あの人が来ると、空気が変わる―正論では、人は動かない―

オフィス。

パソコンの画面に向かいながら、悠斗は小さく息をついた。

「これ、今日中な」

上司が資料を置く。

「あとで後輩にも振っといて」

「…はい」

短く返事をする。

デスクに戻ると、後輩が声をかけてきた。

「これ、どうやればいいですか?」

「えっと…」

言葉に詰まる。

上司のやり方と、自分のやり方。

どっちで伝えるべきか、迷う。

「とりあえず…これやっといて」

曖昧に答える。

「…分かりました」

でも、その顔は少し困っていた。

しばらくして。

「すみません、これ違いますか?」

やり直し。

また説明。

またズレる。

(なんでうまくいかないんだ…)

上司の言うことをそのまま伝えてもダメ。

自分で考えて伝えてもズレる。

板挟み。

「ちゃんとやれよ」

上司の一言が刺さる。

「すみません…」

でも、何をどうすればいいのか分からない。

その時だった。

「ちょっといい?」

聞き覚えのある声。

振り向くと、オフィスの端に、あの女性が立っていた。

「……」

もう、驚かない。

女性は、ゆっくりと近づいてくる。

「今のさ」

静かに言う。

「上司の言葉、ちゃんと伝えた?」

「…伝えました」

「後輩、理解してた?」

「……」

答えられない。

「ねえ」

少しだけ優しく言う。

「“伝えた”と、“伝わった”は違うよ」

――あ。

どこかで聞いた言葉。

「上司は、“結果”を見てる」

「後輩は、“やり方”を知りたい」

一拍おく。

「で、悠斗さんは?」

まっすぐ見る。

「“間にいるだけ”になってる」

言葉が刺さる。

「じゃあどうするか」

女性は続ける。

「つなげる」

「……つなげる?」

「上司に、“何をどうしてほしいか”聞く」

「後輩に、“どう考えてるか”聞く」

シンプルだった。

でも、それだけだった。

悠斗は、少し考えて、

上司の方へ向かう。

「すみません」

「ん?」

「この資料、どこを一番重視したいですか?」

上司は少し考えて、

「ここだな」

と指をさす。

「ここがズレると意味ない」

「分かりました」

次に、後輩の元へ行く。

「今、どうやろうとしてる?」

「えっと…こうですかね」

「じゃあ、この部分だけ意識してみて」

指をさす。

「ここが一番大事らしい」

「…あ、なるほど」

後輩の顔が変わる。

「分かりました、やってみます」

しばらくして。

「できました」

見せてもらう。

さっきとは違う。

ちゃんと、揃っている。

「いいじゃん」

自然とそう言葉が出る。

胸の奥が、少し軽くなる。

――あぁ。

間にいるんじゃなくて、

つなげるんだ。

顔を上げると、

女性の姿はなかった。

でも、

さっきまでの空気とは、明らかに違っていた。



その夜。

リビング。

それぞれが、それぞれの時間を過ごしている。

でも――

どこか、前とは違う。

美咲は、ふと思う。

(あの人が来ると…)

悠斗も、仕事のことを思い出しながら感じる。

(空気が変わる)

恒一は、教室でのことを思い出していた。

(ちゃんとするんじゃなくて…)

陽菜は、友達とのやりとりを思い返す。

(合わせるんじゃなくて…)

湊は、小さくつぶやく。

「ちゃんとって、人によって違うんや」

それぞれの中で、

少しずつ、何かが変わっている。

誰かに言われたわけじゃない。

でも、確かに残っている。

――あの人が来ると、空気が変わる。

ふと、

同じ言葉が浮かぶ。

そして、もう一つ。

強くじゃなくていい。

押しつけなくていい。

ただ、

分かる形にするだけでいい。

――正論では、人は動かない。

静かな夜の中で、

それぞれが、同じことを思っていた。