軋むような全身の痛みで、雫は目を覚ました。
「……っ……」
喉から小さな声が漏れる。
目を開けると、そこに広がっていたのは、埃っぽく、
静寂に支配された薄暗い部屋だった。
空気が重く、時間が止まってしまったみたいに、何も音がしない。
雫は額を押さえながら、ゆっくりと上体を起こす。
頭がぐらりと揺れ、視界が一瞬歪んだ。
(……ここ……)
ぼんやりとする意識の中で、思考を必死に繋ぎ止めようとした、
その瞬間。
脳裏に浮かんだのは――
切なげに微笑んだ、ルカの顔だった。
「……っ」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
次の瞬間、堰を切ったように記憶が流れ込んできた。
コマ送りみたいに、ひとつ、またひとつ。
二人で見た、あの夜空。
湖に映った月。
手を引かれて歩いた森の道。
――ボロボロになって倒れ込んできたルカ。
――この部屋に逃げ込んだ瞬間。
――必死に傷を治して、本音をぶつけ合って。
そして――
雫を隠すようにして、背を向けて歩いていった、あの後ろ姿。
「……ルカ……」
思い出せば思い出すほど、血の気が引いていくのが分かった。
手が震え、呼吸が浅くなる。
涙がぽろっと零れた。
次の瞬間、喉の奥がひくりと痙攣する。
「……うっ……」
胃の底から、込み上げてくる嫌な感覚。
「おぇっ……! う……ぇ……っ……」
雫は慌てて部屋の隅にうずくまり、そのまま吐いた。
喉が焼けるように痛み、身体が小さく震える。
頭の中にあるのは、ルカのことばかりだった。
――ルカはどこに行ったの?
――無事?
――まさか……捕まった?
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
胃の中が空っぽになるまで吐ききって、雫は荒い息のまま、袖で口元を
拭った。
涙と吐瀉物でぐしゃぐしゃになった袖を、それでも離せず、
口を押さえたまま立ち上がる。
足元がふらつく。
それでも、じっとしてはいられなかった。
「……ルカ……!」
掠れた声で名前を呼びながら、雫は部屋を出た。
扉の外は――
ひどく、荒らされていた。
家具は倒れ、床には割れた木片。
壁や床のあちこちが、不自然に濡れている。
(……これ……)
嫌な予感が、背筋を走る。
鼻をつく、微かに刺激的な匂い。
――聖水だ。
ぞっとして、雫はその場に立ち尽くした。
ここで、確かに“狩り”が行われたのだと、はっきり分かる痕跡だった。
ルカは、ここで――
その先を考えた瞬間、胸が張り裂けそうになり、雫は思わず息を詰めた。
玄関のドアは開きっぱなしだった。
嫌な予感が現実になる。
ドアの手前――
そこには、無数の血痕が飛び散っていた。
乾ききらない赤黒い跡。
引きずられたような線。
踏み荒らされた痕。
「…………」
雫は、言葉を失った。
膝から、すっと力が抜ける。
「……っ……」
へたりとその場に座り込み、床に手をついた。
もう枯れかけていたはずの涙が、また溢れ出してくる。
ぽた、ぽた、と。
血痕のそばに、透明な雫が落ちた。
体が、止まらず震える。
カタカタと、小刻みに。
呼吸が浅い。
吸っても、吸っても、空気が足りない。
(……どれくらい……寝てたんだろ……)
ぼんやりと、そんなことを考える。
ふと、顔を上げると。
窓の外には、眩しい陽光が差し込んでいた。
朝だ。
昨日の出来事は、夜。
ということは――
もう、少なくとも半日は経っている。
「……っ」
再び、吐き気が込み上げる。
喉の奥がきゅっと締まり、視界が歪む。
雫は必死にそれを飲み込み、壁に手をついて立ち上がった。
足がふらつき、何度もよろける。
それでも、止まれなかった。
開けっ放しのドアを、くぐる。
――外へ。
冷たい朝の空気が、肺に流れ込む。
それが、ひどく現実的で、残酷だった。
家の周囲にも、戦った痕跡は残っている。
折れた枝。
踏み荒らされた土。
けれど――
どこにも、ルカの遺体はなかった。
(……ない……)
胸の奥で、何かがわずかに灯る。
――ということは。
きっと、まだ生きている。
大丈夫。
大丈夫だ。
自分に、何度も言い聞かせる。
そうじゃないと、立っていられなかった。
町へ行けば、きっと会える。
捕まっているとしても、まだ、間に合う。
雫は、記憶を手繰り寄せる。
あの時、ルカと歩いた道。
森を抜けた先にあった、町の方向。
うろ覚えのままでも、構わなかった。
「……待ってて……」
小さく呟いて、雫は歩き出す。
震える足で。
それでも、前へ。
朝の光の中へ。
雫は、ひたすらに走り続けた。
肺が焼けるように痛くても、
足が重くなって感覚が鈍っても、
立ち止まるという選択肢は、最初からなかった。
息を切らしながら、それでも走り続けて――
どれくらいの時間が経ったのか、もう分からない。
来る道中で、何度も転んだ。
躓いて、地面に叩きつけられては、また立ち上がる。
服は泥だらけ。
膝も、手のひらも、擦り傷だらけ。
それでも、痛みを気にする余裕なんてなかった。
やがて――
木々の隙間から、町の輪郭が見えてきた。
「……っ」
かつて、雫が逃げ出してきた場所。
残酷で、冷たくて、思い出すだけで胸が痛くなる場所。
それでも。
雫は一度、大きく息を吸い込んだ。
震える肩を、ぎゅっと引き締める。
「……大丈夫……」
自分に言い聞かせるように呟いて、そのまま走った。
森を抜けて、町へ。
視界が一気に開ける。
石畳の道。
建物が立ち並び、朝の光に照らされる広場。
人、人、人。
町の広場らしき場所に出た瞬間、雫は足を止めかけた。
沢山の人々が行き交い、話し、笑い、荷を運ぶ。
日常が、何事もなかったかのように流れている。
その中で――
雫だけが、ひどく浮いていた。
すれ違う人、すれ違う人が、雫を怪訝そうに見る。
汚れた服。
傷だらけの身体。
息を切らし、涙の跡が残る顔。
ひそひそと、囁く声。
視線が、突き刺さる。
(……ルカ……)
雫は俯きながら、必死に町を歩き回った。
生まれてから今まで、町の奥に来たことなんて一度もなかった。
どこに何があるのかも、誰に聞けばいいのかも分からない。
闇雲に、ただ足を動かす。
けれど――
見つかるのは、商店や八百屋、市場の露店ばかり。
野菜を並べる人間。
値段を交渉する声。
どこにも、ルカの姿はない。
「……どこ……?」
掠れた声が、雑踏に消える。
胸の奥に、焦りが広がっていく。
時間が、無情に過ぎていく感覚。
(……お願い……)
雫は唇を噛みしめ、再び歩き出した。
まだ、諦めるわけにはいかなかった。
しばらく町を散策していると、いくつかの声が耳に入った。
八百屋の店主と買い物客の会話。広場でたむろする主婦たちの雑談。
その雑談の中で、不意に「銀髪の吸血鬼」という単語が
耳に飛び込んできた。
声の主は、すぐそばにいる主婦たちだった。
雫の胸が一気に高鳴った。
思わず足が前に出る。
勢いそのままに、駆け寄ると、声を震わせながら問い詰めた。
「その吸血鬼って、今どこに――!」
あまりの剣幕に、主婦たちは一瞬ぽかんと呆けた。
しかし、互いに目を合わせ、しばらく躊躇したあと、
タジタジとした様子で答えた。
「きっ、昨日の夜に自衛団が捕獲して……
今は地下牢に拘束されているらしいけど……」
雫はさらに身を乗り出して食い下がる。
「地下牢ってどこにありますか!?」
もう一人の女性が、少し声を潜めて答える。
「すぐそこの曲がり角を曲がったところにある教会の地下よ。
吸血鬼は、一人で逃げ出せないように神の加護下にある教会で拘束して
おくのが決まりなの。
それよりあなた......その怪我は――」
しかし、雫はそれを遮るように頭を下げ、声を震わせながら言った。
「ありがとうございました!!」
その言葉と同時に、言葉の続きを聞くこともなく、雫は教会の地下牢へ
向かうべく、曲がり角に向かって全力で走り出した。
* * *
教会の扉を押し開けた瞬間、雫は思わず息を止めた。
――静かすぎる。
人の気配が、ない。
長椅子が整然と並び、色の褪せたステンドグラスから差し込む光が、
床に淡く広がっている。
けれどそこには、本来あるはずの祈りの気配も、
生活の温度もなかった。
ただ、冷たい。
張り詰めた空気だけが、そこにあった。
「……」
雫はゆっくりと足を踏み入れる。
石床に靴音が響くたびに、自分の存在が暴かれていくようで、
心臓が嫌に大きく鳴った。
(……地下……だっけ)
言われた言葉を思い出し、視線を巡らせる。
やがて、祭壇の脇に――
地下へと続く、細い石の階段を見つけた。
迷っている時間はない。
雫は息を呑み、そのまま階段へと足をかけた。
一段、また一段と降りるごとに、
空気がひやりと冷たくなっていく。
湿った石の匂い。
どこか鉄のような、鼻を刺す匂いが混じる。
(……いやだ……)
胸の奥がざわつく。
けれど、足は止まらない。
――ルカが、いる。
それだけが、雫を前に進ませていた。
やがて階段を降りきると、
細い通路が奥へと伸びていた。
壁に取り付けられた松明が、ゆらゆらと揺れている。
その頼りない光の中で――
人影が、一つ。
通路の奥。
鉄格子の前に、腕を組んで立つ中年の兵士。
無骨な体つき。
日に焼けた肌。
腰には剣。
明らかに、“見張り”だった。
雫は咄嗟に足を止める。
心臓が、喉元までせり上がる。
(どうする……どうするの……)
頭が真っ白になる。
逃げる?
隠れる?
戻る?
