あの人が来ると、空気が変わる―正論では、人は動かない―

夕方。

「宿題終わったの?」

キッチンから声をかけると、リビングのソファに寝転んだまま、恒一がちらっとこちらを見た。

「…まだ」

「まだって、もうこの時間だよ?」

テレビの音だけがやけに大きく響く。

陽菜は、スマホのインカメラを見ながら、前髪を指でくるくるといじっている。
小さく首をかしげて、角度を変えてはまた見つめる。

まるで、鏡とにらめっこしているみたいに。

湊は床に座ってゲーム。

誰も、動かない。

「ねえ、やることやってからにしようって言ってるよね?」

少し強めに言うと、

「わかってるって」

返事はする。
でも、動かない。

――なんで?

なんでこんな簡単なことができないの?

「宿題して、そのあとプラスアルファの勉強もやらないとでしょ?」

そう言った瞬間、

「……何それ」

恒一が顔をしかめた。

「プラスアルファって何やるの?」

言葉が詰まる。

「それは……自分で考えて……」

「何すればいいかわからんのに、やれって言われても無理やろ」

ピタッと空気が止まった。

正論だった。

でも――

「やらなきゃいけないでしょ!」

思わず強く言ってしまう。

その瞬間、空気が冷えた。

「……もういい」

恒一は目をそらして、またソファに沈んだ。

陽菜も、湊も、何も言わない。

ただ、誰もこちらを見なくなった。

――あぁ、まただ。

言えば言うほど、離れていく。

どうしたらいいの?

その時だった。

「ちょっといい?」

ふいに、玄関の方から声がした。

振り向くと、ひとりの女性が立っていた。

ラフな服装で、どこか柔らかい雰囲気。
でも、目だけはまっすぐだった。

「え…どちら様…?」

「たまたま通りかかっただけ」

にこっと笑う。

「なんかさ、“やれって言われてるのに動けない空気”だったから」

ドキッとした。

見抜かれてる。

女性は、子どもたちの方を見る。

「今のさ、“プラスアルファやりなさい”ってやつ」

子どもたちが少しだけ顔を上げる。

「何やればいいか分からんよね?」

恒一が、小さくうなずいた。

「ママもさ、正直決めれてないでしょ?」

「……はい」

思わず、素直に出た。

女性はふっと笑った。

「それなのに“やれ”って言われたら、そりゃ動けないよね」

誰も否定しない。

静かに、言葉が入っていく。

「ねえ」

女性は少ししゃがんで、子どもたちと目線を合わせた。

「勉強ってさ、“増やすこと”が目的じゃないんだよ」

みんなが、彼女を見る。

「“できることを増やす時間”」

一瞬、空気が止まった。

「だからさ、何するか分からんままやるのって、一番しんどい」

恒一の表情が、少しだけ変わる。

「じゃあどうするか」

女性は軽く手を叩いた。

「決めればいいんだよ。みんなで」

「……え?」

「今日、自分がやること。1個だけ」

子どもたちが顔を見合わせる。

「できるかどうかじゃなくて、“やりたいこと”でいい」

「やりたいこと…?」

「そう。例えば、計算でもいいし、漢字でもいいし、本でもいい」

少しずつ、空気が動き始める。

「じゃあ…」

恒一がぼそっと言った。

「計算のやつやる」

陽菜が、スマホから目を離して、少しだけ顔を上げる。

さっきまで自分の世界にいたはずなのに、今はちゃんとみんなの方を見ている。

「じゃあ私は…本読む」

湊が、

「ぼく、漢字書く」

小さく言った。

その瞬間――

さっきまで動かなかった空気が、ふっと変わった。

女性は美咲の方を見た。

「ね?」

その一言だけだった。

でも、全部伝わった。

――やらせるんじゃない。

――決めさせるんだ。

気づいた時には、

「それ、いいやん」

自然とそう言っていた。

子どもたちは、それぞれ自分の場所に行き始める。

さっきまであんなに動かなかったのに。

女性は立ち上がった。

「どうせやるなら、楽しい方がいいでしょ」

そう言って、くるっと背を向ける。

「ちょっと待って!」

思わず呼び止めた。

「あなた、誰なんですか?」

女性は振り返らずに、軽く手を振った。

「ただの、お助けマン」

玄関のドアが閉まる。

静かになったリビングで、

鉛筆の音だけが、コツコツと響いていた。