六月。
澪子は起きる前からうきうきしていた。誕生日だった。捕まえていたうなぎを、きのう誠一が町の食堂に持って行き、代わりに米とあずきをもらってきてくれた。それで千代子がおはぎを作ってくれるのだ。
「だいじょうぶ?」
澪子が心配そうに尋ねると、
「こんなときのために砂糖をとっておいたのよ。任せなさい!」
千代子が力こぶをつくるまねをして、おどけて笑ってみせた。もちろん、たくさんは無い。それでも、できるかぎりのお祝いをしてもらえることが澪子はうれしかった。そして、心の中でつぶやいた。
「おにいちゃんにはいっぱいお話をしてもらいたいな。今日だけはお母さんも許してくれるよね」
光太は外国の童話から日本の落語まで、めずらしい話をたくさん知っていた。光太にお話を聞かせてもらうのが澪子の楽しみだった。
赤ちゃんのころ、いつも父の進一の昔話を聞きながら寝ていたと、千代子が言っていた。
四年生になって、赤ちゃんみたいで恥ずかしいなと思うこともある。でも、光太の話はいつもどきどきわくわくで、眠るのが惜しくなるほどなのだ。
そうそう、この前は、「ああ無情」というお話だった。
……ジャン・バルジャンは、今は市長になって貧しい人たちを助けているのに、まだ警察に追われていた。そんな時、ジャン・バルジャンと間違えられて別の人が捕まったところだった。
ほんとのジャン・バルジャンに、
「名乗り出ないで。また捕まったらファンチーヌさんやコゼットちゃんがかわいそう……」
と澪子は思ったけれど……。
どうなるんだろう。続きが聞きたかった。
「おにいちゃんは疲れてるんだから、それくらいにしなさい」
と千代子に言われる。実際、話しながら光太が寝てしまったことがあった。あのときは笑って、
「今日はここまで。お休みなさい、おにいちゃん」
澪子がそう言って、光太にふとんをかけてあげたものだ。
学校から帰ってくると、澪子はいそいそとそうじを始めた。
やがて、おいしそうなおはぎと卵焼きがちゃぶ台に並び、とうふの入ったみそ汁もできて、あとは男二人を待つだけだった。
「ただいま」
誠一が汗をふきながら入ってきた。
「お、すごいごちそうだな、澪。ちゃんと手伝ったか?」
「ごみ一つないよ、おじいちゃん。お風呂もちゃんと沸かしてあるからね」
「おー、そうか。そういえば、光太がちょっと遅れるって言ってたな。じゃあ、先に風呂に入っとくか」
汗のにおいが染みついたかばんを下ろし、足に巻いていたゲートルをほどきながら、誠一が言うと、
「え? おにいちゃん、遅くなるって?」
光太が遅れると聞いて、澪子はがっかりした。が、材料が入れば工場の仕事が長くなるのはいつものことだから、あきらめるしかなかった。
誠一が風呂から上がって声をかけた。
「澪、光太が来る前におまえも入っとけ」
「え、でも、おにいちゃんが……」
ためらっていると、
「今日はおまえの日だから遠慮せんでいい。光太が帰って来るまでにすませといた方がよかろう?」
「え、うん……」
そう言って自分も風呂に入り、それからさらに半時間もたったのに、光太は帰ってこなかった。
それなのに、千代子も誠一もなぜかくつろいでいて少しも心配する様子がない。
自分も落ち着いていようと思ったが、外はもう真っ暗だ。
「わたし、ちょっと見てくる」
澪子は、とうとうがまんできなくなって立ち上がった。すると、
「澪、みそ汁が冷めてしまったから、温めてくれるか」
あわてたように誠一が言い、千代子も、
「お願いね。おにいちゃんはお母さんが代わりに見てくるから」
そう言って外に出て行った。
「そうそう、今の内にじいちゃんは蚊帳を張っとこう」
誠一は立って奥の間に行ってしまった。しかたなく言われたことをしながらも、澪子は気が気ではなかった。