――違う。
ここまで来て、引き返す選択なんてない。
雫はぎゅっと拳を握りしめた。
その視線の先――
兵士の向こう側。
鉄格子の奥に、影がある。
ぐったりと、壁にもたれかかるように座り込んでいる人影。
その姿を見た瞬間、時間が止まった。
「……っ」
息が、止まる。
――ルカ。
青ざめた顔。
閉じかけた瞳。
乱れた銀の髪。
身体中に走る、焼けただれた痕。
裂けた衣服の隙間から覗く皮膚は、ところどころ黒く焦げ、
聖水によるものだと一目で分かった。
鎖が、両手首を拘束している。
逃げ場なんて、どこにもない。
「……ルカ……」
声にならない声が、唇から零れた。
その瞬間だった。
「――誰だ」
低く、鋭い声。
兵士が振り向く。
ぎろりとした視線が、まっすぐ雫を射抜いた。
空気が、一気に張り詰める。
「……こんな場所に、何の用だ」
ゆっくりと一歩、兵士が踏み出す。
靴音が、やけに重く響いた。
雫の喉が、ひくりと震える。
それでも――
視線だけは、逸らさなかった。
その奥にいる、ルカから。
目を、離せなかったから。
「……その人に、用があるの」
震える声。
けれど、その中に確かな意志が混じる。
兵士の眉が、わずかに動いた。
「……この“怪物”にか?」
吐き捨てるような声音。
その言葉に――
雫の中で、何かがはっきりと変わった。
ゆっくりと、顔を上げる。
涙の跡が残る頬のまま、
真っ直ぐに兵士を見据えて――
はっきりと言い切った。
「怪物じゃない」
一歩、前へ出る。
「その人は――」
息を吸う。
胸の奥から、言葉を引きずり出す。
「私の、大切な人です」
地下の冷たい空気が、
ぴたりと止まったような気がした。
兵士の前に立つ雫の声が、地下に静かに落ちた、
その瞬間――
かすかな物音が、鉄格子の奥から響いた。
「……っ」
ぐったりとしていたはずのルカの指先が、微かに動く。
ゆっくりと。
重たい瞼が、持ち上がった。
焦点の合わない赤い瞳が、彷徨うように揺れ――やがて、
雫の姿を捉えた。
「……し、ず……く……?」
掠れた声。
喉が焼けたようにひどく弱々しい。
その瞬間、ルカの目がはっきりと見開かれた。
「――っ、なんで……来た……!」
身体を起こそうとして、鎖ががしゃりと音を立てる。
力が入らず、すぐに崩れ落ちるように壁にもたれた。
それでも、必死に顔を上げる。
「来るな……っ、帰れ……!」
呼吸を乱しながら、声を絞り出す。
「お前が……ここにいたら……っ、意味、ねぇだろ……!」
その声は怒鳴り声でもなく
ただ必死に“遠ざけよう”とするものだった。
自分のためじゃない。
雫のために。
それが分かるからこそ――
雫の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……」
けれど。
雫は、一瞬も視線を逸らさなかった。
ルカの言葉に、揺れることもなく。
ただ、まっすぐに彼を見つめたまま――
ゆっくりと、首を横に振る。
「やだよ」
小さな声。
でも、それは驚くほどはっきりしていた。
「帰らない」
その一言で、すべてを拒絶する。
ルカの息が詰まる。
「……っ、なんで……っ」
絞り出すような声。
その問いに、雫は答えなかった。
代わりに――
くるりと向きを変える。
目の前に立つ、兵士へと。
そして――
深く、深く頭を下げた。
「……お願いします」
声が震える。
それでも、言葉は途切れない。
「その人を……ルカを、解放してください」
地下の空気が、しんと静まり返る。
兵士は無言で、雫を見下ろしている。
雫は頭を下げたまま、動かない。
「この人は……誰も傷つけてないんです」
必死に、言葉を紡ぐ。
「私に優しくしてくれただけで……っ、何も悪いことなんて……」
声が、少しずつ掠れていく。
それでも。
「お願いです……!」
ぎゅっと拳を握りしめる。
「この人は、怪物なんかじゃない……!」
床に落ちるほど深く頭を下げたまま、
震える声で、叫ぶように言った。
「ただの……優しい人なんです……!」
沈黙。
松明の火が、ぱちりと小さく弾ける音だけが響く。
やがて――
兵士が、ゆっくりと息を吐いた。
「……顔を上げろ」
低い声。
命令だった。
雫の肩が、びくりと震える。
それでも、ゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、まっすぐ兵士を見た。
その視線を受けて、兵士はほんのわずかに目を細める。
そして――
ちらりと、牢の中のルカへ視線を向けた。
ぐったりとしたまま、
それでも必死に雫を見つめる赤い瞳。
守ろうとしている目だ。
兵士は再び、雫へと視線を戻す。
「……お前は」
低く、問いかける。
「これが“何か”分かって言ってるのか?」
一歩、近づく。
重い足音。
「こいつは吸血鬼。」
言葉を区切るように、はっきりと。
「人の血を啜る化け物だ」
地下の空気が、さらに冷たくなる。
「情けをかける価値なんてねぇ存在なんだよ」
突き放すような声。
その言葉に――
ルカの瞳が、わずかに揺れた。
否定もできず、
ただ歯を食いしばることしかできない。
けれど。
雫は――
一歩も、引かなかった。
「知ってます」
即答だった。
迷いのない声。
兵士の眉が、ぴくりと動く。
「それでも」
雫は、はっきりと言い切る。
「この人は、私にとって大切な人です」
一歩、前へ。
「どんな存在でも関係ない」
涙を拭うこともせず、
真っ直ぐに見据える。
「私は、この人を信じてるから」
その言葉が、地下に強く響いた。
兵士は、しばらく雫を見下ろしていた。
長い沈黙。
松明の火が、鉄格子の影を揺らし続ける。
やがて――
「……はぁ」
深く、重いため息が落ちた。
まるで何かを諦める音だった。
雫が息を呑む。
ルカの視線も、兵士に向く。
兵士はゆっくりと腰の鍵束に手を伸ばした。
じゃら、と金属が擦れる音。
そのまま、何の迷いもなく鉄格子へと歩み寄る。
「……おい」
ルカの掠れた声が、かすかに漏れる。
だが兵士はそれを無視するように、鍵穴へ鍵を差し込んだ。
カチャリ。
乾いた音が、地下に響く。
次の瞬間――
重い鉄の扉が、ゆっくりと開いた。
「……っ」
雫の喉が、ひゅっと鳴る。
信じられない光景だった。
さっきまで“絶対に開かないもの”だったはずの牢が、
今、目の前で開いている。
兵士は鍵を抜き取りながら、ぽつりと呟いた。
「……これで、俺の人生は終わったな」
自嘲気味の笑み。
乾いた、投げやりな声だった。
ルカが、警戒するように身を起こす。
鎖が、ぎしりと鳴った。
雫は呆然と、その場に立ち尽くしていた。
兵士はそんな二人を一瞥すると、肩をすくめる。
「勘違いするな」
淡々とした声。
「情けをかけたわけじゃねぇ」
一歩、牢の外へ退く。
「かといって、上からの命令でもねぇ」
もう一歩。
「ただ……」
そこで一度言葉を切る。
松明の光が、兵士の横顔を照らした。
「もう、どうでもいいと思っただけだ」
その言葉には、疲れが滲んでいた。
兵士は雫の方を見た。
まっすぐではない。
どこか投げやりで、突き放す視線。
「ここを出たあとのことは知らん」
低く、はっきりと言う。
「助けてもやれないし、助けるつもりもない」
一瞬だけ、視線がルカに向く。
「せいぜい頑張れ」
それだけ言って、兵士は踵を返した。
鎧が擦れる音。
遠ざかっていく足音。
雫は、何も言えなかった。
ただ、開かれた鉄格子の前に立ち尽くす。
ルカもまた、動かない。
静寂。
地下の空気だけが、重く流れていた。
やがて――
雫が、小さく息を吐いた。
震える手を握りしめる。
ゆっくりと、ルカの方へ一歩踏み出す。
「……ルカ」
掠れた声。
その声に、ルカの瞳がわずかに揺れた。
「……ルカっ!!」
雫の声が、地下に響いた。
次の瞬間、雫は鉄格子の中へと駆け込んでいた。
「来るな……っ」
ルカの掠れた制止の声も、もう届かない。
雫は膝をつき、震える手で鎖に触れる。
冷たい鉄。
でも迷いはなかった。
「今、外すから……っ!」
小さな鍵穴に指先を滑らせるようにして、
必死に手を動かす。
ガチャリ。
何度も失敗しながら、それでも――
ついに、鎖が外れた。
金属音が、静かな地下に落ちる。
その瞬間。
ルカの身体が、力を失うように崩れかけた。
「っ……!」
雫は反射的にその身体を支える。
思っていた以上に重い。
それでも、絶対に落とさないように腕に力を込めた。
「大丈夫……大丈夫だから……!」
誰に言うでもなく、必死に繰り返す。
ルカは息を荒くしながら、かすかに雫を見た。
「……来るなって……言った、だろ……」
それは怒りでも責めでもなく、
ただ、力のない声だった。
雫は答えない。
代わりに、肩を支えたまま立ち上がる。
「帰ろう」
短く、それだけ。
ルカの返事を待たずに、雫は一歩を踏み出した。
第五章 この感情の名前は✗✗
教会を出たとき、外の空気はやけに冷たかった。
朝でも昼でもない、曖昧な光。
人の気配がない道を選びながら、
雫はルカを支えたまま歩き続ける。
「……っ、は……」
ルカの呼吸が浅い。
時々、足がふらつく。
そのたびに、雫は強く支え直した。
何も言わない。
何も聞かない。
ただ、「安全な場所」を探すことだけに集中していた。
町の外れへ。
人の視線のない路地へ。
どこでもいい。
とにかく、今はここじゃない場所。
そうして、気づけば――
石壁に囲まれた細い路地裏にたどり着いていた。
人気はない。
光もほとんど差し込まない。
雫はそこでようやく足を止める。
「……ここで、少し休もう」
そう言って、ゆっくりとルカを座らせる。
自分もその隣にしゃがみ込んだ。
荒い呼吸。
汗と血の匂い。
静かなのに、やけに遠くで世界が鳴っているような感覚。
雫は膝を抱えるようにして座り、
ルカの様子をじっと見た。
まだ、終わっていない。
ただ――
今は、少しだけ呼吸できる場所にいる。
それだけだった。
雫は路地裏に膝をついたまま、ルカの顔を見上げた。
呼吸はまだ荒く、視線もどこか定まらない。
それでも――彼は必死に、雫から離れようとしていた。
「……もう、いい」
かすれた声。
ルカは腕に力を入れ、立ち上がろうとする。
だが、その動きはすぐに崩れかけた。
雫は反射的にその肩を支える。
「……いいって、言ってるだろ」
「よくない」
即答だった。
雫は迷いなくルカを見据える。
そして、震える息を一度だけ吐いて――
両手をルカの傷にかざした。
淡い光が、ふわりと灯る。
「っ……やめろ……!」
ルカの声が跳ねる。
「それは……使うなって……!」
雫の手首を、弱い力で掴もうとする。
でも、その力すら途中で途切れる。
雫は目を逸らさなかった。
「使うよ」
静かな声。
「このままじゃ、ルカ逃げられないでしょ」
ルカの瞳が揺れる。
「逃げる必要なんて――」
「ある」
きっぱりと遮る。
雫の声は、思っていたよりも強かった。
「ルカは私と一緒に逃げるの。」
一瞬の沈黙。
雫は言葉を続ける。
「今のルカじゃ、歩くだけでも限界だよ」
ルカの唇が、わずかに震える。
否定しようとして――できない。
現実だった。
雫はその間に、そっと彼の腕に触れた。
「だから、治す」
「……っ、雫……」
「お願い。動かないで」
その言葉は、命令じゃなかった。
祈りに近かった。
ルカは一瞬だけ目を閉じる。
苦しそうに、歯を食いしばる。
それでも――抵抗する力は、もうほとんど残っていなかった。
雫は静かに治癒を始めた。
光が、傷に触れていく。
焼けただれた皮膚が少しずつ塞がり、
裂けた痕が薄れていく。
ルカの身体が、わずかに強張る。
痛みではない。
“何かを受け取ること”そのものに、慣れていない反応だった。
「……なんで」
ルカがぽつりと漏らす。
「なんで、そこまでする」
雫は答えず、ただ手を動かし続ける。
光がまた一つの傷を覆う。
「こんな怪我じゃ、逃げられないから」
ようやく、静かに言った。
ルカの呼吸が止まる。
雫は続ける。
「また、捕まることになる」
少しだけ視線を上げる。
真っ直ぐ、ルカを見る。
「それは嫌」
一拍。
「だから治すの」
風が、路地を抜けていく。
その音だけがやけに大きい。
ルカは何も言えなかった。
掴もうとしていた手が、ゆっくりと下がる。
雫はそのまま、最後の傷に手をかざした。
光が静かに収束していく。
ルカの呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いた。
それでもまだ――完全じゃない。
ただ、動ける程度には戻っている。
雫は手を下ろし、小さく息を吐いた。
「……まだ痛い?」
ルカはすぐには答えない。
しばらくして、かすれた声が落ちる。
「痛くは……ねぇけど.....」
それは、弱い戸惑いだった。
雫は少しだけ笑った。
「良かった」
ルカの視線が、わずかに揺れる。
雫は立ち上がる。
そして、自然な動きでルカの腕を支えた。
「立てる?」
「……ああ」
ルカはゆっくりと立ち上がる。
まだふらつく。
でも、さっきよりは確かにマシだった。
雫はその横に立ち、短く言う。
「行こ」
ルカが横目で雫を見る。
何か言いかけて――やめた。
ただ小さく息を吐く。
「……そうだな」
雫は一歩踏み出した瞬間、遅れてやってきた痛みに顔を歪めた。
「っ……」
治癒の反動。
さっきまでルカの傷に流し込んでいた力が、
今度は自分の内側に跳ね返ってくる。
身体の奥がじわじわと焼けるように痛む。
それでも雫は、止まらなかった。
「……大丈夫」
誰に向けるでもなく呟いて、強引に足を動かす。
ルカが横目でそれを見た。
「……おい」
低い声。
雫は答えないまま、前だけを見る。
「雫」
もう一度呼ばれる。
