『俺様王子が不器用についた最初で最後の優しい嘘。』

中学三年生の春。


桜が散り始めた廊下を、私は新しい教科書の重さに耐えながら歩いていた。


 クラス替え初日。新しい環境への不安と期待が入り混じる中、それは、あまりに唐突に起きた。


「あ――っ!」


 曲がり角で、誰かと肩がぶつかる。バランスを崩して、抱えていた教科書がバサバサと床に散らばった。


「あ、ごめんなさい……!」


 慌てて謝りながら顔を上げると、そこに立っていたのは、この学校で知らない人はいない、最恐の俺様王子・神崎雪弥(かんざき ゆきや)だった。


 整いすぎた目鼻立ち、少しだけ着崩した制服。モデルのようなスタイルから放たれる威圧感に、私の心臓は一瞬で凍りつく。


(嘘……神崎くんにぶつかっちゃうなんて、終わった……)


 雪弥くんは、女子からは絶大な人気を誇るけれど、男子からは恐れられ、教師さえも持て余すような自由人だ。


気に入らない奴には容赦ないという噂を思い出して、私はギュッと目を閉じた。


「……おい」


 低くて、少し掠れた声が降ってくる。怒鳴られるのを覚悟して身をすくめた。けれど、次に起きたことは想像の斜め上をいっていた。


 雪弥くんが、床に散らばった教科書を拾うわけでもなく、私の顎を細い指先でぐいっと持ち上げたのだ。


「え……?」


 強引に視線を固定され、至近距離で彼の鋭い瞳が私を射抜く。


逃げ場のない沈黙。廊下を通りがかる生徒たちが、息を呑んでこちらを見ているのが分かった。


 雪弥くんは、私の顔をまじまじと観察するように見つめると、やがて満足げに口角を上げた。


「……あ。俺、お前の顔めっちゃタイプなんだけど」


「…………はい?」


 頭が真っ白になった。今、この人はなんて言ったんだろう。


「お前、名前は?」


「ほ、星野……空音、です」


「空音、か。いい名前じゃん」


 彼は私の顎から手を放すと、ポケットに手を突っ込み、不敵にニヤリと笑った。


「決めた。今日から空音、お前は俺の女な。……異論は認めねーから」


 呆然と立ち尽くす私を置き去りにして、雪弥くんは颯爽と歩き去っていく。


「ちょっと待って! いきなり何言って……!」


 呼びかける声も虚しく、彼の背中は遠ざかっていく。


残されたのは、散らばった教科書と、騒ぎ始めた周囲の視線、そして——自分でも驚くほど激しく打ち鳴らされる、私の心臓の音だけだった。


 これが、私と彼の、あまりに強引で。


 そして、この時はまだ知るはずもなかった、世界で一番切ない物語の始まりだった。