膝の上で眠る雪弥の呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
木漏れ日が彼の端正な横顔を照らし、長い睫毛が微かに揺れている。さっきまでの激しい息切れが嘘のように静かなその姿は、まるで時間そのものが止まってしまったかのようだった。
「……雪弥」
さっき、初めて呼び捨てにした彼の名前を、もう一度小さく呟いてみる。
指先に触れる彼の髪は驚くほど柔らかくて、その熱を感じるたびに、胸の奥がキュッと締め付けられた。
『お前は、俺の名前を呼べ。雪弥って、何度も叫べ』
彼が遺した命令が、私の耳の奥で何度もリフレインする。どうして彼はあんなに必死だったんだろう。
どうしてあんなに悲しい目で私を見たんだろう。
十分、いや二十分ほど経っただろうか。
ふいに、雪弥の身体がビクリと跳ねた。
「……っ!」
弾かれたように彼が顔を上げる。膝から頭が離れ、彼は激しく混乱した様子で周囲を見渡した。
「雪弥? あ、起きた? まだ顔色悪いよ、もう少し休んで……」
私が心配して彼の肩に手を伸ばした、その時だった。
「……触んな」
低く、地を這うような声。
雪弥は私の手を乱暴に振り払うと、見たこともないような冷徹な瞳で私を射抜いた。
そこには、昨日の溺愛も、さっきまでの脆さも微塵もなかった。ただ、得体の知れない侵入者を警戒するような、鋭い拒絶だけがあった。
「……お前、誰だ」
時が止まった。
心臓がドクンと大きく脈打ち、指先から血の気が引いていくのがわかる。
「え……? 雪弥、何言ってるの……? 私だよ、空音だよ?」
「空音……? そんな名前、知らねーよ。……なんで俺がお前の膝なんかで……。っ、クソッ!」
雪弥は自分の頭を抱え、苦しそうに顔を歪めた。
その瞳は泳ぎ、焦点が合っていない。彼は必死に、今目の前にいる「私」という存在を脳内から探し出そうとしているようだった。
けれど、その検索結果は――「空白」なのだ。
恐怖が、私の全身を支配した。
昨日まで「俺の女だ」と傲慢に笑っていた彼が。
ついさっきまで、私の膝で安らかに眠っていた彼が。
今、私を完全に「他人」として見ている。
「冗談……だよね? 雪弥、面白くないよ……」
私の声は、自分でも驚くほど震えていた。
けれど、雪弥は答えなかった。ただ、荒い呼吸を繰り返しながら、自分の手のひらをじっと見つめている。
その時、私は思い出した。彼が言った「命令」を。
『もし俺が、お前が誰だか分かんねーような顔してても……雪弥って、何度も叫べ』
今だ。今、呼ばなきゃいけない。
喉が詰まって、涙が溢れそうになるのを必死に堪えて、私は彼の名前を叫んだ。
「雪弥!!」
ビクッと彼の身体が震える。
「雪弥! 神崎雪弥! 私を見て! 星野空音だよ! 二人三脚、一緒に出るって約束したでしょ!?」
何度も、何度も、彼の中に私の記憶を叩き込むように叫び続ける。
やがて、雪弥の瞳にゆっくりと光が戻り始めた。霧が晴れるように、彼の視線が私を捉え、その焦点が一点に結ばれる。
「……あ。…………空、音?」
掠れた、聞き慣れた声。
雪弥は数秒間、呆然と私を見つめたあと、何かに気づいたように顔を真っ赤にして、わざとらしく私を突き放した。
「……っ、お前! いきなり大声出すんじゃねーよ! 耳が痛いだろ!」
「……雪弥……」
「……あー、わりー。ちょっと寝ぼけてただけだ。変な顔すんな、ブスになるぞ」
いつもの俺様。いつもの意地悪。
でも。私を突き放した彼の指先が、隠しようもないほど激しく震えているのを、私は見てしまった。
雪弥は「寝ぼけてた」と嘘をついた。
私は「よかった」と嘘をついた。
これが、私たちの間に生まれた、最初で、一番悲しい秘密。
中学三年生の、残酷なカウントダウン。