それでも雫は走り出した。
森の方へ。
痛みを振り払うように、ただ足を動かす。
ルカが舌打ちを一つして、その後を追う。
「……無茶すんな」
「無茶じゃない」
即答。
呼吸が荒いまま、それでも雫は走り続けた。
石畳の道を抜けると、空気が変わる。
人の気配が薄れていく。
やがて――
木々の境界線を越えた。
森。
ざわ、と風が葉を揺らす音が、やけに大きく感じる。
雫はそこでようやく足を止めた。
「……はぁ……っ」
膝に手をついて呼吸を整える。
ルカも少し遅れて立ち止まり、周囲を見渡した。
しばらく、沈黙。
森の中は静かだった。
だが、それは“安全”の静けさではない。
逃げてきただけだ。
ただ、それだけ。
雫はゆっくり顔を上げた。
「……ここまで来れば、大丈夫……?」
その問いは、ルカに向けられていた。
ルカはすぐには答えなかった。
少しの間、空を見上げる。
そして、低く言う。
「……いや」
雫の胸が、わずかに跳ねる。
ルカは視線を森の奥へ落としたまま続けた。
「もう、家には戻れないだろうな」
「……え?」
雫の声が小さく漏れる。
ルカは淡々と続ける。
「俺が脱走したのがバレた時点で、あの家は調べられる」
一拍。
「真っ先に潰される可能性が高い」
雫の顔がこわばる。
「そんな……」
ルカはそこでようやく雫を見る。
「だから戻れねぇ」
短く、断言だった。
雫は唇を噛む。
さっきまで“帰る場所”だったはずの家が、
もう戻れないものになっている。
現実が一気に重くなる。
「じゃあ……どうするの」
小さな声。
ルカは腕を組み、森の奥を見たまま答えない。
雫はもう一度聞く。
「どこに行けばいいの……?」
沈黙。
風が葉を揺らす音だけが続く。
ルカがようやく口を開いた。
「……わかんねぇ」
その一言に、雫は息を止めた。
ルカは続ける。
「俺は今まで“逃げる側”じゃなかった」
淡々とした声。
「だから、逃げる先なんて考えたこともねぇ」
雫はゆっくりと視線を落とす。
現実だった。
勢いでここまで来た。
助けて、逃げた。
でも――その先は、何もない。
静かな焦りが、森の空気に溶けていく。
しばらくの沈黙のあと。
雫が小さく言った。
「……じゃあ、考えよう」
ルカの視線が動く。
雫は顔を上げる。
まだ痛みは残っている。
呼吸も安定していない。
それでも、目はまっすぐだった。
「ちゃんと……考えればいい」
ルカはしばらく黙って雫を見ていた。
そして――小さく息を吐く。
「……楽観的すぎるだろ」
雫は少しだけ笑う。
「今さらでしょ」
一瞬の間。
ルカは視線を逸らす。
「……はぁ」
呆れたような、諦めたような息。
それから低く言った。
「とりあえず……ここは危ねぇ」
森の奥を見ながら続ける。
「追ってが来る可能性もある」
雫も森を見た。
静かすぎる森。
安全ではない静けさ。
「……移動する?」
ルカは一瞬考えてから頷く。
「そうだな」
短く。
雫は深く息を吸った。
そして一歩踏み出す。
「じゃあ、行こ」
ルカが横目で見る。
「どこにだ?」
雫は少しだけ考えて――
「森の中。」
そう言って歩き出した。
ルカはフッと笑って小さく肩をすくめる。
「無茶苦茶だな」
その言葉には、もう拒絶はなかった。
森の、行ったことがないくらい、奥の奥に進んでいくと、
やがて大きめの洞窟のようなものが見えてきた。
洞窟の入口は、森の奥でぽっかりと口を開けている。
二人は中へと足を踏み入れ、
しばらく進んだところでようやく腰を下ろした。
岩肌に背を預けたルカは、ゆっくりと息を吐く。
「……はぁ」
その吐息は、今まで張り詰めていたものが全部抜け落ちたみたいに、
どこか幼くすら聞こえた。
雫は隣に膝をつき、そっとルカの顔を覗き込む。
さっきまでの鋭さも、警戒も、痛みに耐える険しさも、
もうそこにはない。
代わりにあったのは――
少し力の抜けた、頼りないくらい静かな表情だった。
「……ルカ?」
雫が小さく呼ぶと、ルカはゆっくり視線を上げた。
赤い瞳はまだ疲れているのに、どこか柔らかい。
「……ここまで来りゃ……とりあえずは、平気か」
「平気っていう顔じゃないよ」
雫はすぐにそう返して、苦笑いに近い息をこぼした。
ルカは一瞬だけ黙って、それから少しだけ視線を逸らす。
「……巻き込んで悪かった」
「それ、言うの何回目?」
「……数えてねぇ」
「じゃあ、これからは数えて。
今だけでも10回以上言ってるから。」
雫の言葉に、ルカはぽかんとした顔をした。
その反応が少しおかしくて、雫はほんのわずかに肩の力を抜く。
「……なんだそれ」
「もう謝らないでってこと。
私が自分から巻き込まれに行ったんだから。」
短いやり取りのあと、ほんの少しだけ沈黙が落ちる。
洞窟の奥で、水滴がぽたりと落ちる音がした。
その音がやけに大きく響くくらい、外は静かだった。
雫はゆっくりと息を吸って、ルカの腕にそっと触れる。
まだ傷は完治していない。
聖水の焼け跡も、動くたびに痛みを呼び起こしているのが分かる。
「……もう少し、治すね」
そう言って手を伸ばそうとした瞬間、
ルカの指が雫の手首を軽く掴んだ。
「……いい」
低い声だったけれど、もう命令みたいな強さはない。
ただ、少しだけ弱い。
「言っただろ。
それを使うのは……もうやめろ」
雫は一瞬だけ固まって、それから静かに首を振る。
「やめない」
「雫」
「だって、ルカが動けない方が危ない」
言い切ると、ルカは何か言い返そうとして――やめた。
代わりに、困ったように眉を寄せる。
「……ほんと、勝手だな」
「お互い様でしょ」
その言葉に、ルカの口元がほんの少しだけ緩む。
それは、かすかで、でも確かに“いつものルカ”だった。
雫はその変化に気づいて、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「……ここ、しばらく隠れられそうだね」
「ああ。日も入らねぇしな」
ルカは天井を見上げる。
岩の隙間から、かすかな外光が揺れているだけだった。
「でも油断すんなよ。いつ見つかってもおかしくねぇ」
「うん」
雫は短く返事をして、少しだけ距離を詰める。
肩が触れるか触れないかの位置。
それでも、今はそれがちょうどいい距離だった。
ルカはその気配に気づいて、少しだけ目を伏せる。
「……なぁ」
「なに?」
一瞬、空気が変わる。
ルカの声が、少しだけ小さくなった。
「なんで、来たんだ?」
雫は即答しなかった。
ほんの少しだけ考えて、それから静かに言う。
「ルカがそこにいたから」
「……それだけか?」
「それだけだよ」
迷いのない声だった。
ルカはそれを聞いて、目を閉じる。
「……すげぇな。」
「そうかな」
少しだけ間があって――
ルカは、ほんの小さく息を吐いた。
「……ありがとな。」
その一言は、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。
けれど雫には、ちゃんと届いた。
雫は何も言わずに、そっとルカの手に触れる。
今はまだ、外の世界は遠い。
追われている現実も、危険も、消えたわけじゃない。
それでもこの洞窟の中だけは、ほんの一瞬だけ――
二人の呼吸だけが、静かに重なっていた。
雫は、最初はただの「疲れ」だと思っていた。
聖水の傷もある。
逃亡の緊張もある。
ここまで無理をしてきたのだから、当然だと。
けれど――時間が経つほどに、その認識はゆっくりと崩れていった。
「……ルカ?」
声をかけても、返事が遅い。
ルカは岩に背を預けたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
肩が上下するたびに、どこか苦しそうに歪む。
さっきまで少しだけ戻っていたはずの表情が、
また別の意味で崩れていく。
青白い。
明らかに、さっきよりも。
雫の胸に、嫌な記憶が引っかかった。
――吸血鬼は、人の血肉を取り込まないまま
人間の側にいると衰弱する。
森での生活の中で、ルカが言っていたことだ。
その意味を、今になってようやく理解する。
「……ルカ」
雫はそっと近づき、膝をつく。
指先で手を握ると、そこにあったのは“体温”というより、
ただの熱の残り火みたいなものだった。
さっきまで確かにあったはずの、安定した温度がない。
「……ねぇ、これ……」
言いかけて、雫は言葉を飲み込む。
ルカは薄く目を開ける。
焦点は合っていない。
それでも、雫の声には反応している。
「……離れろ」
掠れた声だった。
命令というより、押し殺した本音みたいな響き。
雫は一瞬、意味が分からなかった。
「え……?」
「……このままだと……お前を、噛むかもしれない。」
ルカは言いながら、自分の腕で額を押さえる。
苦しそうに、歯を食いしばっている。
「それは……ダメだ」
雫の手が、強く握り返される。
弱い力なのに、拒絶の意思だけははっきりしていた。
(……血、足りてないんだ)
逃げることに必死で。
治療に必死で。
“生き延びること”ばかりに意識が向いていて。
その根本を、見落としていた。
雫は唇を噛む。
「……ごめん、気づかなくて」
さっとルカが眉間にシワを寄せた。
「……やめろ。違う」
ルカは短く否定する。
呼吸が乱れているのに、声だけは妙に鋭い。
「お前が悪いとかじゃねぇ」
一度、言葉を切る。
喉の奥で何かを飲み込むみたいに。
「……そういうつくりしてる俺の身体が悪い。」
その一言に、雫は息を止める。
ルカはゆっくりと目を閉じる。
「人間のそばにいるだけで……こうなる」
「じゃあ……どうすればいいの」
雫の声は震えていた。
ルカは答えない。
答えられない。
沈黙が落ちた。
洞窟の奥で、滴る水の音だけがやけに大きく響く。
雫は視線を落とし、自分の手を見つめた。
(血……)
その単語が、喉の奥で重く引っかかる。
雫は迷わなかった。
それは“思いつき”というより、もっと単純な結論だった。
目の前で弱っている。
それを回復させる手段がある。
なら、それをしなきゃ。
ただそれだけ。
震えも、躊躇もほとんどないまま、雫は腕をまくった。
白い肌が露わになる。
そして、そのままルカの口元へ差し出した。
「……飲んだら、治るんでしょ」
静かな声だった。
感情を押し殺しているわけでもない。
ただ、“当然のこと”として言っている。
「だったら、飲んで」
洞窟の空気が、少しだけ変わる。
ルカの呼吸が一瞬止まった。
薄く開いた赤い瞳が、雫の腕を見たまま動かない。
理解が追いついていないというより――
理解したくない、という沈黙だった。
「……お前」
掠れた声。
それ以上、続かない。
雫は一歩も引かない。
その目は真っ直ぐで、揺れていない。
怖さも、痛みの想像も、そこにはほとんどなかった。
ただ“ルカを助けるための選択”だけが、そこにある。
ルカはゆっくりと顔を背けた。
「……何いってんだ」
吐き捨てるような言葉なのに、力がない。
「……ダメに決まってんだろ」
雫は首を傾げる。
「なんで?」
本気で分かっていない声だった。
「ルカは血を飲んでないからこうなってるんでしょ」
腕を少しだけ近づける。
「じゃあ、必要じゃん」
その言葉に、ルカの表情がわずかに歪む。
痛みとは別の種類のものだった。
「……必要とかじゃねぇ」
「じゃあなに」
即座に返す雫。
ルカは答えない。
答えられない。
喉の奥で言葉が詰まる。
その間にも、雫の腕はそこにある。
“助けるための手段”として、まっすぐに差し出されたまま。
ルカは、かすかに笑いそうになって――やめた。
「……お前、ほんとに分かってねぇな」
「分かってるよ」
即答。
「ルカが苦しいのは分かる」
一拍置いて、雫は続ける。
「それを止める方法があるなら、できる限りしてあげたい」
あまりにも単純で。
あまりにも迷いがない。
ルカの指が、微かに震えた。
それは拒絶でも、同意でもない。
ただ、どうしていいか分からない動きだった。
「……やめろ」
それだけを、もう一度言う。
今度は少しだけ、弱く。
雫はそれでも腕を引かない。
ただ静かにそこにいる。
まるで、“待っている”みたいに。
ルカの呼吸が、少しずつ乱れる。
理性と本能の間で、何かがきしむ音がする。
やがて――
ルカは、かすかに顔を上げた。
その目は、雫ではなく腕を見ている。
そして、小さく、息を吐いた。
「……痛いと思ったら、すぐ突き飛ばせ。」
それは警告だった。
拒絶ではなく、限界の線だった。
雫はほんの少しだけ目を細める。
「うん」
即答。
「分かった」
その瞬間、ルカの手が動いた。
雫の腕に、そっと触れる。
それは獣のようなものでも、理性のない衝動でもなかった。
壊れそうなほど慎重で。
それでも、抗えないほど必然的な動きだった。
牙が、そっと沈む。
強く噛み裂くようなものではなく、ためらいが混じった、
ぎりぎりまで抑え込まれた動きだった。
雫は一瞬だけ肩を強ばらせる。
「……っ」
思っていたほどの痛みはない。
鋭い衝撃というより、熱がゆっくりと流れ込んでいくような
感覚だった。
けれど、それよりも先に胸に残ったのは別のものだった。
ルカの顔だ。
目を閉じ、眉を寄せ、歯を食いしばるその表情。
まるで、自分の行為そのものに耐えているみたいな顔。
(……ルカ)
その顔のほうが、痛い。
雫は腕を動かさないまま、ただじっと見ていた。
血が抜けていく感覚は、はっきりとした恐怖にはならなかった。
体の奥の何かが、静かに緩んでいく。
力が抜け、頭の奥が少し遠くなる。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
ルカが、そこにいる。
その一点だけが、雫の中で確かに残り続けていた。
