星の見えない夜に、誰を救う。

 2015年12月20日。奥田幸人(当時17)は母親の千夏(チカ)と2人で暮らしていた。

奥田宅 16:40
 当時高校2年生だった幸人は母親任せなところがあった。だが母親は嫌な顔ひとつせず、引き受けてしまう人だった。
「幸人。今日夕飯何食べたいの?」
 カチカチ……
「もう……ゲームばっかやってないで話聞いてよ?」
「ハンバーグ……」
「ハンバーグね?」
 ゴソゴソ……
「ああ……ごめんハンバーグなんだけどパン粉がないわ……」
「ない……?じゃあ買ってきてよ……」
「いいけど、たまには一緒に行こうよ?幸人の好きなアイスとかジュース買ってあげるよ?」
「俺は大丈夫……」
「わかったわ……」
 いつもどおり母親に甘えたこの日、幸人が壊れ始める――

 プルプルプル……!
「?何だいいときに……」
 突然家の固定電話が珍しく鳴り響いた。
「はいもしもし?」
「奥田さんのお電話でお間違えないでしょうか?私、臨海警察署の高橋です」
「警察!?」
「お電話口の方は、奥田千夏さんの息子さんでいらっしゃいますか?」
「はい……」
 母親が外出しておよそ1時間。帰りが遅いとは思っていたが、「ただいま」の声より先に聞いた警察の声。普段脳天気な彼の身体が震える。
「先ほどお母様が、事故に遭われて……亡くなられました……」
「母さんが……」
 事故に、遭った……?
「至急臨海総合病院までお越しください」

臨海総合病院 地下1階 霊安室 20:22
 ウィーン……
 エレベーターの音がまるで無音。空気が感じられないのに、肩だけが異様に重くなった。
「奥田さん……お母様のお身体やお顔に事故による損傷があります。ご覧になるのは、お辛いかもしれません……ご覧になりますか?」
 ここに辿り着く前に母親の死因は聞いていた。原因は飲酒運転の車が赤信号を無視して思いきり突っ込み、帰り道に撥ねられた。即死だった……
「はい……」
 彼は小さく頷いた。警察官に誘導されてそのまま、全身を白い布で覆われた……母親?一切動かない姿を見る。ここに入っているの、人形じゃないのか……?そう信じたかったが、布が外された途端――
「母さん……母さん……!」
 彼を襲ったのは母親を失った喪失感。一緒に買い物に行って、死んだのが自分ならよかったんだ――
「おまわりさん……やっぱりこれ人形ですよぉ……」
「お辛いのは心中お察しします……」
「だって全然動かないんですよ……」
「おやめください……!」
 突然母親の遺体を激しく揺さぶる。本当に人形にしか見えていないのか?それとも信じたくないだけなのか?
「これ以上はマズい……!連れてこう!」
「はい!」
 結局彼は精神に異常が発生したとして霊安室から連れ出されてしまう。後日急性ストレス反応と診断され、2週間の入院生活となるが、彼の『脳』はとんでもないことが起きていた――

 2016年1月4日。
港区の街中 10:53
 ガヤガヤ……
「……退院していいと言われたって、これからどうすればいいんだよ……?」
 家に帰っても自分一人しかいない。就職するまで遺族年金で暮らしていけるが、母親がいない寂しさはこんなに虚しいのか……
 ピピ……信号は赤です……
「おっと……はぁ……!」
 赤信号ならしっかり止まる。母親はきちんと信号で止まり、青信号を確認して渡っただけ。入院中に飲酒運転をしたドライバーは逮捕され、容疑を認めているが、母親を殺したのは自分なんだ。彼はそう思っていた。本来犯人に持つべき感情が、自分自身に向けられている。あのときマイバッグに入っていたのはパン粉、自分の好きなアイスクリームとコーラ。甘えなければよかったんだ――
「長いな……」
 赤信号が長い。急いではいけないと言うのか?眠くなってそのまま目を閉じると、なぜか耳に違和感を感じて手を触れた。
――ブーン……!
「わあ……!?」
 ガシャーン……!
「車が――!」――

