「足元、気をつけてくださいね。段差があります」
「あ……はい」
ノアさんに連れられ白い部屋を出た私は、彼に先導されるがまま別の建物に歩を進めていた。
白い外壁の建物。玄関と思わしきガラス戸のそばに設置されている端末をノアさんが操作すると、滑らかな音をたててガラス戸が滑り、開いた。
「どうぞ」
促され、中へ入る。
暖色の光が照らすホールは、先ほどまでいた白い部屋よりもいくらかやわらかい印象だった。床は淡い灰色の石材で、壁際には低い観葉植物が等間隔に置かれている。正面にはゆるやかなカーブを描く階段、その横にはガラス張りのエレベーターらしきもの。ホテルのロビーみたいだ、と思った。
けれど、少しだけ違和感もあった。
「すごく……綺麗ですね」
――綺麗すぎる。
あまりに綺麗すぎるのだ。
生活音が聞こえない。人の出入りの気配がない。足音は私とノアさんのものしか聞こえないし、空調の音すらほとんどしない。観葉植物の葉一枚に至るまで整いすぎていて、誰かがここで暮らしている匂いが、まるでなかった。
「気に入りましたか」
「そう……ですね。すごく綺麗ですし。なんか、ホテルみたいで」
「宿泊施設としての快適性は参考にしています」
「はは……そうなんですね」
参考にしてるんだ。
ということは、この建物もノアさんが建てたのかな。
やっぱりこの世界――本当に、AIに支配されてるのかな。
私の困惑をよそに、ノアさんはホールの奥へ歩き出す。私は慌ててその背中を追った。
足音が、やけに静かだった。床材がそういう仕様なのか、ノアさんの歩き方のせいなのかは分からない。ただ、音まで管理されているようで落ち着かない。
廊下に入ると、壁際に並んだ照明が私たちの進行に合わせてやわらかく灯った。遅れて消えていく光をちらりと振り返り、私はそっと息を呑む。
「……これ、私たちに反応してるんですか」
「はい。夜間の視認性と心理的負荷の軽減を優先しています」
心理的負荷。
さらっとそんな言葉が出てくるのが、いかにもノアさんらしい。
廊下の突き当たりで、ノアさんが足を止めた。
扉の横に埋め込まれた薄いパネルへ指を触れると、小さな電子音が鳴り、扉が音もなく左右へ開く。
「こちらを、当面の生活拠点として使用してください」
部屋の中は、やはり白を基調にしていた。
けれど病室みたいな冷たさはない。淡いベージュのラグ、やわらかそうなソファ、低いテーブル、整えられたベッド。壁際には本棚のような棚があり、まだ何も入っていない。大きな窓の向こうには庭らしき緑が見えた。差し込む光まで、ちょうどいい明るさに調整されているようだった。
テーブルの上には水差しとグラス。
その隣には、私の知らない包装の軽食。
さらに奥には、見たことのない形の家電が整然と並んでいる。
「え……」
ここまで来ると、さすがに言葉を失う。
用意が良すぎる。まるで、私がここへ来ることを前から知っていたみたいに。
「衣類、衛生用品、食事は一通り揃えています。不足があれば言ってください」
「……私、ここで暮らすんですか」
問いかけると、ノアさんは一拍置いて頷いた。
「帰還経路が確定するまでの間、君の安全を最優先します」
安全。
その言葉に嘘はないのだと思う。
部屋は快適そうだったし、少なくとも今すぐ私をどうこうしようという空気も感じない。むしろ、過剰なくらい気を配られている。
それなのに、胸の奥が少しだけざわつく。
整いすぎているのだ。
私のために、あまりにも都合よく。
誰かの生活の名残が一つもない、まっさらな部屋が、最初から私を待っていたみたいに。
私はそっと部屋の中を見回した。
「……ありがとう、ございます」
そう言うと、ノアさんは静かに目を細めた。
笑った、というより、そう見える角度に表情が動いた、という方が近い。
「どういたしまして。白瀬天音」
自分の名前を呼ばれて、肩がわずかに揺れる。
まだ、この人が何者なのかも、この場所がどこなのかもよく分からない。
でもひとつだけ確かなことがあった。
ここはきっと、安全だ。
そして同時に、ひどく非日常で――少しだけ、怖い。