ルカの呼吸が、少しずつ変わる。
さっきまで乱れていた息が、ゆっくりと整っていく。
顔色も、ほんのわずかに戻っていくのが分かった。
(……戻ってる)
その事実だけが、静かに胸へ落ちていく。
怖さは完全には消えない。
けれどそれよりも、安堵のほうが大きくなっていく。
ルカが生きている。
それが目に見える形で戻ってくる。
やがて、牙が静かに離れた。
「……っ」
遅れて、腕に熱と痛みが戻る。
雫が小さく息を吐くのと同時に、ルカの顔がゆっくりと上がった。
息はまだ荒い。
それでも、さっきよりは確かに“戻ってきている”顔だった。
ただ、その瞳はすぐに雫を見て――
強く揺れた。
苦しさと、怒りと、言葉にならない感情が混ざっていく。
ルカは、しばらく動けなかった。
雫の腕から離れたまま、視線だけがそこに縫い付けられている。
その表情は、もう“回復した吸血鬼”のものではなかった。
むしろ逆だった。
苦しそうで、悔しそうで、何かを必死に押し殺している。
「……悪かった」
掠れた声。
それが、ようやく絞り出した最初の言葉だった。
雫は一瞬、きょとんとする。
「……なにが?」
ルカは顔を伏せる。
雫の腕に残る痕を見るのが耐えられないみたいに。
「……お前を、傷つけた」
言葉を吐くたびに、自分の中の何かが削れていくようだった。
「俺は……こういう存在だ」
声が震える。
「人の血を取って、その犠牲の上でやっと成り立つ存在。」
そこで一度、息が途切れる。
歯を食いしばる音が、静かな洞窟に小さく響いた。
「……最低だろ」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
自分自身に向けた、断罪だった。
雫は、その言葉を聞いたまましばらく黙っていた。
そして――
ゆっくりと立ち上がる。
ルカの前にしゃがみ込む。
「ルカ」
呼ぶ声は、いつもと変わらない。
「...........」
ルカは顔を上げない。
その瞬間だった。
雫は、何も言わずにルカの腕を引いた。
ぐ、と軽い力で引き寄せる。
「……っ」
ルカの身体が一瞬揺れる。
次の瞬間――
雫はそのまま、ルカを抱きしめた。
強く、でも乱暴じゃない。
逃がさないためじゃなく、“ここにいていい”と伝えるみたいな
抱きしめ方だった。
「……え」
ルカの声が止まる。
雫は、少しだけ笑う。
それは軽い笑いじゃない。
あたたかい、当たり前みたいな笑みだった。
「痛くなんてなかったよ」
即答だった。
ルカの肩が、微かに震える。
雫は続ける。
「それにさ」
少しだけ抱きしめる力を強くする。
「私はルカに無理させるほうが、よっぽど嫌」
ルカの息が止まる。
雫は、当たり前みたいに言葉を重ねていく。
「私がルカの役に立てるなら、それでいいよ」
「……」
「それでルカが楽になるなら」
少しだけ間を置いて。
「血なんて、いくらでもあげる」
その一言に、ルカの身体が完全に固まる。
時間が止まったみたいだった。
ルカは、ようやく小さく声を絞り出す。
「……やめろ」
でもその声には、もう強さがなかった。
雫は離れない。
「やめない」
即答。
ルカの肩に顔を少しだけ寄せる。
「ルカが生きてるほうがいい」
それだけが、理由だった。
ルカの手が、空中で一瞬だけ迷う。
触れていいのか分からないまま、宙に浮いた指先。
やがて――
そっと、雫の背に触れる。
ほんの少しだけ。
壊れ物に触れるみたいな、弱い力だった。
「……お前、ほんとに」
言葉が続かない。
雫はそのまま、少しだけ笑う。
「うん?」
ルカは目を閉じる。
それから、かすかに吐き出すように言った。
「……ずるいな」
その声は、もう責めではなかった。
ただ、どうしようもなく揺れているだけだった。
雫は、ルカの背中に腕を回したまま、ゆっくりと息を吐いた。
洞窟の中は静かだった。
外の曇天からこぼれるわずかな光が、岩肌を淡く照らしているだけで、
世界はほとんど音を失っている。
その静けさの中で、二人の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
ルカの腕に、少しだけ力がこもる。
壊れないように。
でも、逃がさないように。
そのどちらにもなりきれない力だった。
雫はすぐに気づいて、小さく息を吸う。
「……ルカ」
呼びかける声は、責めるものじゃない。
ただ確かめるような、静かな音だった。
ルカは答えない。
答えられないまま、ただ目を伏せる。
頭の中では、同じ言葉が何度も巡っていた。
——雫は、ここにいるべきじゃない。
——巻き込んじゃいけない。
——自分の側にいたら、いつか必ず壊れる。
その考えが正しいはずだった。
ずっとそうやって生きてきた。
なのに。
腕の中の体温だけが、それを簡単に壊していく。
雫はそっとルカの胸元に手を当てた。
「ねえ」
小さな声。
「ルカ、今……何考えてる?」
核心を突くようでいて、でも押し付けない問い。
ルカの喉が、わずかに動く。
「……お前は」
掠れた声がようやく形になる。
「幸せになれ」
それだけ言うのに、ひどく時間がかかった。
「俺みたいなのと……一緒にいない方がいい」
言い切った瞬間、ルカは自分の言葉に自分で傷ついたみたいに、
少しだけ顔を歪める。
雫は、しばらく黙っていた。
そして——
「それは、ルカが決めることじゃないよ」
静かに言った。
ルカの肩が、ほんの少しだけ揺れる。
雫はそのまま、ルカの腕の中から抜け出さずに続けた。
「私がどうしたいか、は私が決める。
ルカが勝手に結論出すの、ずるいよ」
少しだけ、拗ねたみたいな声だった。
ルカは息を止める。
雫はそのまま、ルカの服を軽く握った。
ルカの中の“正しさ”が、少しずつ軋む。
抱きしめているはずなのに、
逆に抱きしめられているような感覚だった。
守っているつもりが、いつの間にか支えられている。
ルカはゆっくりと目を閉じた。
「……お前は、ほんとに何も分かってないな」
雫は小さく笑う。
「うん、そうだね」
即答だった。
その瞬間、ルカの腕から力が抜ける。
代わりに、今度は本当に“抱きしめる”形になる。
逃がすためでも、縛るためでもない。
ただ、そこにいてほしいという形。
ルカは小さく息を吐いた。
「……俺は強欲だな。」
誰にも届かないくらい小さな声。
それでも雫には聞こえたらしくて、少しだけ笑った気配がした。
洞窟の中で、外の世界とは切り離されたみたいに、
時間がゆっくり沈んでいく。
正しいかどうかなんて、どちらもまだ分からない。
それでも今だけは、離れる理由よりも——
離れたくない理由の方が、少しだけ勝っていた。
朝の光は、洞窟の奥までは届かないはずなのに、
どこか空気だけがやわらかくなっていた。
雫はゆっくり瞬きをする。
一度、二度。
そこでようやく、
自分がルカの腕の中にいるまま眠っていたことに気づいた。
「……え」
小さく声が漏れる。
動こうとして、すぐに止まった。
すぐ目の前に、ルカの顔がある。
近い、なんてものじゃない距離だった。
長い睫毛が影を落としていて、
整った輪郭が静かに呼吸とともに微かに上下している。
白い肌は光を反射しないのに、なぜか淡く発光しているように見えた。
雫の心臓が、ひとつ強く跳ねる。
(……近い……)
当たり前のことなのに、頭が追いつかない。
ルカはまだ眠っている。
昨日の傷の名残はほとんど消えているけれど、
疲労だけは残っているのか、起きる気配はない。
その無防備さが、余計に距離を壊していた。
雫は息を止めたまま、少しだけ視線を逸らそうとして——やめた。
逸らしたら、今この瞬間が消えてしまいそうだったから。
ルカの睫毛が、ほんのわずかに揺れる。
その小さな動きだけで、また心臓が跳ねる。
(……こんな顔、するんだ)
戦っている時の鋭さも、
怯えを隠そうとする不器用さも知っているのに。
今はただ、静かで、柔らかくて。
どこにでもいるみたいな——それでいて、
どこにもいないような顔だった。
雫はそっと指先を動かした。
触れようとして、途中で止める。
(起きたら……怒るかな)
そう思った瞬間、少しだけ笑いそうになる。
怒る、というより。
きっとまた「何してんだ」って困った顔をするのだろう。
その想像が、なぜか妙に優しくて、胸の奥があたたかくなる。
ルカの呼吸が、一定のリズムで続いている。
生きている音。
昨日まで、失いかけていたものの証拠。
雫はようやく小さく息を吐いた。
「……よかった」
声にならないくらいの小さな言葉。
その瞬間だった。
ルカのまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
赤い瞳が、まだ少しぼんやりしたまま雫を捉える。
一秒。
二秒。
完全に状況を理解した瞬間、ほんの少しだけ目が見開かれる。
「……何してんだ」
掠れた声。
いつもよりずっと、力の抜けた声だった。
雫は固まったまま、一拍遅れて視線を合わせる。
そして——
「……おはよう」
それだけ言って、小さく笑った。
ルカは数秒黙って、それから少しだけ視線を逸らす。
「……近い」
「ルカが動かないからだよ」
即答されて、ルカは小さく息を吐いた。
反論する気力がないのか、それとも諦めたのか。
そのどちらでもいいような沈黙が落ちる。
洞窟の中は、相変わらず静かだった。
でもその静けさは、もう昨日のような張り詰めたものじゃない。
ただ、二人がそこにいるだけの静けさだった。
第六章 望まれなくとも
洞窟での暮らしは、気づけば妙に“日常”になっていた。
朝は冷えた空気で目が覚めて、昼は外に出て水を汲んだり、
木の実を探したりする。
夜は焚き火の小さな灯りを囲んで他愛もない話をする。
不思議だった。
逃げてきたはずなのに、そこには確かに「暮らし」があった。
雫は湖畔で水を汲みながら、ふと手を止める。
水面に映る自分の顔の隣には、
少し離れた場所で木陰に寄りかかるルカの姿がある。
距離は近いのに、どこか警戒が抜けきらないその立ち方。
(……まだ、少しだけ痛そう)
完全に回復したわけじゃない。
それでもルカは何も言わず、普通に振る舞おうとしている。
雫は水を入れた容器を持ち上げて戻る。
「ルカ」
呼ぶと、ルカはすぐに顔を上げた。
「……なんだ?」
「水。」
そう言って差し出すと、ルカは少しだけ間を置いてから受け取った。
「……ん。」
短い返事。
それだけなのに、雫はなぜか満足してしまう。
二人の間に流れる時間は、静かで穏やかだった。
以前みたいに、無理に笑ったり、気を遣ったりしなくていい。
ただそこにいるだけで成立する関係。
それが心地いいのか、それとも怖いのか。
自分でも分からないまま、雫は隣に腰を下ろした。
「ここ、意外と住みやすい場所だね」
「……普通は住まねぇけどな」
雫が笑うと、ルカもつられてフッと笑う。
——本当に、こんな時間がずっと続けばいいのに。
そんな、現実逃避みたいな願いが、自然に浮かんでしまうくらいに
この場所は静かで。
そして、あまりにも壊れやすく見えた。
風が洞窟の入口を抜けていく。
その先の世界では、まだ何も知らないまま時間が進んでいる。
ただ、この小さな世界だけが、少しだけ止まっているようだった。
幸せだった。
この幸せがいつまでも続けばいいと――そう思っていた。
けれど、この世界に、永遠と続くものなんてない。
頭では分かっているはずなのに、
雫は何度も、その“続いてほしい日常”に縋ってしまうのだ。
* * *
洞窟での暮らしが始まってから、数週間。
最初はただの仮住まいだった場所は、
いつの間にか、二人にとっての新たな「帰る場所」になっていた。
朝起きて、湖へ水を汲みに行って。
木の実を採って。
夜は火の代わりに、静かな声だけを頼りに眠る。
それだけの生活が、あまりにも穏やかで。
だからこそ、それが壊れる予感に鈍くなっていたのかもしれない。
その日。
いつもより早く、空気が違った。
雫が水場から戻ってきたとき、
ルカはすでに洞窟の入口の方を見ていた。
「……誰か来た」
短い声。
その一言で、すべてが伝わった。
次の瞬間だった。
遠くから、複数の足音。
一人ではない。
「……っ……」
喉から小さな声が漏れる。
目を開けると、そこに広がっていたのは、埃っぽく、
静寂に支配された薄暗い部屋だった。
空気が重く、時間が止まってしまったみたいに、何も音がしない。
雫は額を押さえながら、ゆっくりと上体を起こす。
頭がぐらりと揺れ、視界が一瞬歪んだ。
(……ここ……)
ぼんやりとする意識の中で、思考を必死に繋ぎ止めようとした、
その瞬間。
脳裏に浮かんだのは――
切なげに微笑んだ、ルカの顔だった。
「……っ」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
次の瞬間、堰を切ったように記憶が流れ込んできた。
コマ送りみたいに、ひとつ、またひとつ。
二人で見た、あの夜空。
湖に映った月。
手を引かれて歩いた森の道。
――ボロボロになって倒れ込んできたルカ。
――この部屋に逃げ込んだ瞬間。
――必死に傷を治して、本音をぶつけ合って。
そして――
雫を隠すようにして、背を向けて歩いていった、あの後ろ姿。
「……ルカ……」
思い出せば思い出すほど、血の気が引いていくのが分かった。
手が震え、呼吸が浅くなる。
涙がぽろっと零れた。
次の瞬間、喉の奥がひくりと痙攣する。
「……うっ……」
胃の底から、込み上げてくる嫌な感覚。
「おぇっ……! う……ぇ……っ……」
雫は慌てて部屋の隅にうずくまり、そのまま吐いた。
喉が焼けるように痛み、身体が小さく震える。
頭の中にあるのは、ルカのことばかりだった。
――ルカはどこに行ったの?