「……!?何なんだ今のは……!?」
 今確実に、目に映るものとは違う何かが見えた。確かに信号に今いる場所の景色はそのまま。隣に老婆がいる。さっき見えた老婆と同じ……
 信号が青になりました……
 青信号になり老婆がゆっくりと進む。しかし、彼は進まなかった。これから何が起きるのか――
 ブーン……!
「マジかよ……!?」
 対向車線から猛スピードで右折する車が!歩行者を一切見ていないのか?
「婆さん、危ねぇ……!」
 彼はとっさに老婆の身体を――
 グイッ……!ドサァ……!
「婆さん!大丈夫か……!?」
「怖かったぁ……ありがとうね兄さん……」
「あの車……!?逃げたか……婆さんまずは病院だ!」
「今救急車を呼んだ!兄ちゃん!付き添えそうか?」
「わかりました!」
 病院に付き添うのは当然だが、入院していた病院に出戻り――はないよな?
 ピーポーピーポー……!
 幸い大きな怪我はなく、車に轢かれないように避けた際にできた擦り傷程度だった。

臨海総合病院 1階 救急外来 12:07
 念のため搬送された老婆は樋口と名乗っていた。夫に先立たれて子どもたちも自立し結婚。現在は一人暮らしをしているらしい。連絡を受けた息子夫婦と孫が病院に来たのだが――
「あなたが母を助けてくれたのですね……?ありがとうございます!何とお礼を言ったらいいか……」
「……」
「お義母さんが無事で本当によかったです!奥田さん、本当にありがとうございます!」
「ばぁば!怖かった?」
 幸人はなぜか無反応。まるで上の空だった。だが第一声で――
「すみません、助けたって何の話ですか……?」
 この発言には医師、樋口の親族共に目を合わせて口を開けた。
「奥田さんが樋口さんを助けたんですよ?覚えていないんですか?」
「ばぁばを助けてくれたお兄ちゃん!」
 何の話なのかさっぱりわからない。助けた覚えなんてない……
「あのすみません、僕もう帰らないと!」
「ああっちょっと……!?」
 ドッドッドッ……!
「何なんだよ一体……!みんなして何の話してんだよ……!?てか俺、病院から出たはずだったよな……?」
 当時彼は高校生。理解できない話をされ、見覚えのない人たちに感謝されるなど不気味でしかない。彼は慌てて自宅へと走った――

奥田宅 17:35
 カチッ……トクトクトク……
 今日から一人暮らしか。自炊は面倒くさくてやる気になれず、この日の夕飯はカップラーメンで済ませよう。
「はぁ……」
 スルスル……
 悪い夢でも見たのだろうか、それとも本当に忘れていただけなのか。どうしても老婆を助けたことだけが思い出せなかった。
「不味い……」
 母親がいない夕飯なんて不味すぎる……家にいたとき、毎日料理を作ってもらった彼にとって、何気ない今が苦痛でしかない。
 スル……
「……!」
 ズキズキ……!キィーン……
「ウゥ……!?痛い……痛い!?」
 バシャァッ……!
 カップラーメンをこぼして足にかかり、赤く腫れる。だが熱さなど気にする余裕もなく、絶え間なく頭痛が激しさを増す。
「ねぇ……」
「誰だ……?」
 必死で目を開けた先に映るのは――
「幸人……」
「母さん……!ググ……!?ウゥ」
 
「おい!大丈夫か……!?幸人!」
「うぅ……」
「あっ起きた?おいしっかりしろ!」
 ボォォ……!
「将佑……!」
「大丈夫だったのか?」
「俺は、さっき……」
 どれくらい眠っていた?時計を確認すると――

松之原タワー 33階 多目的ホール 18:33
「何でここがわかったんだ?」
「部下から無線が入ってな。一人の刑事さんが多目的ホールから避難しなかったってな……で、お前瀬川の腹殴ったらしいな?」
「まだ避難するわけにいかなかったからな……それより今救助の状況は?」
「俺は2人救助した。部下たちも合わせれば、ざっと9人は救助している」
「さすがご立派な小隊長か?」
 どうやら幸人に腹を殴られた瀬川という消防士が、ボスである将佑に相談したようだ。偶然近くにいた将佑が駆けつけた頃には、既に炎の中で倒れていたという。その前に、将佑によって救われた人物のこともあるだろう。――

