原っぱでけんかしてから数日たったある日。
勝也は仲間と山で待ち合わせをした。久しぶりにみんなで兵隊ごっこをする。そこには、いつもどんぐりを拾う樫の木や椎の木のほかに、木登りにちょうどいい名も知らぬ木が無数に生えていた。
よい木を選んでそれを陣地とし、そこから木から木へ渡っていって敵陣を占領すれば勝ちだ。とちゅうで出会った敵は泥だんごを投げてやっつける。木登りと陣取りと泥だんご投げ。三つの遊びが混じり合っていてとても面白い。
いつも置いてきぼりにされる一年生の健二(けんじ)も今日こそは遊びに入れてほしくてついてきていた。
早く着いたので、勝也はみんなが来る前に、健二に木の登り方や渡り方を練習させておこうと思った。
「まずにいちゃんが登るけん、よう見とけよ」
そう言って、健二にも登れそうな木を選んだ。
「最初はこんくらい枝の多い木がええ。あとは枝から手を離しさえせんならだいじょうぶや。枯れた枝には気いつけろよ」
言いながらするすると登って下を見たが返事がない。姿も見えない。
「おい、健二。どこや。何しよる」
やはり返事がないので、下りていくとわけが分かった。健二の顔がゆがんでいた。
「にいちゃん、動けん……。足が……」
その声が思ったよりも小さくて、かえって胸にひびいた。
太ももほどの太さの若木が二本、くっつくように斜面から上に伸びていたが、何を間違えたか、そのすき間に健二の足が挟まって抜けずにいた。木がまるで弟のももにかみついているみたいだった。
「なんでそんなとこに足を入れるか。ばか!」
そう言いながらも、胸がドキドキしてきた。
「ちょっと開けるけん、じっとしとけよ」
勝也は両手で幹を押し広げようとした。少しだけ開いた。が、健二のもう一方の足がしっかり地面についていなかったために、逆にずり落ちてしまった。
「いたたっ!……」
「うわっ、まずい……」
健二が顔をしかめて涙をためていた。それを見て勝也の背中に冷たいものが流れた。
もう自分一人ではどうにもできないのは明らかだった。だれかと、それも大人と二人でやらなければ、いくらすき間を広げても、その分ずり落ちるからかえって危険だ。
「待っとき。だれか呼んでくるけん」
そう言い残して勝也は坂を駆け下りた。すべったり、足がもつれて転びそうになったりしたが、止まれなかった。頭の中で、
「このまま抜けんかったら……骨が折れたら……」
そんな言葉がぐるぐる回った。
道に出ると彩子と澪子がいた。偶然だったが、この前けんかしたばかりだ。そのまま走り過ぎようとしたら彩子が声をかけた。
「どうしたん。あわてて」
「健二が木に足を挟んだ。どうしても抜けん」
「待って。家におかあさんがいるかもしれない」
澪子がそう言うと勝也の足が止まった。
すぐに三人で走った。しかし、千代子はいなかった。今日は買い出しに行くと言っていた千代子が、まだ家にいるかもしれないと思ったのだが。
「どうする? だれか大人のいる所は……」
彩子が言って、
「だれかいませんかー!」
近くの家に向かって叫んだが、顔を出す人はいなかった。勝也が自分の家に走り出した。
そのとき、
「あ、おにいちゃん!」
工場から帰って来る光太を見つけて澪子が手を振って呼んだ。
今日は工場に材料が入らなかったのだろう。する仕事がなくなって、「帰ってよし」になったようだ。このごろは、そんなことがたまにあった。
「おにいちゃん、勝也君の弟の健二君が、木に、足が……」
澪子がそう言うと、笑顔だった光太の顔が引き締まった。
「どこ!」
「あっちです」
聞くのと同時に勝也と走り出した。澪子と彩子も、とちゅうで会った男子たちと後を追った。
現場に着くと、健二は泣きもしないでじっとしていた。光太は木を見るとすぐに言った。
「勝也君、ぼくが健二君を支えるから木を広げて。体を入れて背中と両手を使うといい。」
言われるままに、勝也が木と木の間に体を入れて、背中と両手を付けた。
「いいよ。かけ声でゆっくり開いて」
「はい」
「いち、にい、の、さん!」
光太が言い、勝也が背中と両手をつっ張ると、木の間が開いていった。すき間ができたところで、光太がゆっくりと健二の足を上げて外した。
「抜けたよ」
