『俺様王子が不器用についた最初で最後の優しい嘘。』

その場所は、図書室の夕焼けが嘘のように思えるほど、無機質な白に支配されていた。


 高い天井、消毒液の冷たい匂い。雪弥が入院した隔離病棟の談話室で待っていたのは、窓の外をぼんやりと眺める、一人の少年だった。


「……雪弥」


 震える声で呼ぶ。けれど、彼は振り返らない。


 以前の彼なら、「遅いんだよ、空音」と不敵に笑って、私を強引に引き寄せたはずなのに。


 私は彼の正面に回り込み、その視線を無理やり自分へと向けさせた。


「……あ。こんにちは。……えっと、僕に何か御用ですか?」


 心臓を、鋭い氷の棘で刺されたような衝撃。


 雪弥の瞳は、一点の濁りもなく澄んでいた。けれど、そこには私を「溺愛」していた熱も、独占欲も、執着も、ひとかけらも残っていない。


「……雪弥。私だよ、星野空音。昨日まで、ずっと一緒に……」


「ホシノ、ソラネ……さん。……すみません、お名前は先ほど看護師さんから伺ったんですけど……。どうしても、思い出せなくて」


 彼は申し訳なさそうに眉を下げ、困ったように笑った。


 敬語。他人を見るような、丁寧で、距離のある微笑み。

 
 雪弥は私の左手で光る『ペアリング』に気づくと、「あ、それ」と指をさした。


「……僕の指にも、同じものが嵌まってるんです。……きっと、君は僕にとって、すごく大切な人だったんですよね」


 自分の指輪を見つめる彼の目は、まるで遺品を確認する鑑定士のようで、私はたまらず彼の両手を強く握りしめた。


「『だった』じゃないよ! 今も、これからもだよ! 雪弥は、私のこと、世界で一番タイプだって言ったんだよ……っ」


 必死に訴えかける私の言葉に、雪弥は一瞬だけ、不思議そうに目を見開いた。


 そして、私の手をそっと、でも確実に振り払った。


「……ごめんなさい。……今の僕には、君の愛が……少しだけ、怖いです」


 その一言が、昨日までの幸せな記憶をすべて否定されたようで、私はその場に崩れ落ちそうになった。


 記憶を失った彼は、俺様でも王子様でもない。ただの、優しくて、臆病な、どこにでもいる男の子になっていた。


 けれど、その時。


 私は思い出した。彼が図書室で最後に遺した、あの残酷な「命令」を。


『俺を、……ぶん殴ってでも、……「雪弥のバカ」って……笑ってくれ』


 私は涙を乱暴に拭うと、立ち上がり、雪弥の胸ぐらをぐいっと掴んだ。


「……っ、な、何……っ?」


「雪弥のバカ! 何が『怖い』だよ! 私を溺愛するって、一生離さないって、勝手に決めたのは雪弥でしょ!?」


 雪弥は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、呆然としている。


「思い出せないなら、もう一回惚れさせてあげる。……いい? これは命令。……今日から私が、雪弥の新しい主人になってあげるから、覚悟しなさいよ!」


 俺様キャラを真似して叫ぶ私の言葉に、雪弥は一瞬だけ、懐かしいものを見るように目を細めた。


「……ふふっ。……君、本当におかしな人だね」


 それは、今日初めて彼が見せた、嘘のない笑顔だった。