八月。
盆を迎えようとするころのある日。誠一はあわてて工場をあとにした。一つの噂が耳に入った。広島に続いて長崎にも新型爆弾が落とされたという。
十日ほど前、光太が新聞社に駆け込んだ。六日と九日にこれまでにない威力の爆弾が広島と長崎に落とされるから、警戒するように市民に呼びかけてもらおうとした。信じてもらえないことは分かっていたろうに……。
案の定、笑われただけだった。そしてすぐあとに特高に捕まってしまった。わざと恐怖をあおって、人々の戦意を失わせる反戦主義者と思われたのだろう。
「この子は空襲で頭を打っていて、ときどき変なことを言うのです」
あのときはそれですんだ。必死にとりなしてなんとか帰してもらったが、二つとも本当になってしまえば特高が不審をいだくのは明らかだ。
「今度はただではすまない。何とかしなくては……」
そう思って工場を早く出たのだ。光太の工場に寄り、「もう帰った」と聞いて急いで家に向かった。
とちゅう、子どもに声をかけられた。
「澪子のじいちゃん。さっき、おれの家に特高が来た。光太にいちゃんのことを聞いてた。」
勝也だった。突然二人の特高が現れ、ちょうど家にいた父親に言ったそうだ。
「岩永光太と言う人物について教えてもらえますか」
光太の住まいや日ごろの様子、いつこの町に来たのかなど、根ほり葉ほり聞いていたという。勝也の父親が町の有力者だから町民のことにも詳しいと思っての訪問だったろう。
「まず工場からだな」
顔を見合わせてそう言うと、二人は礼も忘れて去っていった。
「おれ、澪子たちに知らせてくる」
特高の用が何かは分からない。が、二人のタカのような鋭い目を見て、光太の身に危険が迫っている事だけは勝也にも分かった。これまでたくさんの大人たちにどやされてきたガキ大将の嗅覚だったろうか。
家を出ようとする勝也に父親が言った。
「行くな!」
「えっ? なぜ」
「かかわらん方がいい」
険しい表情だった。
「分かった……」
そう答えて、勝也はわざと澪子の家とは反対の方に向かった。回り道をして行くつもりだった。が、その前に運よく誠一に出会ったのだった。
「わざわざありがとな」
誠一は礼を言い、小走りになった。
家に着くと、流れる汗も拭かずにすぐに光太を呼んだ。
今日も早帰りで澪子の風呂そうじを手伝っていた光太に、誠一が喉をしぼるようにして言った。
「光太。おまえの言ったとおりになった」
苦しそうに光太がうなずくと、誠一が続けた。
「特高が怪しんでおまえを捕まえに来る。今度捕まったら……」
あとの言葉が出なかった。ごくりとつばをのみ込んで、
「とにかく、来た時に身に着けていた服や靴はすぐに隠しておけ」
そう言って手早く着替えると床下にもぐった。そこに大きな穴があった。もみがらをかぶせていもを貯蔵するための穴だった。
光太が荷物を包んで入ってきた。急いでもみがらの中にそれを埋めた。
その時だった。外で何かざわめく音が聞こえた。
せみの声が止んだ。
二人はあわてて奥の方に這っていき、息をひそめた。
「特高だ。開けろ」
千代子がいてくれれば……。しかし、千代子は食料や薬を調達に町に出ていた。家には澪子しかいなかった。彼女は返事ができなかった。
「この暑いのに、なぜ閉めてる?」
二人の男が勝手に戸を開けて入ってきた。一人はカーキ色の夏の制服に制帽をかぶり、もう一人は白いシャツを着て灰色の中折れ帽子をかぶっていた。
オオカミに出会った子うさぎのように、澪子は声も出せずに土間の上で固まっていた。足が地面にはり付いて、後ずさりもできなかった。
「光太君はいるかな?」
相手が子どもだったことに意外そうな顔をして、私服の男が尋ねた。
澪子はとっさに答えた。
「おにいちゃんはいません」
「そんなはずはない。工場からはもう帰ってるはずだぞ」
制服の男がいら立った口調で言った。私服の男は声を荒らげることもなく、黙って澪子をじっと見ていた。その目に心の奥底までのぞかれているようで、彼女は一瞬息が止まった。
「嘘がいけないのは知っているよね」
私服の男が言った。おだやかそうでも人を威圧するひびきがあった。
澪子は小さくうなずいた。
「では、もう一度聞く。光太君はどこかな?」