――無事?
――まさか……捕まった?
考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
胃の中が空っぽになるまで吐ききって、雫は荒い息のまま、袖で口元を
拭った。
涙と吐瀉物でぐしゃぐしゃになった袖を、それでも離せず、
口を押さえたまま立ち上がる。
足元がふらつく。
それでも、じっとしてはいられなかった。
「……ルカ……!」
掠れた声で名前を呼びながら、雫は部屋を出た。
扉の外は――
ひどく、荒らされていた。
家具は倒れ、床には割れた木片。
壁や床のあちこちが、不自然に濡れている。
(……これ……)
嫌な予感が、背筋を走る。
鼻をつく、微かに刺激的な匂い。
――聖水だ。
ぞっとして、雫はその場に立ち尽くした。
ここで、確かに“狩り”が行われたのだと、はっきり分かる痕跡だった。
ルカは、ここで――
その先を考えた瞬間、胸が張り裂けそうになり、雫は思わず息を詰めた。
玄関のドアは開きっぱなしだった。
嫌な予感が現実になる。
ドアの手前――
そこには、無数の血痕が飛び散っていた。
乾ききらない赤黒い跡。
引きずられたような線。
踏み荒らされた痕。
「…………」
雫は、言葉を失った。
膝から、すっと力が抜ける。
「……っ……」
へたりとその場に座り込み、床に手をついた。
もう枯れかけていたはずの涙が、また溢れ出してくる。
ぽた、ぽた、と。
血痕のそばに、透明な雫が落ちた。
体が、止まらず震える。
カタカタと、小刻みに。
呼吸が浅い。
吸っても、吸っても、空気が足りない。
(……どれくらい……寝てたんだろ……)
ぼんやりと、そんなことを考える。
ふと、顔を上げると。
窓の外には、眩しい陽光が差し込んでいた。
朝だ。
昨日の出来事は、夜。
ということは――
もう、少なくとも半日は経っている。
「……っ」
再び、吐き気が込み上げる。
喉の奥がきゅっと締まり、視界が歪む。
雫は必死にそれを飲み込み、壁に手をついて立ち上がった。
足がふらつき、何度もよろける。
それでも、止まれなかった。
開けっ放しのドアを、くぐる。
――外へ。
冷たい朝の空気が、肺に流れ込む。
それが、ひどく現実的で、残酷だった。
家の周囲にも、戦った痕跡は残っている。
折れた枝。
踏み荒らされた土。
けれど――
どこにも、ルカの遺体はなかった。
(……ない……)
胸の奥で、何かがわずかに灯る。
――ということは。
きっと、まだ生きている。
大丈夫。
大丈夫だ。
自分に、何度も言い聞かせる。
そうじゃないと、立っていられなかった。
町へ行けば、きっと会える。
捕まっているとしても、まだ、間に合う。
雫は、記憶を手繰り寄せる。
あの時、ルカと歩いた道。
森を抜けた先にあった、町の方向。
うろ覚えのままでも、構わなかった。
「……待ってて……」
小さく呟いて、雫は歩き出す。
震える足で。
それでも、前へ。
朝の光の中へ。
雫は、ひたすらに走り続けた。
肺が焼けるように痛くても、
足が重くなって感覚が鈍っても、
立ち止まるという選択肢は、最初からなかった。
息を切らしながら、それでも走り続けて――
どれくらいの時間が経ったのか、もう分からない。
来る道中で、何度も転んだ。
躓いて、地面に叩きつけられては、また立ち上がる。
服は泥だらけ。
膝も、手のひらも、擦り傷だらけ。
それでも、痛みを気にする余裕なんてなかった。
やがて――
木々の隙間から、町の輪郭が見えてきた。
「……っ」
かつて、雫が逃げ出してきた場所。
残酷で、冷たくて、思い出すだけで胸が痛くなる場所。
それでも。
雫は一度、大きく息を吸い込んだ。
震える肩を、ぎゅっと引き締める。
「……大丈夫……」
自分に言い聞かせるように呟いて、そのまま走った。
森を抜けて、町へ。
視界が一気に開ける。
石畳の道。
建物が立ち並び、朝の光に照らされる広場。
人、人、人。
町の広場らしき場所に出た瞬間、雫は足を止めかけた。
沢山の人々が行き交い、話し、笑い、荷を運ぶ。
日常が、何事もなかったかのように流れている。
その中で――
雫だけが、ひどく浮いていた。
すれ違う人、すれ違う人が、雫を怪訝そうに見る。
汚れた服。
傷だらけの身体。
息を切らし、涙の跡が残る顔。
ひそひそと、囁く声。
視線が、突き刺さる。
(……ルカ……)
雫は俯きながら、必死に町を歩き回った。
生まれてから今まで、町の奥に来たことなんて一度もなかった。
どこに何があるのかも、誰に聞けばいいのかも分からない。
闇雲に、ただ足を動かす。
けれど――
見つかるのは、商店や八百屋、市場の露店ばかり。
野菜を並べる人間。
値段を交渉する声。
どこにも、ルカの姿はない。
「……どこ……?」
掠れた声が、雑踏に消える。
胸の奥に、焦りが広がっていく。
時間が、無情に過ぎていく感覚。
(……お願い……)
雫は唇を噛みしめ、再び歩き出した。
まだ、諦めるわけにはいかなかった。
しばらく町を散策していると、いくつかの声が耳に入った。
八百屋の店主と買い物客の会話。広場でたむろする主婦たちの雑談。
その雑談の中で、不意に「銀髪の吸血鬼」という単語が
耳に飛び込んできた。
声の主は、すぐそばにいる主婦たちだった。
雫の胸が一気に高鳴った。
思わず足が前に出る。
勢いそのままに、駆け寄ると、声を震わせながら問い詰めた。
「その吸血鬼って、今どこに――!」
あまりの剣幕に、主婦たちは一瞬ぽかんと呆けた。
しかし、互いに目を合わせ、しばらく躊躇したあと、
タジタジとした様子で答えた。
「きっ、昨日の夜に自衛団が捕獲して……
今は地下牢に拘束されているらしいけど……」
雫はさらに身を乗り出して食い下がる。
「地下牢ってどこにありますか!?」
もう一人の女性が、少し声を潜めて答える。
「すぐそこの曲がり角を曲がったところにある教会の地下よ。
吸血鬼は、一人で逃げ出せないように神の加護下にある教会で拘束して
おくのが決まりなの。
それよりあなた......その怪我は――」
しかし、雫はそれを遮るように頭を下げ、声を震わせながら言った。
「ありがとうございました!!」
その言葉と同時に、言葉の続きを聞くこともなく、雫は教会の地下牢へ
向かうべく、曲がり角に向かって全力で走り出した。
* * *
教会の扉を押し開けた瞬間、雫は思わず息を止めた。
――静かすぎる。
人の気配が、ない。
長椅子が整然と並び、色の褪せたステンドグラスから差し込む光が、
床に淡く広がっている。
けれどそこには、本来あるはずの祈りの気配も、
生活の温度もなかった。
ただ、冷たい。
張り詰めた空気だけが、そこにあった。
「……」
雫はゆっくりと足を踏み入れる。
石床に靴音が響くたびに、自分の存在が暴かれていくようで、
心臓が嫌に大きく鳴った。
(……地下……だっけ)
言われた言葉を思い出し、視線を巡らせる。
やがて、祭壇の脇に――
地下へと続く、細い石の階段を見つけた。
迷っている時間はない。
雫は息を呑み、そのまま階段へと足をかけた。
一段、また一段と降りるごとに、
空気がひやりと冷たくなっていく。
湿った石の匂い。
どこか鉄のような、鼻を刺す匂いが混じる。
(……いやだ……)
胸の奥がざわつく。
けれど、足は止まらない。
――ルカが、いる。
それだけが、雫を前に進ませていた。
やがて階段を降りきると、
細い通路が奥へと伸びていた。
壁に取り付けられた松明が、ゆらゆらと揺れている。
その頼りない光の中で――
人影が、一つ。
通路の奥。
鉄格子の前に、腕を組んで立つ中年の兵士。
無骨な体つき。
日に焼けた肌。
腰には剣。
明らかに、“見張り”だった。
雫は咄嗟に足を止める。
心臓が、喉元までせり上がる。
(どうする……どうするの……)
頭が真っ白になる。
逃げる?
隠れる?
戻る?