ちょうど、みそ汁から湯気が立ち上ったころ、やっと、待っていた声がした。
「ただいまあっ」
澪子は飛ぶように迎えに行った。
「お帰りなさい。……あれ、おにいちゃん、いつ半ズボンに?」
「あ、ちょっと汚れたから……」
光太のズボンがかわっていたのが不思議だったが、ほっとした気持ちが強くて深くは考えなかった。
大好きな三人の家族からおめでとうを言われ、めったに食べられないごちそうを食べた。みんなの話がはずんで、とてもうれしい誕生日だった。
一つだけ残念だったのは、光太の帰りが遅くなったので、お話を聞く時間がなくなったことだ。
でも――。歯を磨いて、防空ずきんを持って、「おやすみなさい」を言って、奥の間のふすまを開けたとき……。澪子は一瞬息をのんだ。
彼女を待っていたのは……今までに見たことのない美しい光景だった。たくさんのほたるが、蚊帳の中で光りながら彼女を迎えた。
仕事の帰り、光太は友だちに手伝ってもらって川のほとりでほたるをとり、誠一や千代子にも頼んで澪子の蚊帳の中に放ったのだ。
「おにいちゃんだ!」
光太の遅い帰りと半ズボンと、誠一たちのおかしな行動のわけがいっぺんに分かった。胸の奥がじーんと熱くなった。
茶の間に戻ると、三つの顔が同時に笑った。五才の澪子なら走って三人に抱きついて「ありがとう」を言っただろう。十才になった彼女は、
「……おにいちゃんありがとう。おじいちゃんも、おかあさんも……」
泣きそうな声でそう言って、恥ずかしそうに駆けて戻った。
ほたるは柔らかくやさしく光って澪子の誕生日をお祝いしていた。蚊帳の中で、彼女はふとお話の中のシンデレラの宮殿を思い出した。そして、
「わたしの宮殿もとってもすてきだ……」
そう思いながら幸せな眠りに入っていった。
サイレンの鳴らない静かな夜だった。
澪子は起きる前からうきうきしていた。誕生日だった。捕まえていたうなぎを、きのう誠一が町の食堂に持って行き、代わりに米とあずきをもらってきてくれた。それで千代子がおはぎを作ってくれるのだ。
「だいじょうぶ?」
澪子が心配そうに尋ねると、
「こんなときのために砂糖をとっておいたのよ。任せなさい!」
千代子が力こぶをつくるまねをして、おどけて笑ってみせた。もちろん、たくさんは無い。それでも、できるかぎりのお祝いをしてもらえることが澪子はうれしかった。そして、心の中でつぶやいた。
「おにいちゃんにはいっぱいお話をしてもらいたいな。今日だけはお母さんも許してくれるよね」
光太は外国の童話から日本の落語まで、めずらしい話をたくさん知っていた。光太にお話を聞かせてもらうのが澪子の楽しみだった。
赤ちゃんのころ、いつも父の進一の昔話を聞きながら寝ていたと、千代子が言っていた。
四年生になって、赤ちゃんみたいで恥ずかしいなと思うこともある。でも、光太の話はいつもどきどきわくわくで、眠るのが惜しくなるほどなのだ。
そうそう、この前は、「ああ無情」というお話だった。
……ジャン・バルジャンは、今は市長になって貧しい人たちを助けているのに、まだ警察に追われていた。そんな時、ジャン・バルジャンと間違えられて別の人が捕まったところだった。
ほんとのジャン・バルジャンに、
「名乗り出ないで。また捕まったらファンチーヌさんやコゼットちゃんがかわいそう……」
と澪子は思ったけれど……。
どうなるんだろう。続きが聞きたかった。
「おにいちゃんは疲れてるんだから、それくらいにしなさい」
と千代子に言われる。実際、話しながら光太が寝てしまったことがあった。あのときは笑って、
「今日はここまで。お休みなさい、おにいちゃん」
澪子がそう言って、光太にふとんをかけてあげたものだ。
