七月。
夜が来るたび、澪子はいつも耳を澄ましていた。空襲警報のサイレンが鳴る前のあの静けさが怖かった。
でも、今は違う。彼女が怖いのは……今は大切な人がいなくなること。
光太が来てから家の中が明るくなった。千代子がよく笑うようになったし、無口な誠一が冗談まで言うようになった。
「家ってこんなににぎやかだったっけ。そういえば、きのうも……」
夕ご飯のあと、光太に勉強を教えてもらっていた。
「あれ、この漢字の筆順は、……うーん、どうだったかな……」
光太が首をかしげると、澪子は思わずクスッと笑った。
「先生なのに」
すると光太が、ゴホッとせきばらいをして、わざとらしく胸を張った。
「そこの岩永澪子さん」
「はい」
「先生も間違うんですよ」
学校の先生みたいに言ったので、縫い物をしていた千代子がクスクス笑った。誠一が、新聞から顔を上げて、
「特にこの先生はな」
と茶々を入れた。
「あちゃー」
光太が頭をかくと家中が大笑いになった。笑い声が、暗い夜を押しのけていった。
澪子はふとんの中でつぶやいた。
「おにいちゃんがいるといつも楽しい。となりにいると、なんだか心がほんわかしてくる。いつの間にか、空襲の夢もみなくなってる……」
光太は誠一や千代子の仕事をよく手伝い、澪子にやさしく話しかけてくれる。
「でも、ときどきおにいちゃんの目が遠くを見ている気がする。何かを思い出しているみたいに……。ここじゃないどこかの何かを……」
彼女はだんだん強く感じるようになっていた。光太が未来の世界から来た人で、いつまでもここには居られない人だということを。
「おにいちゃんはもうすぐ元の世界に帰るんだ。だからわたしは、絶対に忘れないようにする」
そう思った。
「ほたるを逃がしに行った朝、二人とも川に落ちて笑ったことも。いっしょに畑に行った日も。お話を聞いた日も……。雨の日に友だちもいっしょにトンネルで遊んだことも……。一日一日を、全部……」
彼女は心の中に、その一つひとつを宝物のようにしまい込んでいた。こっそり書いていた日記は、書き過ぎないように気をつけていても、いつの間にか空いているところが少なくなっていた。
一番変わったのは光太だった。祖父に勧められた合気道をなんとなく続けてはきた。が、真剣とまでは言えなかった。これまで、何かに本気になって取り組んで、やりとげたと言えるものはなかった。
それが突然、いい加減ではすまされない世界に投げ込まれた。どんな初めてのことも、
「えい! えい!」
と必死でやり抜くしかなくなった。
ただ、そんな厳しい生活の中で、自分でも知らなかった力が湧いてくるのを若い体に感じてもいた。疲れて寝てしまっても、朝になると元気が戻っていた。
「不思議だな。きのうはあんなにくたくただったのに」
そう思うとうれしくなった。
何よりも、川や井戸からの水くみやまき割り、畑仕事で、この家族の役に立っているという思いがあった。それは何かスポーツの試合で、自分の働きが味方の勝利に貢献できたときのように、じんわりと胸が熱くなることだった。
同時に光太は、ここに来る前の記憶を何度もたどっていた。そしてある日、やっぱり自分は元の世界に帰れるということに気づいた。
ごう音のショックで忘れていた曾祖父の日記を思い出したのだ。たしか、「九月二十三日に岩永さんの孫が居なくなった」と書いてあった。「消えた」とも。
「きっと、ぼくのことだ。ぼくはその日にまたあのトンネルに行き、時を越えるのに違いない」
それに気づいたとき、彼は飛び上がりたいほどうれしかった。愛する家族や友人が待っている。みんなどんなに心配していることだろう。元の世界に戻るのは、何よりも望んでいたことだった。
でもしばらくして、それが澪子や千代子や誠一と別れることでもあると思うと、喜びの波はいつも静かに引いていった。胸が締め付けられるようなさびしさを感じた。
