『俺様王子が不器用についた最初で最後の優しい嘘。』



消灯時間を告げるチャイムが鳴り、静まり返った旅館。
 

私は心臓の鼓動が隣の寝床の友達に聞こえてしまうんじゃないかと思うほど、激しく打ち鳴らしていた。ポケットの中で震えたスマホには、雪弥から一言だけ、『非常階段に来い。三秒以内な』という無茶苦茶な命令が届いていた。


 こっそり部屋を抜け出し、薄暗い廊下を忍び足で進む。


 非常階段の扉を開けると、そこには浴衣姿の雪弥が、手すりに背を預けて待っていた。


「……遅い。三秒過ぎたぞ、空音」


「無理だよ、そんなの……っ」


 言いかけた私の口は、すぐに彼の大きな手のひらで塞がれた。


「しっ……。先生に見つかったら、お前のせいだからな」


 雪弥はニヤリと笑うと、私の腕を引いてさらに暗い踊り場へと引き寄せた。


 浴衣から漂う、旅館の石鹸と、雪弥自身の少し熱い匂い。


 いつもより着崩された胸元や、結び目が少し緩んだ帯が、中学生の私には眩しすぎて、直視できない。


「……なぁ、空音。さっきの自由行動の時、お前、俺が道迷ったと思って不安そうな顔してただろ」


「あ……気づいてたの?」


「当たり前だろ。お前の顔、ずっと見てんだから。……言っただろ、心配すんなって。俺が誰を忘れても、お前だけは、身体が勝手に反応するんだよ」


 雪弥は私の後頭部に手を回すと、ゆっくりと額を押し当ててきた。


 暗闇の中で、彼の茶色い瞳が潤んでいるように見えて、胸がズキリと痛む。


 雪弥はポケットから、ボロボロになった修学旅行の『栞』を取り出した。そこには、びっしりと地図の目印と、『空音が笑った場所』『空音が綺麗だと言
った景色』がメモされていた。


「これ、明日も明後日も、全部上書きしてやる。……お前の『初めて』の景色は、全部俺との記憶で埋め尽くしてやるからな」


 そう言って、雪弥は私の耳たぶを甘く噛んだ。


「……っ、ゆきや……」


「……名前、もっと呼べ。……俺様が、お前の心の一番深いところに刻み込まれるように。……一生、俺以外の男の名前を呼べねーようにしてやる」


 雪弥の独占欲は、静かな深夜の空気に溶けて、より深く私を縛り付ける。


 彼は私の浴衣の袖をぎゅっと握りしめたまま、小さな子供のように呟いた。


「……明日、目が覚めたら。……おはようって、俺の顔を見て言ってくれ。……そしたら、俺はまた『神崎雪弥』に戻れる気がするんだ」


 傲慢で、強引で、でも世界一臆病な私の王子様。


 私は彼の広い背中に腕を回し、浴衣越しに伝わるその熱を、一秒でも長く刻み込もうと強く抱きしめた。


「うん。……明日も、明後日も。ずっと私が、雪弥の隣でおはようって言うよ」


 窓の外、京都の街並みは静かに眠りについている。


 明日が来ることさえ怖かったはずの夜。


 雪弥の腕の中だけは、永遠に続く魔法がかかっているみたいに、優しくて、甘い時間が流れていた。