学校から帰ってくると、澪子はいそいそとそうじを始めた。
やがて、おいしそうなおはぎと卵焼きがちゃぶ台に並び、とうふの入ったみそ汁もできて、あとは男二人を待つだけだった。
「ただいま」
誠一が汗をふきながら入ってきた。
「お、すごいごちそうだな、澪。ちゃんと手伝ったか?」
「ごみ一つないよ、おじいちゃん。お風呂もちゃんと沸かしてあるからね」
「おー、そうか。そういえば、光太がちょっと遅れるって言ってたな。じゃあ、先に風呂に入っとくか」
汗のにおいが染みついたかばんを下ろし、足に巻いていたゲートルをほどきながら、誠一が言うと、
「え? おにいちゃん、遅くなるって?」
光太が遅れると聞いて、澪子はがっかりした。が、材料が入れば工場の仕事が長くなるのはいつものことだから、あきらめるしかなかった。
誠一が風呂から上がって声をかけた。
「澪、光太が来る前におまえも入っとけ」
「え、でも、おにいちゃんが……」
ためらっていると、
「今日はおまえの日だから遠慮せんでいい。光太が帰って来るまでにすませといた方がよかろう?」
「え、うん……」
そう言って自分も風呂に入り、それからさらに半時間もたったのに、光太は帰ってこなかった。
それなのに、千代子も誠一もなぜかくつろいでいて少しも心配する様子がない。
自分も落ち着いていようと思ったが、外はもう真っ暗だ。
「わたし、ちょっと見てくる」
澪子は、とうとうがまんできなくなって立ち上がった。すると、
「澪、みそ汁が冷めてしまったから、温めてくれるか」
あわてたように誠一が言い、千代子も、
「お願いね。おにいちゃんはお母さんが代わりに見てくるから」
そう言って外に出て行った。
「そうそう、今の内にじいちゃんは蚊帳を張っとこう」
誠一は立って奥の間に行ってしまった。しかたなく言われたことをしながらも、澪子は気が気ではなかった。
ちょうど、みそ汁から湯気が立ち上ったころ、やっと、待っていた声がした。
「ただいまあっ」
澪子は飛ぶように迎えに行った。
「お帰りなさい。……あれ、おにいちゃん、いつ半ズボンに?」
「あ、ちょっと汚れたから……」
光太のズボンがかわっていたのが不思議だったが、ほっとした気持ちが強くて深くは考えなかった。
大好きな三人の家族からおめでとうを言われ、めったに食べられないごちそうを食べた。みんなの話がはずんで、とてもうれしい誕生日だった。
一つだけ残念だったのは、光太の帰りが遅くなったので、お話を聞く時間がなくなったことだ。
でも――。歯を磨いて、防空ずきんを持って、「おやすみなさい」を言って、奥の間のふすまを開けたとき……。澪子は一瞬息をのんだ。
彼女を待っていたのは……今までに見たことのない美しい光景だった。たくさんのほたるが、蚊帳の中で光りながら彼女を迎えた。
仕事の帰り、光太は友だちに手伝ってもらって川のほとりでほたるをとり、誠一や千代子にも頼んで澪子の蚊帳の中に放ったのだ。
「おにいちゃんだ!」
光太の遅い帰りと半ズボンと、誠一たちのおかしな行動のわけがいっぺんに分かった。胸の奥がじーんと熱くなった。
茶の間に戻ると、三つの顔が同時に笑った。五才の澪子なら走って三人に抱きついて「ありがとう」を言っただろう。十才になった彼女は、
「……おにいちゃんありがとう。おじいちゃんも、おかあさんも……」
泣きそうな声でそう言って、恥ずかしそうに駆けて戻った。
ほたるは柔らかくやさしく光って澪子の誕生日をお祝いしていた。蚊帳の中で、彼女はふとお話の中のシンデレラの宮殿を思い出した。そして、
「わたしの宮殿もとってもすてきだ……」
そう思いながら幸せな眠りに入っていった。
サイレンの鳴らない静かな夜だった。