さらに、ふと湧いた疑念が、彼の胸にふくらんだ期待をしぼませた。
「ここを去ることは確かだとしても、ちゃんと元の時代に帰れるんだろうか。それは確かなんだろうか……?」
それだけはいくら考えても分からない。もう天に任せるしかないのだ。
「もしも、……もしも元の世界に戻れないのなら、自分はずっと……ずっとここにいたい……」
日々の生活の厳しさに決してぐちを言わず、お互いの足りないところをそっと埋め合って生きている家族。ときどき光太には、昭和の電灯の黄色い灯りが、平成のLEDの白い光よりも美しく見えることがあった。
ある夜、澪子は暗がりの中で光太の寝顔を見つめていた。
「いなくならないで」
そう言いたかったけれど、声にはならなかった。
その代わりに、彼女は光太のボールペンを静かに引き出しから取り出した。息をひそめて持っていると金属の重さと冷たさが手のひらに伝わる。急に光り出しそうな気がして、澪子はあわててそれを自分の引き出しの中に入れた。
「このペンはきっとおにいちゃんが未来に帰る時に身に着ける物……。そしたら、わたしが持っていれば、おにいちゃんは帰れないかもしれない……。そしたらずっと……」
そんな幼い願いが、トクトクと鳴る胸の奥にあった。
「いけないよ」
そう言う声が聞こえた気がした。でも、その声を振り切るように引き出しを閉めてしまった。その時、「カタッ」と大きな音がして一瞬体が固まったが、気のせいだったのだろう。灯りのない部屋の中で、光太がかすかな寝息をたてていた。
こんなにドキドキするのなら昼に隠せばよかったろうに……澪子の心の奥のどこかには、光太に気づかれてもいい、いや、気づいてほしい気持ちがあったのかもしれない……。
遠くでフクロウが鳴いていた。
「ホーッ、ホーッ」
夜の静けさの中で、その声だけがひびいていた。
夜が来るたび、澪子はいつも耳を澄ましていた。空襲警報のサイレンが鳴る前のあの静けさが怖かった。
でも、今は違う。彼女が怖いのは……今は大切な人がいなくなること。
光太が来てから家の中が明るくなった。千代子がよく笑うようになったし、無口な誠一が冗談まで言うようになった。
「家ってこんなににぎやかだったっけ。そういえば、きのうも……」
夕ご飯のあと、光太に勉強を教えてもらっていた。
「あれ、この漢字の筆順は、……うーん、どうだったかな……」
光太が首をかしげると、澪子は思わずクスッと笑った。
「先生なのに」
すると光太が、ゴホッとせきばらいをして、わざとらしく胸を張った。
「そこの岩永澪子さん」
「はい」
「先生も間違うんですよ」
学校の先生みたいに言ったので、縫い物をしていた千代子がクスクス笑った。誠一が、新聞から顔を上げて、
「特にこの先生はな」
と茶々を入れた。
「あちゃー」
光太が頭をかくと家中が大笑いになった。笑い声が、暗い夜を押しのけていった。
澪子はふとんの中でつぶやいた。
「おにいちゃんがいるといつも楽しい。となりにいると、なんだか心がほんわかしてくる。いつの間にか、空襲の夢もみなくなってる……」
光太は誠一や千代子の仕事をよく手伝い、澪子にやさしく話しかけてくれる。
「でも、ときどきおにいちゃんの目が遠くを見ている気がする。何かを思い出しているみたいに……。ここじゃないどこかの何かを……」
彼女はだんだん強く感じるようになっていた。光太が未来の世界から来た人で、いつまでもここには居られない人だということを。
「おにいちゃんはもうすぐ元の世界に帰るんだ。だからわたしは、絶対に忘れないようにする」
そう思った。
「ほたるを逃がしに行った朝、二人とも川に落ちて笑ったことも。いっしょに畑に行った日も。お話を聞いた日も……。雨の日に友だちもいっしょにトンネルで遊んだことも……。一日一日を、全部……」