今度は澪子の目を見すえて言った。澪子は足が震え、やがて全身が震えてきた。
でも、必死で目をそらさずにいた。目をそらしたら嘘が見抜かれる気がした。
「そしたらまたおにいちゃんが連れて行かれる……」
泣きそうになったが、涙をためたまま答えた。
「知りません。……ここにはいません」
かすれて裏返りそうな声だった。
十才の少女が、大人にも恐れられている特高警官の、四つの鋭い眼光に射すくめられて、どんなに怖かったことだろう……。
「これ以上澪に怖い思いをさせられない」
光太が体を動かしたとき、誠一がそっと肩を押さえた。
「わしが行く。ここにいろ」
低いが厳しい声だった。誠一は奥に動いて納戸の畳を上げ、そこから上がった。
しばらくの沈黙があった。私服の刑事がゆっくりと家の中を見回し、澪子に向き直って言った。
「これが最後だ。……本当に光太君はいないんだね」
「はい」
小さいが、迷いのある声ではなかった。
業を煮やした制服の男が、
「子どものくせに平気で嘘を言うとはあきれたもんだ。じゃあ、さがすからな!」
そう言って、土足で畳に上がろうとしたときだった。
「その子の言うことは本当ですよ」
奥の部屋から誠一が出てきた。ゆっくり土間に下りて澪子の前に立ち、男たちに向かって静かな声で言った。
「光太は今おりません。それに、怪しい者でもありません」
誠一は軍需工場の生産工程の指導者として東京から派遣されている技師だった。
有能で公正なためみんなから信頼されていた。誠一がいないと工場が回らないことも警察は調べていた。
私服の刑事が言った。
「岩永さんは工場におられたのでは?」
「具合が悪くて早引きしたのです。奥で寝ていたら何やら声がするもので……」
「すると、このおじょうさんの言うことは本当なんですね」
「もちろんです。こんなに震えているのに嘘を言えますか?」
「嘘を言うから震えるんだろう!」
横から制服の男が口を出した。
「子どもが、あなた方を怖がるのは当たり前です。その上にこんなにおびえさせて、情けなくありませんか」
「なんだと!」
とうとう制服の男が怒鳴った。だが誠一は真っすぐに視線を返して言った。
「あなた方には子どもさんはいないのですかな?」
その目には、長い年月を生きてきた者の静かな強さが宿っていた。
澪子は、じっと祖父の背中を見つめていた。震えは止まらなかったが、小さな胸を締め付けていた恐怖が薄らいでいくのを感じた。
「……もういい。帰るぞ」
私服の刑事がまだ上がりがまちに足を乗せたままの制服の男に向かって言った。男は舌打ちして足を下ろした。
「失礼しました。また来ますので」
私服の刑事がていねいに帽子をとって言ったが、その目は笑っていなかった。
二人が出ていくと家の中に静寂が戻った。澪子はその場にへたり込み、たまっていた息を吐いた。まだ少し震えていた。
「澪……」
誠一が振り向いて肩に手を置いた。澪子はその手の温もりを感じて、懸命にこらえていた涙が一気にあふれだした。
「よくがんばったな……」
しゃがんで澪子の背中をなでながら誠一が言った。澪子は涙にぬれた目で誠一を見上げ、か細い声で言った。
「おじいちゃん、わたし嘘ついた……」
「おまえが嘘をついたのを、神様は何もおっしゃらん。反対に、おまえの勇気をうんとほめてくださる……」
胸が詰まって、それ以上は言葉にならなかった。
兄を守るために精一杯の力を振りしぼった孫娘……。この小さな体に、いつの間にあんな強い心が芽生えていたのだろう。
誠一は、震えの治まった澪子の背中を、いつまでも黙ってなで続けた。
「油断させて急に引き返してくるかもしれないから、すぐには出てくるな」
そう言われて、出ていくのをじっとがまんしていた光太は、二人の声を聞きながら、涙が止まらなかった。
泣きながら、家族をこんなに苦しめてしまった自分の行動に、後悔の気持ちが湧き上がってきた。歴史は変えられないし、変えてはいけないことも分かっていた。ただ、
「騒ぎになってもいい。一人でも助かる人がいるなら……」
その一心だった。知っているのに何もしないでいることに耐えられなかった。しかし、軽率だった……。
鳴き止んでいたせみが少しずつ鳴き始め、辺りはまた、かしましいせみしぐれに包まれていった。
