私は、
当たり前のように
颯が管理してくれる日常の中で、
いつの間にか自分の中の
「欲」を失っていたのかもしれない。
彼は、そんな私の内側にある、
自分でも忘れていた欲求を、
この瞬間に見つけ出してくれた。
***
夕暮れ時、駅の改札。
「はい、これ。俺からも。今日のお弁当のお礼と……記念に」
碧くんが私に差し出したのは、
小さな、真っ赤な紅葉の栞。
「さっき美桜ちゃんの髪についてた紅葉みたいだなって思ってさ。さっき売店で見かけて買ったんだ」
そう言うと、彼は
私の手にそれを優しくそっと握らせた。
「本に挟んでおいて。……これを見るたびに、今日のこと、思い出してほしいから」
碧くんが照れくさそうに笑う。
だけど私の胸の奥はどこか、
その笑顔に締め付けられるような感じがした。
「……わかった。ありがとう、大事にする」
「じゃあ……また大学で」
私は、彼に手を振り、その栞を
今日の思い出と一緒に、そっとバッグの中に入れた。
***
——マンションに着いたのは、
夜の19時頃だった。
(……大丈夫。まだ戻ってないはず)
そう自分に言い聞かせ、
202号室の前で鍵を取り出そうとした時。
隣の201号室のドアが「ガチャッ」と開いた。
「おかえり、美桜。意外と早かったね」
エプロン姿の颯が、穏やかな——
けれど、どこか寂しげな微笑みを浮かべて立っていた。
「あ………颯。明日の朝に、帰ってくるんじゃなかったの?」
「お前が一人で夕飯を食べてると思ったら、どうしても居ても立ってもいられなくなって。無理を言って一足先に帰ってきたんだ。……レポート、捗った?」
「……うん、なんとか」
嘘をつくたび、胸の奥がちくっと痛む。
彼は私の元へ歩み寄ると、
私の頬を、まるで汚れを拭うように
優しく指先で撫でた。
「……少し、外の風に当たってきたのかな。冷たくなってる。……おいで」
颯は優しく私の手を取り、
自分の部屋へと導いた。
その態度は驚くほど寛容で、
私が碧くんと会っていたことを
疑う素振りすら見せない。

