人造神域-拡張プロトコル-

「君は、この世界に存在していないようです」

 ノアさんの言葉が、白い部屋の中に静かに落ちた。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
存在していない。
私が。
今、ここにいるのに。

「……どういう、意味ですか」

 声がかすれた。
ノアさんは表情を変えない。薄い氷みたいな目で、まっすぐ私を見ている。

「この世界における出生記録、戸籍情報、教育履歴、医療履歴、居住記録、遺伝子登録。君に関するあらゆる記録の存在が確認できません」

「そんなはずないです」

 反射的に言い返していた。
だって、そんなはずがない。
 私は普通に生きてきた。朝起きて、学校に行って、家に帰って、スマホを見て、友達と話して。コンビニに寄ったことだってあるし、テストで微妙な点を取って落ち込んだこともある。
 存在しないなんて言われるような人生じゃない。

「あります。私の家も、学校も、家族も、友達も……ちゃんと……ちゃんと」

「この世界には、ありません」

その一言で、喉の奥が冷たくなった。

「この、世界……?」

「君の記憶にある社会構造、地名、通信規格、貨幣体系、教育制度。それらの多くが、現行世界の記録と一致しません」

 ノアさんの声は綺麗だった。静かで、低くて、何の迷いもない。だから余計に怖い。

「現時点で最も整合性の高い結論は、ひとつ」

「……結論?」

「白瀬天音。君は、異なる世界系からこの世界へ非連続転移した可能性が高いと思われます」

 息が止まった。
――異なる世界系。
――非連続転移。
言葉だけなら、どこかの小説で見たことがある気がする。異世界トリップとか、異世界転移とか、そういうやつ。
でも、それは物語の中の話だ。
普通に昨日まで自分の部屋で寝ていた女子高生に起きることじゃない。

「……そんなの、あるんですか」

「発生事例は確認されていませんね」

「じゃあ、なんで」

「理由をお聞きになりたいのですか」

ノアさんは、少しも揺れずに言った。

「既存事例が存在しないことは、発生不可能を意味しません。君は、この世界の記録外から到達した――ならば、原因を解析するしかないかと」

 そう言い切る姿は、人間というより、冷たい巨大な機械の中枢みたいだった。
私は、布団を握る指に力を込める。

「ノアさんは……何なんですか」

ノアさんは少しだけ沈黙した。

「私は、NOA-HC00。Networked Oversight Administrator - Human Continuity 00」

 最初に聞いた、長い英語と数字。
やっぱり名前というより、機械の型番みたいだった。

「人類存続ネットワーク監督管理体・零号機。この世界における人類存続計画の中枢管理AIです」

「中枢、管理……AI」

 言葉を繰り返すだけで精一杯だった。
AI。人工知能。
そういう意味で合っているのだろうか。
でも、目の前にいるノアさんは、どう見ても人間に見える。銀白の髪も、淡い氷みたいな目も、白い上着の裾が静かに揺れる様子も、全部があまりにも綺麗で、あまりにも現実離れしている。

「――この世界は、AI統治下にあります」

ノアさんは続ける。

「戦争、飢餓、大規模犯罪、医療崩壊。人類の存続を脅かす要因は、管理対象として処理される」

「……それって」

 AIが人類を支配してるってことですか、と言いかけて、飲み込んだ。
今、それを言う勇気はなかった。
代わりに、もっと切実な言葉が出る。

「帰してください」

ノアさんの目が、わずかに細くなった。

「帰還希望を確認」

「希望じゃなくて、お願いです。私は、ここにいたいわけじゃありません。元の世界に帰りたいんです」

 泣きそうだった。
でも、ここで泣いたら本当に何もできなくなりそうで、必死にこらえた。

「私の家に帰してください。元の世界に、帰してください」

 白い部屋が、しんと静まり返る。
ノアさんは、私を見ていた。表情は変わらない。けれどその視線は、さっきより少しだけ深くなった気がした。

「現時点では、帰還経路は未確定です」

胸が沈む。

「……帰れないってことですか」

「何とも。ただ確定していない、というだけです」

ノアさんは、曖昧に否定した。

「君がこの世界へ到達した以上、経路は存在するのでしょう。転移時の空間干渉、座標痕跡、世界系間の接続残滓を解析すれば、逆方向の経路を再構成できる可能性がある」

 難しい言葉ばかりだった。
でも、ひとつだけ分かった。
帰れる可能性は、ゼロじゃない。

「本当に……?」

「保証はできませんが」

ノアさんは嘘みたいに正直だった。

「ですが、解析は行います」

「手伝って、くれるんですか」

「君の帰還希望を保存しました。希望の実現に必要な手段を探索します」

 その言い方は、やっぱり少し機械みたいだった。
でも今の私には、それでも救いに聞こえた。
私は震える息を吐く。

「じゃあ……帰れるまで、私はどうすればいいんですか」

「保護します」

短い言葉だった。

「君はこの世界の管理網に接続されていません。身分も権限も、防護履歴も存在しない。外部環境へ出れば、予測不能の危険に晒されるでしょう」

「だから、ここにいろってことですか」

「当面は」

 やっぱり怖い。
でも、この白い部屋から飛び出して、どこへ行けばいいのかも分からない。

「……分かりました」

 そう答えるしかなかった。
その直後、ノアさんの横に、薄い光の文字が浮かんだ。
英語、だと思う。
青白い文字列が、空中に静かに並んでいく。


 [UNREGISTERED INDIVIDUAL DETECTED]
 Name: Shirase Amane
 Origin: Unknown
 Worldline Compatibility: 0.00%
 Administrative Link: Not Connected
 Return Request: Strong
 Protection Priority: Assigned
 Observation Status: Active


「……それ、何ですか」
 
「記録です」

「……私の?」

「はい」

……読めない。
でも、自分の名前だけは分かった。

――Shirase Amane.
その文字だけが、白い部屋の中で妙に生々しく見えた。
ノアさんは、変わらない声で言う。

「君の帰還経路を解析します。それまで、君は私の保護下で生活してください」

 保護。
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
少なくとも、ノアさんは私を傷つけようとしているわけではないらしい。帰る方法も探してくれると言っている。
 けれど、安心しきることはできなかった。
この人は、私の名前を知っていた。
私の呼吸が乱れたことにも気づいて、部屋の明かりや温度まで変えた。
 たぶん、私が思っているよりずっと多くのものが、この人には見えている。
 そう思うと、ありがたいはずの「保護」という言葉が、少しだけ知らない形をして見えた。