『俺様王子が不器用についた最初で最後の優しい嘘。』

 雪弥に「来ないでくれ」と突き放され、泣きながら病室を飛び出した私の前に、雪弥のお父様とお母様が立っていた。


 数日前、神崎家で「自慢の嫁だ」と雪弥が照れながら紹介してくれた時の、あの温かな空気はもうどこにもない。二人の顔には、深い疲労と、張り詰めたような悲しみが刻まれていた。


「……空音ちゃん。少し、話せるかしら」


 お母様に促され、私たちは病院の中庭にあるベンチへ移動した。


「雪弥から、ひどいことを言われたわね。……ごめんなさい。あの子、今は自分の状況を受け入れるので精一杯なの」


 お母様の手が、私の震える手をそっと包み込む。その優しさが、逆に私の涙を誘った。


「おじさま、おばさま……。私、どうすればいいんでしょうか。雪弥が、私の顔を見るのが辛いって……」


 すると、今まで黙っていたお父様が、重い口を開いた。


「空音ちゃん。……君に、一つ提案がある」


 お父様の瞳は、経営者としての冷徹さと、父親としての苦悩が混ざり合っていた。


「……雪弥を、このまま転院させることに決めた。もっと設備の整った、地方の療養施設だ。そこなら、彼を刺激する『過去』は何もない。……君も、もう彼に会うことはできなくなる」


「……っ!? そんなの、嫌です! どうして……!」


「彼が君を拒絶しているのは、君を愛していた『自分』を思い出せない自分を、彼自身が許せないからだ。君がいれば、彼は一生、罪悪感という檻から出ら
れない。……君を解放するためでもあるんだよ」


 解放。その言葉が、残酷に響く。


 雪弥を忘れて、普通の女子中学生に戻れ。それが、彼を守るための唯一の道だと、大人は言う。


「……空音ちゃん。雪弥は、最後にこのノートを私たちに預けたの」


 お母様が差し出したのは、あのボロボロの黒い手帳だった。


 震える手でページをめくると、以前見たものよりもずっと新しく、そしてずっと乱暴な文字で、最後の一ページにこう記されていた。


『もし俺が壊れたら、空音を俺から自由にしてやれ。……あいつを、俺の地獄に道連れにするな』


 それは、記憶を失う直前の雪弥が、泣きながら書いたであろう、究極の「俺様」な溺愛の結末だった。


 自分を犠牲にしてでも、私だけは光の中にいてほしいという、不器用で、傲慢な愛。


「雪弥のバカ……っ」


 私は手帳を胸に抱きしめ、お父様を真っ直ぐに見据えた。


「……嫌です。転院させてもいいです。でも、私は絶対に離れません。雪弥が私を『自由』にしたいなら、まずは私の前で、いつもの俺様な顔でそう命令さ
せてみせます。……今の『他人』の雪弥に、私たちの運命を決めさせたりしません!」


 私の宣言に、お父様は驚いたように目を見開き、やがて小さく息を吐いた。


「……雪弥のやつ、とんでもない女を捕まえたな」


 雪弥。あなたの両親さえ、あなたの嘘に加担しようとしてる。


 でも、私は騙されない。

 
 たとえあなたが私を忘れて、世界の果ての療養所へ行ったとしても。


 私は必ず、あなたを「私の隣」へと連れ戻しに行くから。