盆を迎えようとするころのある日。誠一はあわてて工場をあとにした。一つの噂が耳に入った。広島に続いて長崎にも新型爆弾が落とされたという。
十日ほど前、光太が新聞社に駆け込んだ。六日と九日にこれまでにない威力の爆弾が広島と長崎に落とされるから、警戒するように市民に呼びかけてもらおうとした。信じてもらえないことは分かっていたろうに……。
案の定、笑われただけだった。そしてすぐあとに特高に捕まってしまった。わざと恐怖をあおって、人々の戦意を失わせる反戦主義者と思われたのだろう。
「この子は空襲で頭を打っていて、ときどき変なことを言うのです」
あのときはそれですんだ。必死にとりなしてなんとか帰してもらったが、二つとも本当になってしまえば特高が不審をいだくのは明らかだ。
「今度はただではすまない。何とかしなくては……」
そう思って工場を早く出たのだ。光太の工場に寄り、「もう帰った」と聞いて急いで家に向かった。
とちゅう、子どもに声をかけられた。
「澪子のじいちゃん。さっき、おれの家に特高が来た。光太にいちゃんのことを聞いてた。」
勝也だった。突然二人の特高が現れ、ちょうど家にいた父親に言ったそうだ。
「岩永光太と言う人物について教えてもらえますか」
光太の住まいや日ごろの様子、いつこの町に来たのかなど、根ほり葉ほり聞いていたという。勝也の父親が町の有力者だから町民のことにも詳しいと思っての訪問だったろう。
「まず工場からだな」
顔を見合わせてそう言うと、二人は礼も忘れて去っていった。
「おれ、澪子たちに知らせてくる」
特高の用が何かは分からない。が、二人のタカのような鋭い目を見て、光太の身に危険が迫っている事だけは勝也にも分かった。これまでたくさんの大人たちにどやされてきたガキ大将の嗅覚だったろうか。
家を出ようとする勝也に父親が言った。
「行くな!」
「えっ? なぜ」
「かかわらん方がいい」
険しい表情だった。
「分かった……」
そう答えて、勝也はわざと澪子の家とは反対の方に向かった。回り道をして行くつもりだった。が、その前に運よく誠一に出会ったのだった。
「わざわざありがとな」
誠一は礼を言い、小走りになった。
家に着くと、流れる汗も拭かずにすぐに光太を呼んだ。
今日も早帰りで澪子の風呂そうじを手伝っていた光太に、誠一が喉をしぼるようにして言った。
「光太。おまえの言ったとおりになった」
苦しそうに光太がうなずくと、誠一が続けた。
「特高が怪しんでおまえを捕まえに来る。今度捕まったら……」
あとの言葉が出なかった。ごくりとつばをのみ込んで、
「とにかく、来た時に身に着けていた服や靴はすぐに隠しておけ」
そう言って手早く着替えると床下にもぐった。そこに大きな穴があった。もみがらをかぶせていもを貯蔵するための穴だった。
光太が荷物を包んで入ってきた。急いでもみがらの中にそれを埋めた。
その時だった。外で何かざわめく音が聞こえた。
せみの声が止んだ。
二人はあわてて奥の方に這っていき、息をひそめた。
「特高だ。開けろ」
千代子がいてくれれば……。しかし、千代子は食料や薬を調達に町に出ていた。家には澪子しかいなかった。彼女は返事ができなかった。
「この暑いのに、なぜ閉めてる?」
二人の男が勝手に戸を開けて入ってきた。一人はカーキ色の夏の制服に制帽をかぶり、もう一人は白いシャツを着て灰色の中折れ帽子をかぶっていた。
オオカミに出会った子うさぎのように、澪子は声も出せずに土間の上で固まっていた。足が地面にはり付いて、後ずさりもできなかった。
「光太君はいるかな?」
相手が子どもだったことに意外そうな顔をして、私服の男が尋ねた。
澪子はとっさに答えた。
「おにいちゃんはいません」
「そんなはずはない。工場からはもう帰ってるはずだぞ」
制服の男がいら立った口調で言った。私服の男は声を荒らげることもなく、黙って澪子をじっと見ていた。その目に心の奥底までのぞかれているようで、彼女は一瞬息が止まった。
「嘘がいけないのは知っているよね」
私服の男が言った。おだやかそうでも人を威圧するひびきがあった。
澪子は小さくうなずいた。
「では、もう一度聞く。光太君はどこかな?」
