恋が終わっても、人生は続いていく



「……まだ、帰る?」



その一言が、

すべての始まりだった。



仕事終わり。



オフィスの明かりは、

ほとんど消えている。



残っているのは、

数人だけ。





「……うん」



帰るつもりだった。



ちゃんと。





でも。





「少しだけ、寄るか」





神崎の声。





軽い。



いつもと同じ。





(ダメ)



頭の中で、

すぐにブレーキがかかる。





こんな時間に。



二人で。





(ありえない)





「……やめとく」





そう言おうとする。





でも。





「話、途中だろ」





昼間のことを指す。





「……」





確かに。





まだ、

全部は話していない。





(それだけ?)





自分に問いかける。





(本当に、それだけ?)





「……少しだけ」





気づけば、

そう答えていた。





(何してるの、私)







小さなバー。



落ち着いた照明。





仕事帰りの人たちが、

静かに過ごしている。





カウンターに並んで座る。





「何飲む」





「軽いやつ」





それだけの会話。





グラスが置かれる。





一口飲む。





少しだけ、

アルコールが回る。





「……さっきの続き」





神崎が言う。





「家のこと」





「……ああ」





思い出す。





「別に、大したことじゃないよ」





また、

ごまかそうとする。





でも。





「大したことない顔じゃなかった」





すぐに返される。





逃げ場がない。





「……何もないの」





ぽつりと、

また同じ言葉。





「喧嘩もないし」





「不満も、言えるほどじゃない」





「でも」





グラスを見つめる。





「……寂しい」





小さく、

こぼれる。





(言っちゃった)





もう、

引き返せない。





神崎は、

何も言わない。





ただ、

静かに聞いている。





それが、

一番楽だった。





「女として見られてる感じが、しなくて」





「……必要な人ではあるけど」





「それだけっていうか」





言葉が、

止まらない。





「……私、何なんだろうって」





そこで、

やっと気づく。





(こんなに、溜まってたんだ)





ずっと、

押し込めてきたものが。





「……そっか」





神崎が、

静かに言う。





それだけ。





でも。





その一言で、

胸が少し軽くなる。





「ちゃんと、見てほしいよな」





低い声。





「……うん」





素直に頷く。





そのとき。





神崎の手が、

テーブルの上で、

そっと重なった。





(……え?)





驚いて、

顔を上げる。





目が合う。





逸らせない。





「……今、俺は見てる」





その言葉。





まっすぐで。





逃げ場がなくて。





(ダメ)





頭では、

わかってる。





これは、

越えちゃいけないライン。





でも。





(離したくない)





そう思ってしまった。





手を、

引かなかった。





そのまま。





距離が、

ゆっくりと縮まる。





「……やめた方がいいよね」





かすれた声。





最後のブレーキ。





神崎は、

少しだけ間を置いて。





「そうだな」





そう言った。





でも。





手は、

離れない。





(……同じだ)





止める気が、

ない。





お互いに。





そのまま。





触れる。





優しく。





でも、

確実に。





一線を越えた。





その瞬間。





何かが、

壊れた。





でも同時に。





何かが、

満たされた。





(……ああ)





もう、

戻れない。





わかってるのに。





その温もりに、

抗えなかった。