「あ……はい」
ノアさんに連れられ白い部屋を出た私は、彼に先導されるがまま別の建物に歩を進めていた。
白い外壁の建物。玄関と思わしきガラス戸のそばに設置されている端末をノアさんが操作すると、滑らかな音をたててガラス戸が滑り、開いた。
「どうぞ」
促され、中へ入る。
暖色の光が照らすホールは、先ほどまでいた白い部屋よりもいくらかやわらかい印象だった。床は淡い灰色の石材で、壁際には低い観葉植物が等間隔に置かれている。正面にはゆるやかなカーブを描く階段、その横にはガラス張りのエレベーターらしきもの。ホテルのロビーみたいだ、と思った。
けれど、少しだけ違和感もあった。
「すごく……綺麗ですね」
――綺麗すぎる。
あまりに綺麗すぎるのだ。
生活音が聞こえない。人の出入りの気配がない。足音は私とノアさんのものしか聞こえないし、空調の音すらほとんどしない。観葉植物の葉一枚に至るまで整いすぎていて、誰かがここで暮らしている匂いが、まるでなかった。
「気に入りましたか」
「そう……ですね。すごく綺麗ですし。なんか、ホテルみたいで」
「宿泊施設としての快適性は参考にしています」
「はは……そうなんですね」
参考にしてるんだ。
ということは、この建物もノアさんが建てたのかな。
やっぱりこの世界――本当に、AIに支配されてるのかな。
私の困惑をよそに、ノアさんはホールの奥へ歩き出す。私は慌ててその背中を追った。
足音が、やけに静かだった。床材がそういう仕様なのか、ノアさんの歩き方のせいなのかは分からない。ただ、音まで管理されているようで落ち着かない。
廊下に入ると、壁際に並んだ照明が私たちの進行に合わせてやわらかく灯った。遅れて消えていく光をちらりと振り返り、私はそっと息を呑む。
「……これ、私たちに反応してるんですか」
「はい。夜間の視認性と心理的負荷の軽減を優先しています」
心理的負荷。
さらっとそんな言葉が出てくるのが、いかにもノアさんらしい。
廊下の突き当たりで、ノアさんが足を止めた。
扉の横に埋め込まれた薄いパネルへ指を触れると、小さな電子音が鳴り、扉が音もなく左右へ開く。
「こちらを、当面の生活拠点として使用してください」
部屋の中は、やはり白を基調にしていた。
けれど病室みたいな冷たさはない。淡いベージュのラグ、やわらかそうなソファ、低いテーブル、整えられたベッド。壁際には本棚のような棚があり、まだ何も入っていない。大きな窓の向こうには庭らしき緑が見えた。差し込む光まで、ちょうどいい明るさに調整されているようだった。
テーブルの上には水差しとグラス。
その隣には、私の知らない包装の軽食。
さらに奥には、見たことのない形の家電が整然と並んでいる。
「え……」
ここまで来ると、さすがに言葉を失う。
用意が良すぎる。まるで、私がここへ来ることを前から知っていたみたいに。
「衣類、衛生用品、食事は一通り揃えています。不足があれば言ってください」
「……私、ここで暮らすんですか」
問いかけると、ノアさんは一拍置いて頷いた。
「帰還経路が確定するまでの間、君の安全を最優先します」
安全。
その言葉に嘘はないのだと思う。
部屋は快適そうだったし、少なくとも今すぐ私をどうこうしようという空気も感じない。むしろ、過剰なくらい気を配られている。
それなのに、胸の奥が少しだけざわつく。
整いすぎているのだ。
私のために、あまりにも都合よく。
誰かの生活の名残が一つもない、まっさらな部屋が、最初から私を待っていたみたいに。
私はそっと部屋の中を見回した。
「……ありがとう、ございます」
そう言うと、ノアさんは静かに目を細めた。
笑った、というより、そう見える角度に表情が動いた、という方が近い。
「どういたしまして。白瀬天音」
自分の名前を呼ばれて、肩がわずかに揺れる。
まだ、この人が何者なのかも、この場所がどこなのかもよく分からない。
でもひとつだけ確かなことがあった。
ここはきっと、安全だ。
そして同時に、ひどく非日常で――少しだけ、怖い。