――違う。
ここまで来て、引き返す選択なんてない。
雫はぎゅっと拳を握りしめた。
その視線の先――
兵士の向こう側。
鉄格子の奥に、影がある。
ぐったりと、壁にもたれかかるように座り込んでいる人影。
その姿を見た瞬間、時間が止まった。
「……っ」
息が、止まる。
――ルカ。
青ざめた顔。
閉じかけた瞳。
乱れた銀の髪。
身体中に走る、焼けただれた痕。
裂けた衣服の隙間から覗く皮膚は、ところどころ黒く焦げ、
聖水によるものだと一目で分かった。
鎖が、両手首を拘束している。
逃げ場なんて、どこにもない。
「……ルカ……」
声にならない声が、唇から零れた。
その瞬間だった。
「――誰だ」
低く、鋭い声。
兵士が振り向く。
ぎろりとした視線が、まっすぐ雫を射抜いた。
空気が、一気に張り詰める。
「……こんな場所に、何の用だ」
ゆっくりと一歩、兵士が踏み出す。
靴音が、やけに重く響いた。
雫の喉が、ひくりと震える。
それでも――
視線だけは、逸らさなかった。
その奥にいる、ルカから。
目を、離せなかったから。
「……その人に、用があるの」
震える声。
けれど、その中に確かな意志が混じる。
兵士の眉が、わずかに動いた。
「……この“怪物”にか?」
吐き捨てるような声音。
その言葉に――
雫の中で、何かがはっきりと変わった。
ゆっくりと、顔を上げる。
涙の跡が残る頬のまま、
真っ直ぐに兵士を見据えて――
はっきりと言い切った。
「怪物じゃない」
一歩、前へ出る。
「その人は――」
息を吸う。
胸の奥から、言葉を引きずり出す。
「私の、大切な人です」
地下の冷たい空気が、
ぴたりと止まったような気がした。
兵士の前に立つ雫の声が、地下に静かに落ちた、
その瞬間――
かすかな物音が、鉄格子の奥から響いた。
「……っ」
ぐったりとしていたはずのルカの指先が、微かに動く。
ゆっくりと。
重たい瞼が、持ち上がった。
焦点の合わない赤い瞳が、彷徨うように揺れ――やがて、
雫の姿を捉えた。
「……し、ず……く……?」
掠れた声。
喉が焼けたようにひどく弱々しい。
その瞬間、ルカの目がはっきりと見開かれた。
「――っ、なんで……来た……!」
身体を起こそうとして、鎖ががしゃりと音を立てる。
力が入らず、すぐに崩れ落ちるように壁にもたれた。
それでも、必死に顔を上げる。
「来るな……っ、帰れ……!」
呼吸を乱しながら、声を絞り出す。
「お前が……ここにいたら……っ、意味、ねぇだろ……!」
その声は怒鳴り声でもなく
ただ必死に“遠ざけよう”とするものだった。
自分のためじゃない。
雫のために。
それが分かるからこそ――
雫の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「……」
けれど。
雫は、一瞬も視線を逸らさなかった。
ルカの言葉に、揺れることもなく。
ただ、まっすぐに彼を見つめたまま――
ゆっくりと、首を横に振る。
「やだよ」
小さな声。
でも、それは驚くほどはっきりしていた。
「帰らない」
その一言で、すべてを拒絶する。
ルカの息が詰まる。
「……っ、なんで……っ」
絞り出すような声。
その問いに、雫は答えなかった。
代わりに――
くるりと向きを変える。
目の前に立つ、兵士へと。
そして――
深く、深く頭を下げた。
「……お願いします」
声が震える。
それでも、言葉は途切れない。
「その人を……ルカを、解放してください」
地下の空気が、しんと静まり返る。
兵士は無言で、雫を見下ろしている。
雫は頭を下げたまま、動かない。
「この人は……誰も傷つけてないんです」
必死に、言葉を紡ぐ。
「私に優しくしてくれただけで……っ、何も悪いことなんて……」
声が、少しずつ掠れていく。
それでも。
「お願いです……!」
ぎゅっと拳を握りしめる。
「この人は、怪物なんかじゃない……!」
床に落ちるほど深く頭を下げたまま、
震える声で、叫ぶように言った。
「ただの……優しい人なんです……!」
沈黙。
松明の火が、ぱちりと小さく弾ける音だけが響く。
やがて――
兵士が、ゆっくりと息を吐いた。
「……顔を上げろ」
低い声。
命令だった。
雫の肩が、びくりと震える。
それでも、ゆっくりと顔を上げる。
涙で濡れた瞳が、まっすぐ兵士を見た。
その視線を受けて、兵士はほんのわずかに目を細める。
そして――
ちらりと、牢の中のルカへ視線を向けた。
ぐったりとしたまま、
それでも必死に雫を見つめる赤い瞳。
守ろうとしている目だ。
兵士は再び、雫へと視線を戻す。
「……お前は」
低く、問いかける。
「これが“何か”分かって言ってるのか?」
一歩、近づく。
重い足音。
「こいつは吸血鬼。」
言葉を区切るように、はっきりと。
「人の血を啜る化け物だ」
地下の空気が、さらに冷たくなる。
「情けをかける価値なんてねぇ存在なんだよ」
突き放すような声。
その言葉に――
ルカの瞳が、わずかに揺れた。
否定もできず、
ただ歯を食いしばることしかできない。
けれど。
雫は――
一歩も、引かなかった。
「知ってます」
即答だった。
迷いのない声。
兵士の眉が、ぴくりと動く。
「それでも」
雫は、はっきりと言い切る。
「この人は、私にとって大切な人です」
一歩、前へ。
「どんな存在でも関係ない」
涙を拭うこともせず、
真っ直ぐに見据える。
「私は、この人を信じてるから」
その言葉が、地下に強く響いた。
兵士は、しばらく雫を見下ろしていた。
長い沈黙。
松明の火が、鉄格子の影を揺らし続ける。
やがて――
「……はぁ」
深く、重いため息が落ちた。
まるで何かを諦める音だった。
雫が息を呑む。
ルカの視線も、兵士に向く。
兵士はゆっくりと腰の鍵束に手を伸ばした。
じゃら、と金属が擦れる音。
そのまま、何の迷いもなく鉄格子へと歩み寄る。
「……おい」
ルカの掠れた声が、かすかに漏れる。
だが兵士はそれを無視するように、鍵穴へ鍵を差し込んだ。
カチャリ。
乾いた音が、地下に響く。
次の瞬間――
重い鉄の扉が、ゆっくりと開いた。
「……っ」
雫の喉が、ひゅっと鳴る。
信じられない光景だった。
さっきまで“絶対に開かないもの”だったはずの牢が、
今、目の前で開いている。
兵士は鍵を抜き取りながら、ぽつりと呟いた。
「……これで、俺の人生は終わったな」
自嘲気味の笑み。
乾いた、投げやりな声だった。
ルカが、警戒するように身を起こす。
鎖が、ぎしりと鳴った。
雫は呆然と、その場に立ち尽くしていた。
兵士はそんな二人を一瞥すると、肩をすくめる。
「勘違いするな」
淡々とした声。
「情けをかけたわけじゃねぇ」
一歩、牢の外へ退く。
「かといって、上からの命令でもねぇ」
もう一歩。
「ただ……」
そこで一度言葉を切る。
松明の光が、兵士の横顔を照らした。
「もう、どうでもいいと思っただけだ」
その言葉には、疲れが滲んでいた。
兵士は雫の方を見た。
まっすぐではない。
どこか投げやりで、突き放す視線。
「ここを出たあとのことは知らん」
低く、はっきりと言う。
「助けてもやれないし、助けるつもりもない」
一瞬だけ、視線がルカに向く。
「せいぜい頑張れ」
それだけ言って、兵士は踵を返した。
鎧が擦れる音。
遠ざかっていく足音。
雫は、何も言えなかった。
ただ、開かれた鉄格子の前に立ち尽くす。
ルカもまた、動かない。
静寂。
地下の空気だけが、重く流れていた。
やがて――
雫が、小さく息を吐いた。
震える手を握りしめる。
ゆっくりと、ルカの方へ一歩踏み出す。
「……ルカ」
掠れた声。
その声に、ルカの瞳がわずかに揺れた。
「……ルカっ!!」
雫の声が、地下に響いた。
次の瞬間、雫は鉄格子の中へと駆け込んでいた。
「来るな……っ」
ルカの掠れた制止の声も、もう届かない。
雫は膝をつき、震える手で鎖に触れる。
冷たい鉄。
でも迷いはなかった。
「今、外すから……っ!」
小さな鍵穴に指先を滑らせるようにして、
必死に手を動かす。
ガチャリ。
何度も失敗しながら、それでも――
ついに、鎖が外れた。
金属音が、静かな地下に落ちる。
その瞬間。
ルカの身体が、力を失うように崩れかけた。
「っ……!」
雫は反射的にその身体を支える。
思っていた以上に重い。
それでも、絶対に落とさないように腕に力を込めた。
「大丈夫……大丈夫だから……!」
誰に言うでもなく、必死に繰り返す。
ルカは息を荒くしながら、かすかに雫を見た。
「……来るなって……言った、だろ……」
それは怒りでも責めでもなく、
ただ、力のない声だった。
雫は答えない。
代わりに、肩を支えたまま立ち上がる。
「帰ろう」
短く、それだけ。
ルカの返事を待たずに、雫は一歩を踏み出した。
第五章 この感情の名前は✗✗
教会を出たとき、外の空気はやけに冷たかった。
朝でも昼でもない、曖昧な光。
人の気配がない道を選びながら、
雫はルカを支えたまま歩き続ける。
「……っ、は……」
ルカの呼吸が浅い。
時々、足がふらつく。
そのたびに、雫は強く支え直した。
何も言わない。
何も聞かない。
ただ、「安全な場所」を探すことだけに集中していた。
町の外れへ。
人の視線のない路地へ。
どこでもいい。
とにかく、今はここじゃない場所。
そうして、気づけば――
石壁に囲まれた細い路地裏にたどり着いていた。
人気はない。
光もほとんど差し込まない。
雫はそこでようやく足を止める。
「……ここで、少し休もう」
そう言って、ゆっくりとルカを座らせる。
自分もその隣にしゃがみ込んだ。
荒い呼吸。
汗と血の匂い。
静かなのに、やけに遠くで世界が鳴っているような感覚。
雫は膝を抱えるようにして座り、
ルカの様子をじっと見た。
まだ、終わっていない。
ただ――
今は、少しだけ呼吸できる場所にいる。
それだけだった。
雫は路地裏に膝をついたまま、ルカの顔を見上げた。
呼吸はまだ荒く、視線もどこか定まらない。
それでも――彼は必死に、雫から離れようとしていた。
「……もう、いい」
かすれた声。
ルカは腕に力を入れ、立ち上がろうとする。
だが、その動きはすぐに崩れかけた。
雫は反射的にその肩を支える。
「……いいって、言ってるだろ」
「よくない」
即答だった。
雫は迷いなくルカを見据える。
そして、震える息を一度だけ吐いて――
両手をルカの傷にかざした。
淡い光が、ふわりと灯る。
「っ……やめろ……!」
ルカの声が跳ねる。
「それは……使うなって……!」
雫の手首を、弱い力で掴もうとする。
でも、その力すら途中で途切れる。
雫は目を逸らさなかった。
「使うよ」
静かな声。
「このままじゃ、ルカ逃げられないでしょ」
ルカの瞳が揺れる。
「逃げる必要なんて――」
「ある」
きっぱりと遮る。
雫の声は、思っていたよりも強かった。
「ルカは私と一緒に逃げるの。」
一瞬の沈黙。
雫は言葉を続ける。
「今のルカじゃ、歩くだけでも限界だよ」
ルカの唇が、わずかに震える。
否定しようとして――できない。
現実だった。
雫はその間に、そっと彼の腕に触れた。
「だから、治す」
「……っ、雫……」
「お願い。動かないで」
その言葉は、命令じゃなかった。
祈りに近かった。
ルカは一瞬だけ目を閉じる。
苦しそうに、歯を食いしばる。
それでも――抵抗する力は、もうほとんど残っていなかった。
雫は静かに治癒を始めた。
光が、傷に触れていく。
焼けただれた皮膚が少しずつ塞がり、
裂けた痕が薄れていく。
ルカの身体が、わずかに強張る。
痛みではない。
“何かを受け取ること”そのものに、慣れていない反応だった。
「……なんで」
ルカがぽつりと漏らす。
「なんで、そこまでする」
雫は答えず、ただ手を動かし続ける。
光がまた一つの傷を覆う。
「こんな怪我じゃ、逃げられないから」
ようやく、静かに言った。
ルカの呼吸が止まる。
雫は続ける。
「また、捕まることになる」
少しだけ視線を上げる。
真っ直ぐ、ルカを見る。
「それは嫌」
一拍。
「だから治すの」
風が、路地を抜けていく。
その音だけがやけに大きい。
ルカは何も言えなかった。
掴もうとしていた手が、ゆっくりと下がる。
雫はそのまま、最後の傷に手をかざした。
光が静かに収束していく。
ルカの呼吸が、ほんの少しだけ落ち着いた。
それでもまだ――完全じゃない。
ただ、動ける程度には戻っている。
雫は手を下ろし、小さく息を吐いた。
「……まだ痛い?」
ルカはすぐには答えない。
しばらくして、かすれた声が落ちる。
「痛くは……ねぇけど.....」
それは、弱い戸惑いだった。
雫は少しだけ笑った。
「良かった」
ルカの視線が、わずかに揺れる。
雫は立ち上がる。
そして、自然な動きでルカの腕を支えた。
「立てる?」
「……ああ」
ルカはゆっくりと立ち上がる。
まだふらつく。
でも、さっきよりは確かにマシだった。
雫はその横に立ち、短く言う。
「行こ」
ルカが横目で雫を見る。
何か言いかけて――やめた。
ただ小さく息を吐く。
「……そうだな」
