?」

悠斗は少し考えて、

「…出る前ならいける」

「じゃあ、出る前にゴミ出すって決める?」

「うん」

「袋まとめるのは?」

美咲が答える。

「前の日の夜にやる」

「じゃあそれでセットね」

女性は軽くうなずいた。

「これで、“やること”が見えたでしょ」

さっきまでのイライラが、少しだけ薄れているのを感じる。

――あぁ。

「言ってた」のに、

「決めてなかった」

だけなんだ。

「…ごめん」

悠斗が小さく言った。

「ちゃんと決めてなかったな」

美咲も、ふっと力が抜ける。

「ううん、私も…」

その時にはもう、

女性の姿はなかった。

ただ、

キッチンの空気だけが、少し柔らかくなっていた。