『俺様王子が不器用についた最初で最後の優しい嘘。』

中学三年生、冬。


 校庭の隅に積まった雪が、冷たく、無機質な白さを放っている。


 病院のロータリー。雪弥を乗せた車が、ゆっくりと動き出した。排気ガスの白い煙が、私の視界を曇らせる。窓の向こう側に座る彼は、一度もこちらを振り返らなかった。


 あの日、「俺の女だ」と傲慢に笑って私を抱きしめた、あの熱い体温を持つ王子様は、もうどこにもいない。そこにいたのは、ただ窓の外を眺める、真っ白な虚無を抱えた一人の少年だった。


「空音ちゃん……これを」


 雪弥のお母様が、震える手で私に一通の封筒を差し出した。


「あの子が、転院が決まった日の夜に、必死で書いていたものよ。看護師さんに、『もし俺が、あいつの顔を見ても何も感じなくなっていたら、渡してくれ』って……」


 私はその封筒をひったくるように受け取ると、病院の中庭へと走り出した。


 冷たい風が頬を刺す。指先が凍りつく。けれど、胸の奥だけが、焼け付くような熱を持っていた。


 ベンチに座り、震える手で封を切る。中から出てきたのは、数枚の便箋だった。


 そこには、いつもの自信に満ちた、堂々とした雪弥の筆跡はなかった。何度も何度も書き直され、文字が歪み、あちこちが涙の跡で波打って、インクが滲んで読めなくなった、ボロボロの言葉たちが並んでいた。


『……おい、空音。

 この手紙をお前が読んでるってことは、今の俺はもう、お前の顔を見ても、お前の名前を聞いても、何も思い出せねー「他人」になってるんだろ。
 
まず最初に、謝らせろ。

 ここ数日の俺は、きっと史上最低のクズだったはずだ。「お前なんか知らない」なんて嘘をついて、冷たい目で突き放して。お前が泣きそうな顔をしてるのに、それさえも「重い」なんて言って、お前を追い返した。

 ……ごめんな。今の俺は、俺じゃねーんだ。

 お前を抱きしめた時の、あの甘い体温も。

 二人三脚で、土埃にまみれながら一緒に走ったグラウンドの匂いも。

 修学旅行の夜、非常階段でこっそり交わした秘密の約束も。

 お揃いの指輪に誓った、ありもしない未来の夢も……。

 全部、俺の中から消えていく。砂時計の砂みたいに、一粒ずつ、確実にこぼれ落ちて、真っ白な何かに書き換えられていくんだ。それが、死ぬほど怖くて、たまらねーんだよ』


 視界が、一瞬で歪んだ。


 涙が便箋に落ちて、彼の名前を濡らす。


『空音、俺にとって、お前を「神崎雪弥の女」として、世界で一番幸せに守り抜くことが、生きてる意味だった。お前が俺を見て笑うだけで、俺は世界を手に入れたような気分になれた。

 でも、もう今の俺には、そのプライドを守る資格すら残ってねー。

 だから、これは俺様からの、最初で最後の、一番残酷な命令だ。

 ……俺を、捨てろ。

 お前はまだ、たったの十五歳だ。これからもっと素敵な奴に出会って、もっと楽しい場所に行って、俺との記憶なんて「あんな時期もあったな」って、いつか笑って思い出せるくらい幸せになれ。
 
俺みたいな、毎日中身が壊れていく欠陥品に、お前の綺麗な時間をこれ以上一秒も使わせたくねーんだよ。

 俺を忘れて、光の中にいろ。

 お前から俺を消すことが、俺が最後に、お前にしてやれる唯一の「溺愛」なんだ。……わかったな』

 突き放すような、俺様を装った悲しい嘘。

 その文字の奥から、彼の「行かないで」という悲鳴が聞こえてくるようで、私は声を上げて泣いた。

 けれど、手紙には、さらに続きがあった。

 一度、ペンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされた跡。その下に、さらに筆圧を込め、紙を突き破るような勢いで綴られた、血を吐くような「本音」が隠されて
いた。

『……なんてな。……クソ、やっぱり無理だ。

 今の全部、嘘だ。嘘なんだよ、空音。

 本当は、嫌だ。死んでも嫌だ。お前を誰かに渡すなんて、想像しただけで死にたくなる。

 忘れてほしくねーよ。他の男の名前を、その口で呼んでほしくねーよ。俺以外の奴と指輪を嵌めて、俺以外の奴の隣で笑うお前なんて、絶対に見たくねーんだ!

 空音、助けてくれ。

 俺を、あの放課後の図書室に連れ戻してくれ。

 俺が全部忘れて、他人みたいな顔でお前を追い返しても……絶対に、絶対に俺を諦めないでくれ。

 俺を殴ってでも、泣きついてでも、何度だって俺を、お前の隣に繋ぎ止めてくれ。

 俺から「記憶」を奪っても、俺から「空音」だけは奪わせないでくれ。

 俺様が唯一、魂まで捧げた女はお前だけだ。

 だから……俺を、一人にしないでくれ。

 忘れたくないんだ。お前の顔を。お前の声を。お前の、……俺を呼ぶその声を。

 大好きだ。世界で一番、愛してる。
 
 神崎 雪弥』


 最後の一行は、もう文字の形をなしていなかった。


 ただ、震える手で何度も何度もなぞった跡があり、そこには彼の涙のシミが、いくつもいくつも重なっていた。

 
「……雪弥の、バカ……!! 誰が、諦めるもんか……っ!!」


 私は手紙を胸に抱きしめ、叫びながら走り出した。


 まだ近くにいる。まだ、あそこに見える。


 彼を乗せた白い車が、信号待ちで止まっているのが見えた。

 
 私は病院の長い坂道を、心臓が破裂しそうなほど速く駆け下りた。


 冷たい空気が肺を焼き、足がもつれて転びそうになる。それでも止まらなかった。
 
「雪弥!! 雪弥——!!」
 
 車の窓を、拳が壊れるほど叩いた。


 車内では、虚ろな瞳で空を見つめていた雪弥が、驚いたように顔を上げた。


 私は手紙を掲げ、ボロボロと溢れ出す涙を拭いもせずに、窓越しに彼を見つめた。

 
「雪弥! あんたの命令なんて、一生聞かない!! 私は、あんたを捨てない! 何度忘れても、私が一生、あんたを追いかけて、何度だって恋をさせて、何度だってあんたを私に溺れさせてやるから!! 覚悟しなさいよ、この俺様王子!!」

 
 雪弥は、窓一枚隔てた私の姿を、呆然と見つめていた。


 記憶はない。今の彼は、私のことを何も知らないはず。
 けれど。


 車がゆっくりと動き出したその瞬間、雪弥の瞳が激しく揺れた。


 そして、彼の目尻から、一筋の、熱い涙がこぼれ落ちるのを私は見た。

 
 彼は、自分の目に流れた涙の意味さえ、もう分からないのかもしれない。


 それでも、彼の魂が、私の声に反応して泣いていた。

 
 車は遠ざかり、角を曲がって、雪の中に消えていった。


 私は一人、雪の降るロータリーに立ち尽くし、左手の薬指で光るペアリングを強く握りしめた。

 
 雪弥。


 あなたが私を忘れるのが、あなたの運命だと言うのなら。


 私があなたを一生愛し続けることが、私の運命だ。

 
 たとえ明日、あなたの世界が真っ白になっても。
 

私がそのキャンバスに、毎日新しい「愛してる」を描き込んであげる。

 
 中学三年生、最後の日々。


「……待ってて。……絶対、見つけに行くから」