雫は一歩踏み出した瞬間、遅れてやってきた痛みに顔を歪めた。
「っ……」
治癒の反動。
さっきまでルカの傷に流し込んでいた力が、
今度は自分の内側に跳ね返ってくる。
身体の奥がじわじわと焼けるように痛む。
それでも雫は、止まらなかった。
「……大丈夫」
誰に向けるでもなく呟いて、強引に足を動かす。
ルカが横目でそれを見た。
「……おい」
低い声。
雫は答えないまま、前だけを見る。
「雫」
もう一度呼ばれる。
それでも雫は走り出した。
森の方へ。
痛みを振り払うように、ただ足を動かす。
ルカが舌打ちを一つして、その後を追う。
「……無茶すんな」
「無茶じゃない」
即答。
呼吸が荒いまま、それでも雫は走り続けた。
石畳の道を抜けると、空気が変わる。
人の気配が薄れていく。
やがて――
木々の境界線を越えた。
森。
ざわ、と風が葉を揺らす音が、やけに大きく感じる。
雫はそこでようやく足を止めた。
「……はぁ……っ」
膝に手をついて呼吸を整える。
ルカも少し遅れて立ち止まり、周囲を見渡した。
しばらく、沈黙。
森の中は静かだった。
だが、それは“安全”の静けさではない。
逃げてきただけだ。
ただ、それだけ。
雫はゆっくり顔を上げた。
「……ここまで来れば、大丈夫……?」
その問いは、ルカに向けられていた。
ルカはすぐには答えなかった。
少しの間、空を見上げる。
そして、低く言う。
「……いや」
雫の胸が、わずかに跳ねる。
ルカは視線を森の奥へ落としたまま続けた。
「もう、家には戻れないだろうな」
「……え?」
雫の声が小さく漏れる。
ルカは淡々と続ける。
「俺が脱走したのがバレた時点で、あの家は調べられる」
一拍。
「真っ先に潰される可能性が高い」
雫の顔がこわばる。
「そんな……」
ルカはそこでようやく雫を見る。
「だから戻れねぇ」
短く、断言だった。
雫は唇を噛む。
さっきまで“帰る場所”だったはずの家が、
もう戻れないものになっている。
現実が一気に重くなる。
「じゃあ……どうするの」
小さな声。
ルカは腕を組み、森の奥を見たまま答えない。
雫はもう一度聞く。
「どこに行けばいいの……?」
沈黙。
風が葉を揺らす音だけが続く。
ルカがようやく口を開いた。
「……わかんねぇ」
その一言に、雫は息を止めた。
ルカは続ける。
「俺は今まで“逃げる側”じゃなかった」
淡々とした声。
「だから、逃げる先なんて考えたこともねぇ」
雫はゆっくりと視線を落とす。
現実だった。
勢いでここまで来た。
助けて、逃げた。
でも――その先は、何もない。
静かな焦りが、森の空気に溶けていく。
しばらくの沈黙のあと。
雫が小さく言った。
「……じゃあ、考えよう」
ルカの視線が動く。
雫は顔を上げる。
まだ痛みは残っている。
呼吸も安定していない。
それでも、目はまっすぐだった。
「ちゃんと……考えればいい」
ルカはしばらく黙って雫を見ていた。
そして――小さく息を吐く。
「……楽観的すぎるだろ」
雫は少しだけ笑う。
「今さらでしょ」
一瞬の間。
ルカは視線を逸らす。
「……はぁ」
呆れたような、諦めたような息。
それから低く言った。
「とりあえず……ここは危ねぇ」
森の奥を見ながら続ける。
「追ってが来る可能性もある」
雫も森を見た。
静かすぎる森。
安全ではない静けさ。
「……移動する?」
ルカは一瞬考えてから頷く。
「そうだな」
短く。
雫は深く息を吸った。
そして一歩踏み出す。
「じゃあ、行こ」
ルカが横目で見る。
「どこにだ?」
雫は少しだけ考えて――
「森の中。」
そう言って歩き出した。
ルカはフッと笑って小さく肩をすくめる。
「無茶苦茶だな」
その言葉には、もう拒絶はなかった。
森の、行ったことがないくらい、奥の奥に進んでいくと、
やがて大きめの洞窟のようなものが見えてきた。
洞窟の入口は、森の奥でぽっかりと口を開けている。
二人は中へと足を踏み入れ、
しばらく進んだところでようやく腰を下ろした。
岩肌に背を預けたルカは、ゆっくりと息を吐く。
「……はぁ」
その吐息は、今まで張り詰めていたものが全部抜け落ちたみたいに、
どこか幼くすら聞こえた。
雫は隣に膝をつき、そっとルカの顔を覗き込む。
さっきまでの鋭さも、警戒も、痛みに耐える険しさも、
もうそこにはない。
代わりにあったのは――
少し力の抜けた、頼りないくらい静かな表情だった。
「……ルカ?」
雫が小さく呼ぶと、ルカはゆっくり視線を上げた。
赤い瞳はまだ疲れているのに、どこか柔らかい。
「……ここまで来りゃ……とりあえずは、平気か」
「平気っていう顔じゃないよ」
雫はすぐにそう返して、苦笑いに近い息をこぼした。
ルカは一瞬だけ黙って、それから少しだけ視線を逸らす。
「……巻き込んで悪かった」
「それ、言うの何回目?」
「……数えてねぇ」
「じゃあ、これからは数えて。
今だけでも10回以上言ってるから。」
雫の言葉に、ルカはぽかんとした顔をした。
その反応が少しおかしくて、雫はほんのわずかに肩の力を抜く。
「……なんだそれ」
「もう謝らないでってこと。
私が自分から巻き込まれに行ったんだから。」
短いやり取りのあと、ほんの少しだけ沈黙が落ちる。
洞窟の奥で、水滴がぽたりと落ちる音がした。
その音がやけに大きく響くくらい、外は静かだった。
雫はゆっくりと息を吸って、ルカの腕にそっと触れる。
まだ傷は完治していない。
聖水の焼け跡も、動くたびに痛みを呼び起こしているのが分かる。
「……もう少し、治すね」
そう言って手を伸ばそうとした瞬間、
ルカの指が雫の手首を軽く掴んだ。
「……いい」
低い声だったけれど、もう命令みたいな強さはない。
ただ、少しだけ弱い。
「言っただろ。
それを使うのは……もうやめろ」
雫は一瞬だけ固まって、それから静かに首を振る。
「やめない」
「雫」
「だって、ルカが動けない方が危ない」
言い切ると、ルカは何か言い返そうとして――やめた。
代わりに、困ったように眉を寄せる。
「……ほんと、勝手だな」
「お互い様でしょ」
その言葉に、ルカの口元がほんの少しだけ緩む。
それは、かすかで、でも確かに“いつものルカ”だった。
雫はその変化に気づいて、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「……ここ、しばらく隠れられそうだね」
「ああ。日も入らねぇしな」
ルカは天井を見上げる。
岩の隙間から、かすかな外光が揺れているだけだった。
「でも油断すんなよ。いつ見つかってもおかしくねぇ」
「うん」
雫は短く返事をして、少しだけ距離を詰める。
肩が触れるか触れないかの位置。
それでも、今はそれがちょうどいい距離だった。
ルカはその気配に気づいて、少しだけ目を伏せる。
「……なぁ」
「なに?」
一瞬、空気が変わる。
ルカの声が、少しだけ小さくなった。
「なんで、来たんだ?」
雫は即答しなかった。
ほんの少しだけ考えて、それから静かに言う。
「ルカがそこにいたから」
「……それだけか?」
「それだけだよ」
迷いのない声だった。
ルカはそれを聞いて、目を閉じる。
「……すげぇな。」
「そうかな」
少しだけ間があって――
ルカは、ほんの小さく息を吐いた。
「……ありがとな。」
その一言は、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。
けれど雫には、ちゃんと届いた。
雫は何も言わずに、そっとルカの手に触れる。
今はまだ、外の世界は遠い。
追われている現実も、危険も、消えたわけじゃない。
それでもこの洞窟の中だけは、ほんの一瞬だけ――
二人の呼吸だけが、静かに重なっていた。
雫は、最初はただの「疲れ」だと思っていた。
聖水の傷もある。
逃亡の緊張もある。
ここまで無理をしてきたのだから、当然だと。
けれど――時間が経つほどに、その認識はゆっくりと崩れていった。
「……ルカ?」
声をかけても、返事が遅い。
ルカは岩に背を預けたまま、浅い呼吸を繰り返していた。
肩が上下するたびに、どこか苦しそうに歪む。
さっきまで少しだけ戻っていたはずの表情が、
また別の意味で崩れていく。
青白い。
明らかに、さっきよりも。
雫の胸に、嫌な記憶が引っかかった。
――吸血鬼は、人の血肉を取り込まないまま
人間の側にいると衰弱する。
森での生活の中で、ルカが言っていたことだ。
その意味を、今になってようやく理解する。
「……ルカ」
雫はそっと近づき、膝をつく。
指先で手を握ると、そこにあったのは“体温”というより、
ただの熱の残り火みたいなものだった。
さっきまで確かにあったはずの、安定した温度がない。
「……ねぇ、これ……」
言いかけて、雫は言葉を飲み込む。
ルカは薄く目を開ける。
焦点は合っていない。
それでも、雫の声には反応している。
「……離れろ」
掠れた声だった。
命令というより、押し殺した本音みたいな響き。
雫は一瞬、意味が分からなかった。
「え……?」
「……このままだと……お前を、噛むかもしれない。」
ルカは言いながら、自分の腕で額を押さえる。
苦しそうに、歯を食いしばっている。
「それは……ダメだ」
雫の手が、強く握り返される。
弱い力なのに、拒絶の意思だけははっきりしていた。
(……血、足りてないんだ)
逃げることに必死で。
治療に必死で。
“生き延びること”ばかりに意識が向いていて。
その根本を、見落としていた。
雫は唇を噛む。
「……ごめん、気づかなくて」
さっとルカが眉間にシワを寄せた。
「……やめろ。違う」
ルカは短く否定する。
呼吸が乱れているのに、声だけは妙に鋭い。
「お前が悪いとかじゃねぇ」
一度、言葉を切る。
喉の奥で何かを飲み込むみたいに。
「……そういうつくりしてる俺の身体が悪い。」
その一言に、雫は息を止める。
ルカはゆっくりと目を閉じる。
「人間のそばにいるだけで……こうなる」
「じゃあ……どうすればいいの」
雫の声は震えていた。
ルカは答えない。
答えられない。
沈黙が落ちた。
洞窟の奥で、滴る水の音だけがやけに大きく響く。
雫は視線を落とし、自分の手を見つめた。
(血……)
その単語が、喉の奥で重く引っかかる。
雫は迷わなかった。
それは“思いつき”というより、もっと単純な結論だった。
目の前で弱っている。
それを回復させる手段がある。
なら、それをしなきゃ。
ただそれだけ。
震えも、躊躇もほとんどないまま、雫は腕をまくった。
白い肌が露わになる。
そして、そのままルカの口元へ差し出した。
「……飲んだら、治るんでしょ」
静かな声だった。
感情を押し殺しているわけでもない。
ただ、“当然のこと”として言っている。
「だったら、飲んで」
洞窟の空気が、少しだけ変わる。
ルカの呼吸が一瞬止まった。
薄く開いた赤い瞳が、雫の腕を見たまま動かない。
理解が追いついていないというより――
理解したくない、という沈黙だった。
「……お前」
掠れた声。
それ以上、続かない。
雫は一歩も引かない。
その目は真っ直ぐで、揺れていない。
怖さも、痛みの想像も、そこにはほとんどなかった。
ただ“ルカを助けるための選択”だけが、そこにある。
ルカはゆっくりと顔を背けた。
「……何いってんだ」
吐き捨てるような言葉なのに、力がない。
「……ダメに決まってんだろ」
雫は首を傾げる。
「なんで?」
本気で分かっていない声だった。
「ルカは血を飲んでないからこうなってるんでしょ」
腕を少しだけ近づける。
「じゃあ、必要じゃん」
その言葉に、ルカの表情がわずかに歪む。
痛みとは別の種類のものだった。
「……必要とかじゃねぇ」
「じゃあなに」
即座に返す雫。
ルカは答えない。
答えられない。
喉の奥で言葉が詰まる。
その間にも、雫の腕はそこにある。
“助けるための手段”として、まっすぐに差し出されたまま。
ルカは、かすかに笑いそうになって――やめた。
「……お前、ほんとに分かってねぇな」
「分かってるよ」
即答。
「ルカが苦しいのは分かる」
一拍置いて、雫は続ける。
「それを止める方法があるなら、できる限りしてあげたい」
あまりにも単純で。
あまりにも迷いがない。
ルカの指が、微かに震えた。
それは拒絶でも、同意でもない。
ただ、どうしていいか分からない動きだった。
「……やめろ」
それだけを、もう一度言う。
今度は少しだけ、弱く。
雫はそれでも腕を引かない。
ただ静かにそこにいる。
まるで、“待っている”みたいに。
ルカの呼吸が、少しずつ乱れる。
理性と本能の間で、何かがきしむ音がする。
やがて――
ルカは、かすかに顔を上げた。
その目は、雫ではなく腕を見ている。
そして、小さく、息を吐いた。
「……痛いと思ったら、すぐ突き飛ばせ。」
それは警告だった。
拒絶ではなく、限界の線だった。
雫はほんの少しだけ目を細める。
「うん」
即答。
「分かった」
その瞬間、ルカの手が動いた。
雫の腕に、そっと触れる。
それは獣のようなものでも、理性のない衝動でもなかった。
