『俺様王子が不器用についた最初で最後の優しい嘘。』

退院後の初登校。


 校門をくぐる雪弥の背中は、以前と変わらず凛としていて、周囲を威圧するようなオーラを放っていた。けれど、その隣を歩く私だけは知っている。


彼がポケットの中で、何度も自分の名前とクラス、そして「星野空音」と書かれたメモを指でなぞっていることを。


「……おい。何ボーッとしてんだ。さっさと歩け」


「あ……ごめん。雪弥、体調は本当に大丈夫?」


「何度も言わせんな。俺様が大丈夫っつったら、大丈夫なんだよ」


 いつもの不遜な態度。でも、教室に入り、自分の席に座るまでの数秒間、彼は一瞬だけ迷子のような目をした。


私はさりげなく、彼の前を歩いて席まで誘導する。
 

彼が席に着き、ふぅと小さく息を吐いたのを見て、私は胸をなでおろした。


 けれど、本当の戦いはここからだった。


「空音。放課後、屋上に来い。……特別授業だ」


「授業? なんの?」


「俺が、俺であるための授業だ。……忘れたっつっただろ。俺が今までどうやってお前を弄んで、どうやってこの学園の頂点にいたか。……そのすべてを、

お前が俺に叩き込め」


 放課後。夕闇が迫る屋上。


 雪弥は柵に寄りかかり、私に向かって顎をしゃくった。


「……始めろ。まずは、俺とお前がどうやって出会ったか。……一言一句違わず、俺の脳に刻みつけろ」


 それは、彼が「神崎雪弥」という虚像を維持するための、必死のリハビリだった。


 私は彼と目が合った瞬間のこと、廊下で顎を掬い上げられたこと、「お前の顔めっちゃタイプ」と言われた最悪で最高の出会いを、丁寧に話した。


 雪弥は目を閉じ、私の言葉を一つ一つ、砂漠が水を吸い込むように聞き入っていた。


「……そうか。俺様は、最初から最高にイケてたわけだ」


「ふふ、自分で言うんだ」


「当たり前だろ。……次だ。俺がどうやってお前を溺愛してたか。……具体的に、実演付きで教えてみろ」


 雪弥はニヤリと笑うと、私の腰を強引に引き寄せた。


 以前の彼なら、迷いなく唇を奪っていたかもしれない。でも、今の彼の腕は、どこか確かめるように震えている。


「雪弥……」


「……空音。正直に言え。……俺は、今の俺を『カッコいい』と思えてるか?」


「……え?」


「記憶をなくして、女一人に頼り切ってる今の俺は……お前が惚れた『神崎雪弥』のままでいられてるか?」


 その問いは、傲慢な王子のプライドが上げた、悲鳴だった。


 私は彼の胸に顔を埋め、力強く頷いた。


「……いられてるよ。私を守ろうとして強がってる雪弥は、世界で一番カッコいい。……だから、何度でも教えるよ。雪弥がどれだけすごくて、どれだけ私
のことを好きだったか……全部、全部、私が教えてあげる」


 雪弥は私の髪を乱暴にかき混ぜると、深い溜息をついた。


「……お前、本当に生意気だな。……気に入った。……これからも、俺様の辞書として役に立て。いいな?」


「……うん、いいよ。命令、聞いちゃう」


 夕暮れの風が二人を通り過ぎていく。


 私たちは、失われていく過去を埋めるように、新しい「俺様」の伝説を書き始めようとしていた。


 雪弥。たとえ明日、あなたが今のこの時間を忘れても。


 今日の授業の内容は、私が全部、私の心に書き込んでおくから。