今度は澪子の目を見すえて言った。澪子は足が震え、やがて全身が震えてきた。
でも、必死で目をそらさずにいた。目をそらしたら嘘が見抜かれる気がした。
「そしたらまたおにいちゃんが連れて行かれる……」
泣きそうになったが、涙をためたまま答えた。
「知りません。……ここにはいません」
かすれて裏返りそうな声だった。
十才の少女が、大人にも恐れられている特高警官の、四つの鋭い眼光に射すくめられて、どんなに怖かったことだろう……。
「これ以上澪に怖い思いをさせられない」
光太が体を動かしたとき、誠一がそっと肩を押さえた。
「わしが行く。ここにいろ」
低いが厳しい声だった。誠一は奥に動いて納戸の畳を上げ、そこから上がった。
しばらくの沈黙があった。私服の刑事がゆっくりと家の中を見回し、澪子に向き直って言った。
「これが最後だ。……本当に光太君はいないんだね」
「はい」
小さいが、迷いのある声ではなかった。
業を煮やした制服の男が、
「子どものくせに平気で嘘を言うとはあきれたもんだ。じゃあ、さがすからな!」
そう言って、土足で畳に上がろうとしたときだった。
「その子の言うことは本当ですよ」
奥の部屋から誠一が出てきた。ゆっくり土間に下りて澪子の前に立ち、男たちに向かって静かな声で言った。
「光太は今おりません。それに、怪しい者でもありません」
誠一は軍需工場の生産工程の指導者として東京から派遣されている技師だった。
有能で公正なためみんなから信頼されていた。誠一がいないと工場が回らないことも警察は調べていた。
私服の刑事が言った。
「岩永さんは工場におられたのでは?」
「具合が悪くて早引きしたのです。奥で寝ていたら何やら声がするもので……」
「すると、このおじょうさんの言うことは本当なんですね」
「もちろんです。こんなに震えているのに嘘を言えますか?」
「嘘を言うから震えるんだろう!」
横から制服の男が口を出した。
「子どもが、あなた方を怖がるのは当たり前です。その上にこんなにおびえさせて、情けなくありませんか」
「なんだと!」
とうとう制服の男が怒鳴った。だが誠一は真っすぐに視線を返して言った。
「あなた方には子どもさんはいないのですかな?」
その目には、長い年月を生きてきた者の静かな強さが宿っていた。
澪子は、じっと祖父の背中を見つめていた。震えは止まらなかったが、小さな胸を締め付けていた恐怖が薄らいでいくのを感じた。
「……もういい。帰るぞ」
私服の刑事がまだ上がりがまちに足を乗せたままの制服の男に向かって言った。男は舌打ちして足を下ろした。
「失礼しました。また来ますので」
私服の刑事がていねいに帽子をとって言ったが、その目は笑っていなかった。
二人が出ていくと家の中に静寂が戻った。澪子はその場にへたり込み、たまっていた息を吐いた。まだ少し震えていた。
「澪……」
誠一が振り向いて肩に手を置いた。澪子はその手の温もりを感じて、懸命にこらえていた涙が一気にあふれだした。
「よくがんばったな……」
しゃがんで澪子の背中をなでながら誠一が言った。澪子は涙にぬれた目で誠一を見上げ、か細い声で言った。
「おじいちゃん、わたし嘘ついた……」
「おまえが嘘をついたのを、神様は何もおっしゃらん。反対に、おまえの勇気をうんとほめてくださる……」
胸が詰まって、それ以上は言葉にならなかった。
兄を守るために精一杯の力を振りしぼった孫娘……。この小さな体に、いつの間にあんな強い心が芽生えていたのだろう。
誠一は、震えの治まった澪子の背中を、いつまでも黙ってなで続けた。
「油断させて急に引き返してくるかもしれないから、すぐには出てくるな」
そう言われて、出ていくのをじっとがまんしていた光太は、二人の声を聞きながら、涙が止まらなかった。
泣きながら、家族をこんなに苦しめてしまった自分の行動に、後悔の気持ちが湧き上がってきた。歴史は変えられないし、変えてはいけないことも分かっていた。ただ、
「騒ぎになってもいい。一人でも助かる人がいるなら……」
その一心だった。知っているのに何もしないでいることに耐えられなかった。しかし、軽率だった……。
鳴き止んでいたせみが少しずつ鳴き始め、辺りはまた、かしましいせみしぐれに包まれていった。