壊れそうなほど慎重で。
それでも、抗えないほど必然的な動きだった。
牙が、そっと沈む。
強く噛み裂くようなものではなく、ためらいが混じった、
ぎりぎりまで抑え込まれた動きだった。
雫は一瞬だけ肩を強ばらせる。
「……っ」
思っていたほどの痛みはない。
鋭い衝撃というより、熱がゆっくりと流れ込んでいくような
感覚だった。
けれど、それよりも先に胸に残ったのは別のものだった。
ルカの顔だ。
目を閉じ、眉を寄せ、歯を食いしばるその表情。
まるで、自分の行為そのものに耐えているみたいな顔。
(……ルカ)
その顔のほうが、痛い。
雫は腕を動かさないまま、ただじっと見ていた。
血が抜けていく感覚は、はっきりとした恐怖にはならなかった。
体の奥の何かが、静かに緩んでいく。
力が抜け、頭の奥が少し遠くなる。
それなのに、不思議と嫌ではなかった。
ルカが、そこにいる。
その一点だけが、雫の中で確かに残り続けていた。
ルカの呼吸が、少しずつ変わる。
さっきまで乱れていた息が、ゆっくりと整っていく。
顔色も、ほんのわずかに戻っていくのが分かった。
(……戻ってる)
その事実だけが、静かに胸へ落ちていく。
怖さは完全には消えない。
けれどそれよりも、安堵のほうが大きくなっていく。
ルカが生きている。
それが目に見える形で戻ってくる。
やがて、牙が静かに離れた。
「……っ」
遅れて、腕に熱と痛みが戻る。
雫が小さく息を吐くのと同時に、ルカの顔がゆっくりと上がった。
息はまだ荒い。
それでも、さっきよりは確かに“戻ってきている”顔だった。
ただ、その瞳はすぐに雫を見て――
強く揺れた。
苦しさと、怒りと、言葉にならない感情が混ざっていく。
ルカは、しばらく動けなかった。
雫の腕から離れたまま、視線だけがそこに縫い付けられている。
その表情は、もう“回復した吸血鬼”のものではなかった。
むしろ逆だった。
苦しそうで、悔しそうで、何かを必死に押し殺している。
「……悪かった」
掠れた声。
それが、ようやく絞り出した最初の言葉だった。
雫は一瞬、きょとんとする。
「……なにが?」
ルカは顔を伏せる。
雫の腕に残る痕を見るのが耐えられないみたいに。
「……お前を、傷つけた」
言葉を吐くたびに、自分の中の何かが削れていくようだった。
「俺は……こういう存在だ」
声が震える。
「人の血を取って、その犠牲の上でやっと成り立つ存在。」
そこで一度、息が途切れる。
歯を食いしばる音が、静かな洞窟に小さく響いた。
「……最低だろ」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
自分自身に向けた、断罪だった。
雫は、その言葉を聞いたまましばらく黙っていた。
そして――
ゆっくりと立ち上がる。
ルカの前にしゃがみ込む。
「ルカ」
呼ぶ声は、いつもと変わらない。
「...........」
ルカは顔を上げない。
その瞬間だった。
雫は、何も言わずにルカの腕を引いた。
ぐ、と軽い力で引き寄せる。
「……っ」
ルカの身体が一瞬揺れる。
次の瞬間――
雫はそのまま、ルカを抱きしめた。
強く、でも乱暴じゃない。
逃がさないためじゃなく、“ここにいていい”と伝えるみたいな
抱きしめ方だった。
「……え」
ルカの声が止まる。
雫は、少しだけ笑う。
それは軽い笑いじゃない。
あたたかい、当たり前みたいな笑みだった。
「痛くなんてなかったよ」
即答だった。
ルカの肩が、微かに震える。
雫は続ける。
「それにさ」
少しだけ抱きしめる力を強くする。
「私はルカに無理させるほうが、よっぽど嫌」
ルカの息が止まる。
雫は、当たり前みたいに言葉を重ねていく。
「私がルカの役に立てるなら、それでいいよ」
「……」
「それでルカが楽になるなら」
少しだけ間を置いて。
「血なんて、いくらでもあげる」
その一言に、ルカの身体が完全に固まる。
時間が止まったみたいだった。
ルカは、ようやく小さく声を絞り出す。
「……やめろ」
でもその声には、もう強さがなかった。
雫は離れない。
「やめない」
即答。
ルカの肩に顔を少しだけ寄せる。
「ルカが生きてるほうがいい」
それだけが、理由だった。
ルカの手が、空中で一瞬だけ迷う。
触れていいのか分からないまま、宙に浮いた指先。
やがて――
そっと、雫の背に触れる。
ほんの少しだけ。
壊れ物に触れるみたいな、弱い力だった。
「……お前、ほんとに」
言葉が続かない。
雫はそのまま、少しだけ笑う。
「うん?」
ルカは目を閉じる。
それから、かすかに吐き出すように言った。
「……ずるいな」
その声は、もう責めではなかった。
ただ、どうしようもなく揺れているだけだった。
雫は、ルカの背中に腕を回したまま、ゆっくりと息を吐いた。
洞窟の中は静かだった。
外の曇天からこぼれるわずかな光が、岩肌を淡く照らしているだけで、
世界はほとんど音を失っている。
その静けさの中で、二人の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。
ルカの腕に、少しだけ力がこもる。
壊れないように。
でも、逃がさないように。
そのどちらにもなりきれない力だった。
雫はすぐに気づいて、小さく息を吸う。
「……ルカ」
呼びかける声は、責めるものじゃない。
ただ確かめるような、静かな音だった。
ルカは答えない。
答えられないまま、ただ目を伏せる。
頭の中では、同じ言葉が何度も巡っていた。
——雫は、ここにいるべきじゃない。
——巻き込んじゃいけない。
——自分の側にいたら、いつか必ず壊れる。
その考えが正しいはずだった。
ずっとそうやって生きてきた。
なのに。
腕の中の体温だけが、それを簡単に壊していく。
雫はそっとルカの胸元に手を当てた。
「ねえ」
小さな声。
「ルカ、今……何考えてる?」
核心を突くようでいて、でも押し付けない問い。
ルカの喉が、わずかに動く。
「……お前は」
掠れた声がようやく形になる。
「幸せになれ」
それだけ言うのに、ひどく時間がかかった。
「俺みたいなのと……一緒にいない方がいい」
言い切った瞬間、ルカは自分の言葉に自分で傷ついたみたいに、
少しだけ顔を歪める。
雫は、しばらく黙っていた。
そして——
「それは、ルカが決めることじゃないよ」
静かに言った。
ルカの肩が、ほんの少しだけ揺れる。
雫はそのまま、ルカの腕の中から抜け出さずに続けた。
「私がどうしたいか、は私が決める。
ルカが勝手に結論出すの、ずるいよ」
少しだけ、拗ねたみたいな声だった。
ルカは息を止める。
雫はそのまま、ルカの服を軽く握った。
ルカの中の“正しさ”が、少しずつ軋む。
抱きしめているはずなのに、
逆に抱きしめられているような感覚だった。
守っているつもりが、いつの間にか支えられている。
ルカはゆっくりと目を閉じた。
「……お前は、ほんとに何も分かってないな」
雫は小さく笑う。
「うん、そうだね」
即答だった。
その瞬間、ルカの腕から力が抜ける。
代わりに、今度は本当に“抱きしめる”形になる。
逃がすためでも、縛るためでもない。
ただ、そこにいてほしいという形。
ルカは小さく息を吐いた。
「……俺は強欲だな。」
誰にも届かないくらい小さな声。
それでも雫には聞こえたらしくて、少しだけ笑った気配がした。
洞窟の中で、外の世界とは切り離されたみたいに、
時間がゆっくり沈んでいく。
正しいかどうかなんて、どちらもまだ分からない。
それでも今だけは、離れる理由よりも——
離れたくない理由の方が、少しだけ勝っていた。
朝の光は、洞窟の奥までは届かないはずなのに、
どこか空気だけがやわらかくなっていた。
雫はゆっくり瞬きをする。
一度、二度。
そこでようやく、
自分がルカの腕の中にいるまま眠っていたことに気づいた。
「……え」
小さく声が漏れる。
動こうとして、すぐに止まった。
すぐ目の前に、ルカの顔がある。
近い、なんてものじゃない距離だった。
長い睫毛が影を落としていて、
整った輪郭が静かに呼吸とともに微かに上下している。
白い肌は光を反射しないのに、なぜか淡く発光しているように見えた。
雫の心臓が、ひとつ強く跳ねる。
(……近い……)
当たり前のことなのに、頭が追いつかない。
ルカはまだ眠っている。
昨日の傷の名残はほとんど消えているけれど、
疲労だけは残っているのか、起きる気配はない。
その無防備さが、余計に距離を壊していた。
雫は息を止めたまま、少しだけ視線を逸らそうとして——やめた。
逸らしたら、今この瞬間が消えてしまいそうだったから。
ルカの睫毛が、ほんのわずかに揺れる。
その小さな動きだけで、また心臓が跳ねる。
(……こんな顔、するんだ)
戦っている時の鋭さも、
怯えを隠そうとする不器用さも知っているのに。
今はただ、静かで、柔らかくて。
どこにでもいるみたいな——それでいて、
どこにもいないような顔だった。
雫はそっと指先を動かした。
触れようとして、途中で止める。
(起きたら……怒るかな)
そう思った瞬間、少しだけ笑いそうになる。
怒る、というより。
きっとまた「何してんだ」って困った顔をするのだろう。
その想像が、なぜか妙に優しくて、胸の奥があたたかくなる。
ルカの呼吸が、一定のリズムで続いている。
生きている音。
昨日まで、失いかけていたものの証拠。
雫はようやく小さく息を吐いた。
「……よかった」
声にならないくらいの小さな言葉。
その瞬間だった。
ルカのまぶたが、ゆっくりと持ち上がる。
赤い瞳が、まだ少しぼんやりしたまま雫を捉える。
一秒。
二秒。
完全に状況を理解した瞬間、ほんの少しだけ目が見開かれる。
「……何してんだ」
掠れた声。
いつもよりずっと、力の抜けた声だった。
雫は固まったまま、一拍遅れて視線を合わせる。
そして——
「……おはよう」
それだけ言って、小さく笑った。
ルカは数秒黙って、それから少しだけ視線を逸らす。
「……近い」
「ルカが動かないからだよ」
即答されて、ルカは小さく息を吐いた。
反論する気力がないのか、それとも諦めたのか。
そのどちらでもいいような沈黙が落ちる。
洞窟の中は、相変わらず静かだった。
でもその静けさは、もう昨日のような張り詰めたものじゃない。
ただ、二人がそこにいるだけの静けさだった。
第六章 望まれなくとも
洞窟での暮らしは、気づけば妙に“日常”になっていた。
朝は冷えた空気で目が覚めて、昼は外に出て水を汲んだり、
木の実を探したりする。
夜は焚き火の小さな灯りを囲んで他愛もない話をする。
不思議だった。
逃げてきたはずなのに、そこには確かに「暮らし」があった。
雫は湖畔で水を汲みながら、ふと手を止める。
水面に映る自分の顔の隣には、
少し離れた場所で木陰に寄りかかるルカの姿がある。
距離は近いのに、どこか警戒が抜けきらないその立ち方。
(……まだ、少しだけ痛そう)
完全に回復したわけじゃない。
それでもルカは何も言わず、普通に振る舞おうとしている。
雫は水を入れた容器を持ち上げて戻る。
「ルカ」
呼ぶと、ルカはすぐに顔を上げた。
「……なんだ?」
「水。」
そう言って差し出すと、ルカは少しだけ間を置いてから受け取った。
「……ん。」
短い返事。
それだけなのに、雫はなぜか満足してしまう。
二人の間に流れる時間は、静かで穏やかだった。
以前みたいに、無理に笑ったり、気を遣ったりしなくていい。
ただそこにいるだけで成立する関係。
それが心地いいのか、それとも怖いのか。
自分でも分からないまま、雫は隣に腰を下ろした。
「ここ、意外と住みやすい場所だね」
「……普通は住まねぇけどな」
雫が笑うと、ルカもつられてフッと笑う。
——本当に、こんな時間がずっと続けばいいのに。
そんな、現実逃避みたいな願いが、自然に浮かんでしまうくらいに
この場所は静かで。
そして、あまりにも壊れやすく見えた。
風が洞窟の入口を抜けていく。
その先の世界では、まだ何も知らないまま時間が進んでいる。
ただ、この小さな世界だけが、少しだけ止まっているようだった。
幸せだった。
この幸せがいつまでも続けばいいと――そう思っていた。
けれど、この世界に、永遠と続くものなんてない。
頭では分かっているはずなのに、
雫は何度も、その“続いてほしい日常”に縋ってしまうのだ。
* * *
洞窟での暮らしが始まってから、数週間。
最初はただの仮住まいだった場所は、
いつの間にか、二人にとっての新たな「帰る場所」になっていた。
朝起きて、湖へ水を汲みに行って。
木の実を採って。
夜は火の代わりに、静かな声だけを頼りに眠る。
それだけの生活が、あまりにも穏やかで。
だからこそ、それが壊れる予感に鈍くなっていたのかもしれない。
その日。
いつもより早く、空気が違った。
雫が水場から戻ってきたとき、
ルカはすでに洞窟の入口の方を見ていた。
「……誰か来た」
短い声。
その一言で、すべてが伝わった。
次の瞬間だった。
遠くから、複数の足音。
一人ではない。