彼女は心の中に、その一つひとつを宝物のようにしまい込んでいた。こっそり書いていた日記は、書き過ぎないように気をつけていても、いつの間にか空いているところが少なくなっていた。
一番変わったのは光太だった。祖父に勧められた合気道をなんとなく続けてはきた。が、真剣とまでは言えなかった。これまで、何かに本気になって取り組んで、やりとげたと言えるものはなかった。
それが突然、いい加減ではすまされない世界に投げ込まれた。どんな初めてのことも、
「えい! えい!」
と必死でやり抜くしかなくなった。
ただ、そんな厳しい生活の中で、自分でも知らなかった力が湧いてくるのを若い体に感じてもいた。疲れて寝てしまっても、朝になると元気が戻っていた。
「不思議だな。きのうはあんなにくたくただったのに」
そう思うとうれしくなった。
何よりも、川や井戸からの水くみやまき割り、畑仕事で、この家族の役に立っているという思いがあった。それは何かスポーツの試合で、自分の働きが味方の勝利に貢献できたときのように、じんわりと胸が熱くなることだった。
同時に光太は、ここに来る前の記憶を何度もたどっていた。そしてある日、やっぱり自分は元の世界に帰れるということに気づいた。
ごう音のショックで忘れていた曾祖父の日記を思い出したのだ。たしか、「九月二十三日に岩永さんの孫が居なくなった」と書いてあった。「消えた」とも。
「きっと、ぼくのことだ。ぼくはその日にまたあのトンネルに行き、時を越えるのに違いない」
それに気づいたとき、彼は飛び上がりたいほどうれしかった。愛する家族や友人が待っている。みんなどんなに心配していることだろう。元の世界に戻るのは、何よりも望んでいたことだった。
でもしばらくして、それが澪子や千代子や誠一と別れることでもあると思うと、喜びの波はいつも静かに引いていった。胸が締め付けられるようなさびしさを感じた。
さらに、ふと湧いた疑念が、彼の胸にふくらんだ期待をしぼませた。
「ここを去ることは確かだとしても、ちゃんと元の時代に帰れるんだろうか。それは確かなんだろうか……?」
それだけはいくら考えても分からない。もう天に任せるしかないのだ。
「もしも、……もしも元の世界に戻れないのなら、自分はずっと……ずっとここにいたい……」
日々の生活の厳しさに決してぐちを言わず、お互いの足りないところをそっと埋め合って生きている家族。ときどき光太には、昭和の電灯の黄色い灯りが、平成のLEDの白い光よりも美しく見えることがあった。
ある夜、澪子は暗がりの中で光太の寝顔を見つめていた。
「いなくならないで」
そう言いたかったけれど、声にはならなかった。
その代わりに、彼女は光太のボールペンを静かに引き出しから取り出した。息をひそめて持っていると金属の重さと冷たさが手のひらに伝わる。急に光り出しそうな気がして、澪子はあわててそれを自分の引き出しの中に入れた。
「このペンはきっとおにいちゃんが未来に帰る時に身に着ける物……。そしたら、わたしが持っていれば、おにいちゃんは帰れないかもしれない……。そしたらずっと……」
そんな幼い願いが、トクトクと鳴る胸の奥にあった。
「いけないよ」
そう言う声が聞こえた気がした。でも、その声を振り切るように引き出しを閉めてしまった。その時、「カタッ」と大きな音がして一瞬体が固まったが、気のせいだったのだろう。灯りのない部屋の中で、光太がかすかな寝息をたてていた。
こんなにドキドキするのなら昼に隠せばよかったろうに……澪子の心の奥のどこかには、光太に気づかれてもいい、いや、気づいてほしい気持ちがあったのかもしれない……。
遠くでフクロウが鳴いていた。
「ホーッ、ホーッ」
夜の静けさの中で、その声だけがひびいていた。