松之原タワー 7階 スポーツジム 17:23
 ザザ……
「こちら稲田!今から7階の捜索に移行する!」
「了解しました!お気をつけください!」
 ザザ……
 将佑は救助した松之原タワーのオーナー、松原朋子から『ジムは既に会員制でオープンしている。逃げ遅れた人がいるのかもしれない』という情報を入手し、一度47階から7階まで降りた。幸人のことは気になるが、あいつなら大丈夫だと信じ、今は一人でも多く救うんだ。小隊長の誇りにかけて――
 バチバチ……ボォォ……!
 彼は炎の中、スマホから1枚の写真を見る。愛する妻の菜々子(ナナコ)と5歳の娘、芽衣奈(メイナ)と一緒に撮った家族写真。必ず皆を助けて、生きて帰ると約束した。彼にとって50階建ての高層ビルは初めてだ。
「……」
 7階のスポーツジムはフリーエリア、ダンベルやベンチプレスなどが並んだトレーニングルーム、ダンスルームなど、トレーニーにとって夢のような設備になっている。幸人が言っていた例の『爆弾』の話が本当なら、爆発の衝撃で重い器具が一斉に崩れでもしたら相当マズい。
 バチバチ……!
「欠陥ビルもいいとこだぜ……!」
 スプリンクラーは動かないが全ての階にホースが設置されている。彼が最初に立ち入った場所は、最も嫌な予感がしたトレーニングルーム。すると――
「誰かー!」
「今のは、人の声か……!?すぐに行く!」
 ガチャガチャガチャ……!
「どこだ!?助けに来たぞ!」
「助けてください!」
 どこだ?声がする方向はベンチプレスのところか?
「稲田将佑だ!おい大丈夫か!?」
「彼が……!」
「カカカ……!」
 マズい……!おそらく爆発の衝撃で持っていたベンチプレスが手から離れ、そのまま首に乗しかかって圧迫している!このままじゃ窒息死だ……
「下がってな……」
 見るからに100kgはある。女性が持ち上げて助け出すのは至難の業……
「フウゥン……!」
 彼は前腕に力を込めて何と!
「ハァー……!」
 ガシャーン……!
「えっ……嘘……?」
 どうやら男性はラグビー選手なのか、首が太くて即死を免れたようだ。かなり不幸中の幸い。
「ジムにいるのはあんたらだけか?」
「はい……私たちがここに入ったときには、彼と2人だけでした」
 女性の方は清水 桜花(シミズ オウカ)(20)。
「動け……ないよな……?」
「……」
 息はしているが酸素不足が続いて動けそうにない。男性の名前は野島 誠也(ノジマ セイヤ)(22)。
「6階に梯子車をつけてある。そこまで行くぞ。俺からはぐれないようにしてくれ……」
「はい。あの、彼は……」
「もちろん連れて行くさ。じゃなきゃ小隊長なんて名乗れないよ。パパださぁいって笑われちまうしな……」
 だが男性はかなりの巨漢だ。下手したら幸人より大きいのではないか?
「よっと……!」
 巨漢だが身体全体は引き締まっている。担ぎやすくて助かる。確か6階は映画館か?
「行くぞ!俺についてこい」
「はい!」
 自分が身につけている重装備に誠也の体重が乗しかかる。

