『俺様王子が不器用についた最初で最後の優しい嘘。』

 修学旅行明けの月曜日。
 

教室に入った瞬間、クラス中の視線が私たちの左手に集中した。窓から差し込む朝日に反射して、お揃いの銀色のリングがキラリと光る。


「ちょっと、神崎くん! その指輪、星野さんとお揃い!?」


「婚約? 婚約しちゃったの!?」


 女子たちの黄色い悲鳴が飛び交う中、雪弥は面倒くさそうに髪をかき上げ、私の肩を抱き寄せた。


「あ? 見りゃわかんだろ。空音は俺の婚約者だ。……文句ある奴は、俺が直接相手してやるよ」


 不敵な笑みを浮かべて言い放つ雪弥。その堂々とした「俺様」っぷりに、教室内はさらに大騒ぎになったけれど、私の心はどこか落ち着かなかった。


 抱き寄せられた肩越しに、彼の鼓動がいつもより速く、激しく波打っているのが伝わってきたから。


 二時間目の数学。


 ふと隣の席を見ると、雪弥は教科書を広げたまま、右手のペンを止めていた。


 彼はじっと自分の左手の指輪を見つめ、それから、ノートの隅に何かを必死に書き殴っている。


(……何、書いてるの?)


 授業中、先生の目を盗んでこっそり覗き見ると、そこには衝撃の光景があった。


 ノートの端、余白という余白に、同じ言葉が何度も、何度も、筆圧を込めて記されていた。


『左手の指輪:京都のお土産屋で購入。空音とお揃い。俺の命より大切な女への誓い。絶対に忘れるな』


『空音の薬指にも同じもの。俺の所有印。外してたら怒れ』


『俺は、空音を愛してる』


 一文字一文字が、叫んでいるように見えた。


 彼は、休み時間のたびにクラスメイトから聞かれる「指輪の話」に答えながら、その実、自分自身の記憶がこぼれ落ちていくのを必死に食い止めていたん
だ。


 「婚約者だ」と笑ったあの言葉さえ、ノートに書かれたメモを読み返して、ようやく絞り出したものだったのかもしれない。


「……っ」


 私が鼻をすする音に気づいたのか、雪弥がパッとノートを腕で隠した。


「……おい、空音。授業中に人のノート覗き見してんじゃねーよ。……そんなに俺様が好きか?」


 いつもの意地悪な笑み。でも、その瞳の奥には、正解を言い当てられたかを確認するような、不安な光が宿っていた。


「……うん。大好き。雪弥の書く文字も、雪弥のくれた指輪も、全部大好きだよ」


 私が震える声でそう答えると、雪弥は少しだけ驚いたように目を見開き、それから耳まで真っ赤にして顔を背けた。


「……フン。当たり前だろ。……お前が俺を好きでいるのは、義務なんだよ。わかったか」


 彼は机の下で、私の左手を探り、指輪越しに指を絡めてきた。


 指輪と指輪が触れ合う、小さな金属音。


 それは、記憶という不確かなものに頼らず、今の「体温」だけを信じようとする、彼なりの不器用な溺愛の形。


 雪弥。ノートに書かなくても、私が全部覚えているから。


 あなたが指輪の意味を忘れるたびに、私が何度でも、初めて指輪を嵌めたあの時の熱さを教えてあげる。


 中学三年生、秋。


 二人の指先で光る銀色の円は、この時、どんな宝物よりも重く、優しく、私たちを繋いでいた。