白く、無機質な病室。
消毒液の匂いが鼻を突く部屋の真ん中で、雪弥は窓の外を眺めていた。
あの日、グラウンドで倒れてから三日。ようやく面会が許された私は、震える足で彼のベッドに歩み寄った。
「……あの、雪弥?」
声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。
けれど、その瞳には光がない。昨日会ったばかりの看護師に向けるような、淡々とした視線。
「……あ。また来たんだ、君。悪いけど、やっぱり思い出せないんだわ。星野……さん、だっけ?」
敬語。他人行儀な呼び方。
それが、私の心に深く、鋭いナイフを突き立てる。
「そう……星野空音。雪弥の、……一番近くにいた人だよ」
「ふーん。俺、あんなに偉そうにしてたのに、君みたいな大人しそうな子がタイプだったんだな。意外だわ」
彼は自嘲気味に笑い、自分の頭をぽりぽりと掻いた。
記憶を失った彼は、「俺様」な傲慢さを失い、ただのどこにでもいる、少し冷めた少年になっていた。
それが耐えられなかった。
私の知っている雪弥は、もっと強引で、不遜で、私を自分の所有物だと言い切る、傲慢な王子様だったはずなのに。
私は、カバンの中から『あるもの』を取り出した。
体育祭のあの日、泥だらけになった赤いナイロンの紐。
「……何それ。ゴミ?」
「ゴミじゃない。……雪弥、これ、持って。お願い」
私は拒否する彼の手を強引に掴み、その手のひらに赤い紐を押し付けた。
雪弥は嫌そうな顔をしたが、紐がその肌に触れた瞬間――。
「……っ!?」
雪弥の肩が、大きく跳ねた。
彼は紐を握ったまま、自分の右足と、私の右足を交互に見つめた。
一秒。
彼の茶色い瞳の奥で、激しく火花が散るのが分かった。
回路が繋がる音。真っ白な霧の向こう側から、彼が必死に何かを掴み取ろうとしている。
彼の額に、じわりと汗が滲む。
「……いち、に。……いち、に……」
雪弥の唇が、無意識に言葉を刻んだ。
「……雪弥?」
「……うるせー。……黙ってろ、空音」
空音。
呼び捨て。そして、いつもの乱暴な口調。
雪弥は紐を握りつぶすように強く握ると、私の腕をぐいっと引き寄せ、至近距離で私を睨みつけた。
「……お前、……俺の許可なく泣いてんじゃねーよ。……ブスだぞ」
「……雪弥! 思い出したの!? 私のこと……っ」
「……全部じゃねーよ。……ただ、この紐の感触と……お前の、マヌケな泣き顔だけは、身体が覚えてた」
雪弥はそう言うと、酷く疲れたように私の肩に頭を預けた。
その呼吸は荒く、たった一瞬の記憶を取り戻すために、全身の力を使ったことが伝わってくる。
「……命令だ。……俺がまた忘れたら、……何度でも、その紐で俺を繋ぎ止めろ。……勝手に、どっか行くんじゃねーぞ」
それは、記憶を失った「今の彼」ではなく、心の奥底に閉じ込められた「いつもの彼」からの、悲しいSOS。
私は彼の広い背中に腕を回し、泣きながら何度も頷いた。
全部忘れてもいい。何度だって、私があなたを「俺様王子」に引き戻してやる。
赤い紐で、名前を呼ぶ声で、そして――私の愛で。
病室の窓の外、夕焼けが二人を赤く染める。
私たちはまだ、中学三年生の、あまりに過酷な春の終わりを、必死に生きようとしていた。
消毒液の匂いが鼻を突く部屋の真ん中で、雪弥は窓の外を眺めていた。
あの日、グラウンドで倒れてから三日。ようやく面会が許された私は、震える足で彼のベッドに歩み寄った。
「……あの、雪弥?」
声をかけると、彼はゆっくりとこちらを向いた。
けれど、その瞳には光がない。昨日会ったばかりの看護師に向けるような、淡々とした視線。
「……あ。また来たんだ、君。悪いけど、やっぱり思い出せないんだわ。星野……さん、だっけ?」
敬語。他人行儀な呼び方。
それが、私の心に深く、鋭いナイフを突き立てる。
「そう……星野空音。雪弥の、……一番近くにいた人だよ」
「ふーん。俺、あんなに偉そうにしてたのに、君みたいな大人しそうな子がタイプだったんだな。意外だわ」
彼は自嘲気味に笑い、自分の頭をぽりぽりと掻いた。
記憶を失った彼は、「俺様」な傲慢さを失い、ただのどこにでもいる、少し冷めた少年になっていた。
それが耐えられなかった。
私の知っている雪弥は、もっと強引で、不遜で、私を自分の所有物だと言い切る、傲慢な王子様だったはずなのに。
私は、カバンの中から『あるもの』を取り出した。
体育祭のあの日、泥だらけになった赤いナイロンの紐。
「……何それ。ゴミ?」
「ゴミじゃない。……雪弥、これ、持って。お願い」
私は拒否する彼の手を強引に掴み、その手のひらに赤い紐を押し付けた。
雪弥は嫌そうな顔をしたが、紐がその肌に触れた瞬間――。
「……っ!?」
雪弥の肩が、大きく跳ねた。
彼は紐を握ったまま、自分の右足と、私の右足を交互に見つめた。
一秒。
彼の茶色い瞳の奥で、激しく火花が散るのが分かった。
回路が繋がる音。真っ白な霧の向こう側から、彼が必死に何かを掴み取ろうとしている。
彼の額に、じわりと汗が滲む。
「……いち、に。……いち、に……」
雪弥の唇が、無意識に言葉を刻んだ。
「……雪弥?」
「……うるせー。……黙ってろ、空音」
空音。
呼び捨て。そして、いつもの乱暴な口調。
雪弥は紐を握りつぶすように強く握ると、私の腕をぐいっと引き寄せ、至近距離で私を睨みつけた。
「……お前、……俺の許可なく泣いてんじゃねーよ。……ブスだぞ」
「……雪弥! 思い出したの!? 私のこと……っ」
「……全部じゃねーよ。……ただ、この紐の感触と……お前の、マヌケな泣き顔だけは、身体が覚えてた」
雪弥はそう言うと、酷く疲れたように私の肩に頭を預けた。
その呼吸は荒く、たった一瞬の記憶を取り戻すために、全身の力を使ったことが伝わってくる。
「……命令だ。……俺がまた忘れたら、……何度でも、その紐で俺を繋ぎ止めろ。……勝手に、どっか行くんじゃねーぞ」
それは、記憶を失った「今の彼」ではなく、心の奥底に閉じ込められた「いつもの彼」からの、悲しいSOS。
私は彼の広い背中に腕を回し、泣きながら何度も頷いた。
全部忘れてもいい。何度だって、私があなたを「俺様王子」に引き戻してやる。
赤い紐で、名前を呼ぶ声で、そして――私の愛で。
病室の窓の外、夕焼けが二人を赤く染める。
私たちはまだ、中学三年生の、あまりに過酷な春の終わりを、必死に生きようとしていた。