松之原タワー 6階 映画館 17:50
 ゴゴゴゴォ……!
「きゃあ……!?」
「落ち着け!」
 メキメキメキ……!
「!?(この感じ……)」
 バゴォォン……!
「危ない……!」
 ガシッ……!ドサッ……!
「きゃあ!」
 天井が崩れ落ちたのは非常階段を降りた直後。少しでも遅れていたらルートを断たれる、最悪瓦礫の下敷きで煎餅になるところだった……
 ボォォォ……!
「マジか……ここの方が燃えてんじゃねえか」
 ザザ……
「稲田だ!今6階にいるんだが、めちゃくちゃ燃えているぞ?どこに梯子車をつけた?」
「渡り廊下の隅につけました!何とかそこまで辿り着いてください!」
「わかった!男性と女性が一人ずつだ」
 ザザ……
「あともう少しだ!」
「わかり……ゴホッ……!」
「有毒煙か……俺のマスクを使え……!」
「そしたら、消防士さんが……」
「俺は何年も火事場にいるんでな……」
 彼は高校を卒業してからずっと消防士だ。つまりこの道の大ベテラン。
「時間がない!悪いが走るぞ!」
 彼はフルパワーで誠也を担ぎながら走る。それよりこの映画館はどれだけスクリーンがあるのだ?中には上映禁止になった映画まで……
 メキメキ……バゴォォン……!
「何……!?ハァー!」
「きゃあー……!?」
 今度は天井が崩れ落ちた、ではなく床が崩落して抜け落ちた!彼はとっさに誠也を投げて難を逃れたが、桜花と距離を離されてしまった。3m以上ほどはある……
「この距離なら飛べる!早く飛ぶんだ……!」
「そんな……!怖い……落ちて死んじゃうわ……!?」
「君には鍛え上げた脚がある!信じて飛ぶんだ!」
 ブルブルブル……
「俺がしっかり支える!さあ!」
 桜花は震える脚を必死で抑え、助走をつける――
「うぅ……!」
 タッタッタッ……!ヒュンッ……!
「フゥ!」
 ガシッ……
「よし……!もう大丈夫だ!よく頑張ったな!」
「はぁ……」
「さあ行くぞ!」
 ここもいつ崩れ落ちるかわからない……再び誠也を担ぐと、幸いにも梯子車の位置はかなり近かった。
「小隊長!こっちです!」
「この2人を頼む!男性から先だ」
「わかりました!」
 息はしているがぐったりしている。誠也は消防士に支えてもらいながら梯子車で降りていった。
「彼を助けてくれてありがとうございます!」
「俺を誰だと思っている?命を救うなんて序の口さ。少なくとも、俺の目の前で誰かを死なせたりしない」
 続いて桜花も乗り込み――
「ありがとうございます……稲田さん!」

野島誠也(22) 救助
清水桜花(20) 救助

 ザザ……
「稲田だ」
「小隊長大変です!」
「いきなりデカい声で喋るな……で?端的に話してくれ」
「あの……さっき銀河と臨海何とかの社長を救助したんですけど、例の警官が……」
「例の警官……幸人か?」
 33階。あいつ……ちゃんと銀河を助けてくれたんだな。しかし――
「さっきいきなり腹パンされて……あと、なぜかすごい頭痛に襲われていたようでした」
「頭痛?」
 幸人のことはわからないことだらけ。目を閉じて耳に手を当てると、まるでこれから起きることを先読みしたように行動をする。頭痛――?
「私があとを追います!」
「いや、俺が行く!」
「そんな!?わざわざ小隊長が……」
「ここでは俺の命令は絶対だ。奥田幸人は、必要な男だ……」
「わ……わかりました……」
 ザザ……
 何度も彼の携帯番号にかけているが一切出ない……幸人のことを信じる彼でも、心配の方が勝ってしまった。エレベーターはそこら中壊れているが、唯一まともに機能しているのは貨物用エレベーターだ。

松之原タワー 33階 多目的ホール 18:33
「幸人……!?おい起きろ!幸人……!」
「将佑……?」
 幸人は何となく気づき始めていた。自分たちには言葉では決して表現しない『絆』が生まれたのかもしれないと。将佑はそのまま救助した経緯を話していき――
「俺の方で把握しているのは、俺の親友と元嫁含めて16人はまだ救助されていない……」
「まだオープンして1か月だから使われていない階もある」
 だらん……
「おい寝んな……それより一つ聞いていいか?」
「何だ……?」
「どうしてあんた、そんなに人を救うことにこだわるんだ?」
「理由なんてない……俺は、母さんを殺したんだよ」
 濁した言い方をされたが、将佑は気づいていた。彼は殺したのではなく、きっかけを作ってしまったのだと――
「幸人……」
「俺は英介も、元嫁も救ってみせる……そして犯人を捕まえる……」
 ムクリ……
「お目覚めかヒーロー?」
「恥ずかしい言い方はやめろ……将佑がヒーローだろこういうときは」
「そうかもな」
 ゴゴゴゴ……メキメキメキ……!
「……!?」
「油断するな……!」
 バゴォォン……!
「幸人!」
「クソッ……!?」
 運悪く幸人が立っていた床が崩れ落ちる!それだけで終わりではなく、33階から崩れ落ちた床は32階、31階と――止めどなく落ちていく……せっかくの再会がまた振り出しに戻ってしまった。
 スッ……
 真っ逆さまに落ちる自分の肉体……彼は耳に手を当てた――果たして何が見えるのだろうか?

・野島誠也、清水桜花の救出により現在タワーにいる人物は確認済みで、変わらず16人。その他タワー利用客も複数人救出済み。
・12月24日 18:36 タワー崩壊まで5時間24分