私たちはまだ、本当の地獄の入り口に立ったばかりだった。
木漏れ日が彼の端正な横顔を照らし、長い睫毛が微かに揺れている。さっきまでの激しい息切れが嘘のように静かなその姿は、まるで時間そのものが止まってしまったかのようだった。
「……雪弥」
さっき、初めて呼び捨てにした彼の名前を、もう一度小さく呟いてみる。
指先に触れる彼の髪は驚くほど柔らかくて、その熱を感じるたびに、胸の奥がキュッと締め付けられた。
『お前は、俺の名前を呼べ。雪弥って、何度も叫べ』
彼が遺した命令が、私の耳の奥で何度もリフレインする。どうして彼はあんなに必死だったんだろう。
どうしてあんなに悲しい目で私を見たんだろう。
十分、いや二十分ほど経っただろうか。
ふいに、雪弥の身体がビクリと跳ねた。
「……っ!」
弾かれたように彼が顔を上げる。膝から頭が離れ、彼は激しく混乱した様子で周囲を見渡した。
「雪弥? あ、起きた? まだ顔色悪いよ、もう少し休んで……」
私が心配して彼の肩に手を伸ばした、その時だった。
「……触んな」
低く、地を這うような声。
雪弥は私の手を乱暴に振り払うと、見たこともないような冷徹な瞳で私を射抜いた。
そこには、昨日の溺愛も、さっきまでの脆さも微塵もなかった。ただ、得体の知れない侵入者を警戒するような、鋭い拒絶だけがあった。
「……お前、誰だ」
時が止まった。
心臓がドクンと大きく脈打ち、指先から血の気が引いていくのがわかる。
「え……? 雪弥、何言ってるの……? 私だよ、空音だよ?」
「空音……? そんな名前、知らねーよ。……なんで俺がお前の膝なんかで……。っ、クソッ!」
雪弥は自分の頭を抱え、苦しそうに顔を歪めた。
その瞳は泳ぎ、焦点が合っていない。彼は必死に、今目の前にいる「私」という存在を脳内から探し出そうとしているようだった。
けれど、その検索結果は――「空白」なのだ。
恐怖が、私の全身を支配した。
昨日まで「俺の女だ」と傲慢に笑っていた彼が。
ついさっきまで、私の膝で安らかに眠っていた彼が。
今、私を完全に「他人」として見ている。
「冗談……だよね? 雪弥、面白くないよ……」
私の声は、自分でも驚くほど震えていた。
けれど、雪弥は答えなかった。ただ、荒い呼吸を繰り返しながら、自分の手のひらをじっと見つめている。
その時、私は思い出した。彼が言った「命令」を。
『もし俺が、お前が誰だか分かんねーような顔してても……雪弥って、何度も叫べ』
今だ。今、呼ばなきゃいけない。
喉が詰まって、涙が溢れそうになるのを必死に堪えて、私は彼の名前を叫んだ。
「雪弥!!」
ビクッと彼の身体が震える。
「雪弥! 神崎雪弥! 私を見て! 星野空音だよ! 二人三脚、一緒に出るって約束したでしょ!?」
何度も、何度も、彼の中に私の記憶を叩き込むように叫び続ける。
やがて、雪弥の瞳にゆっくりと光が戻り始めた。霧が晴れるように、彼の視線が私を捉え、その焦点が一点に結ばれる。
「……あ。…………空、音?」
掠れた、聞き慣れた声。
雪弥は数秒間、呆然と私を見つめたあと、何かに気づいたように顔を真っ赤にして、わざとらしく私を突き放した。
「……っ、お前! いきなり大声出すんじゃねーよ! 耳が痛いだろ!」
「……雪弥……」
「……あー、わりー。ちょっと寝ぼけてただけだ。変な顔すんな、ブスになるぞ」
いつもの俺様。いつもの意地悪。
でも。私を突き放した彼の指先が、隠しようもないほど激しく震えているのを、私は見てしまった。
雪弥は「寝ぼけてた」と嘘をついた。
私は「よかった」と嘘をついた。
これが、私たちの間に生まれた、最初で、一番悲しい秘密。
中学三年生の、残酷なカウントダウン。
私たちはまだ、本当の地獄の入り口に立ったばかりだった。