その声と同時に健二が泣き出した。不安と緊張が一気にほどけた涙だった。勝也も泣きそうになったが、にいちゃんだからこらえていた。
そこへ子どもたちがやってきた。
「え? もう抜けたの? 抜けるとこ見たかったのになあ」
「あほぬかせ! 見せもんじゃないわい」
彩子と勝也の言い合いにみんなが笑うと、光太が、健二の頭をぽんぽんとなでて言った。
「よく泣かずに待ってたね」
光太が健二の足をみている間に、澪子が腰の手ぬぐいを近くの湧き水でぬらしてきた。ズボンが破れてこすった所に少しだけ血がにじんでいたが、幸い骨はどうもしていないようだ。
澪子が健二の足をふいてやっている間、勝也は何も言えないでいた。
「じゃあ、ぼくはこれで」
手をあげて光太が帰り、子どもたちが残された。
「うちらも行こうか」
彩子が澪子をうながして言うと、勝也が不思議そうな顔をして言った。
「そういえば、おまえら、なんでここにおるんや?」
「いちごを摘みに来たんよ」
彩子が小さなかごを見せると、勝也が笑った。
「今ごろ来てもあるもんかい。草いちごはもう終わっとる」
「えっ、この下のやぶにあるって聞いたのに……」
「どうしようか……」
「でも行くだけ行ってみよ」
道の下のやぶは毎年草いちごの赤い実がたくさん見られる所だったが、勝也が言ったとおり、どんなに目をこらしてみても赤い色はどこにもなかった。
考えてみれば、この時期、毎日お腹のすいている子どもたちが、道ばたの野いちごを見のがすわけはなかったのだが……。
がっかりして帰ろうとしていると、後ろの方で勝也の声がした。
「整列! これより、われわれは敵陣に深く入り、木いちごをとることとする」
「はい!」
「はい!」
「おーい、おまえら。ちょっと待っとれ! 木いちごをとってやるけん」
呼ばれて引き返すと、男子たちが一列に並んでいた。
「この非常時に際し、……わが隊は、お国のために出陣する」
そう言って、勝也が兵隊のように敬礼をした。それは照れ隠しのようにも見えたが……。その挙手の礼の勢いにつられて、彩子と澪子も言ってしまった。
「ご武運を!」
「ご武運を……」
男子たちにとっては、いちご摘みも兵隊ごっこになるのだ。勝也を先頭に、みんなでやぶを棒で払って進み、トゲのある草はふみつけて、奥へ奥へと入って行った。
トゲのきついカナムグラや触ると痛いイラクサが群生しているやぶの奥の、だれも入りこまないような所に、木いちごが黄色い実をつけ始めているのを知っている者は少なかっただろう。
勝也たちは、あと数日したら摘みに来ようと話していたが、ついさっき、気が変わったようだった。
勝也は、今日の恩返しをしたかったのかもしれない。ほかの男子たちにとっては、この前の悪口のおわびの気持ちがあったのだろうか……。
男子たちの後ろから、健二を連れて女子二人もついて入った。男子たちがやぶを棒で払うたびに、ザッ、ザッ、と音がして、春の草のにおいがふわっと立ちのぼる。葉のすき間からさす光が揺れて、奥の方にたくさんの透き通るような黄色いつぶが見えた。
男子たちはチクッとトゲに刺されながらも夢中になって摘み始めた。もちろん、半分は自分の口にも入れていった。
しばらくすると、彩子と澪子が持っていたかごは、黄色い宝石のように光る可憐な野いちごでいっぱいになった。
「こんだけあれば、いくら大食いのおまえらでも十分やろ」
何か言い返すかと思ったのに、二人ともにこにこしていたので、勝也はちょっと拍子抜けした。
二人は、その野いちごを友だちの道子(みちこ)に届けるつもりだった。
空襲で大やけどを負った道子の母親は、なかなかよくなれずにまだ寝たままでいた。母親の看病や家の仕事があって、道子は学校に来なくなっていた。母親の大好きな甘いものを食べさせてあげたいと道子が言ったのを、二人は覚えていたのだった。
みんなにさよならをして健二の手を引いて帰りながら、勝也は、光太に「ありがとう」と言えなかった自分を情けないと思っていた。
野いちごを渡したとき、思いがけない収穫に彩子も澪子も、感謝にあふれた顔をして言った。
「ありがとうーー!」
「ありがとう……」
あんなにうれしそうな声で言われて、きらきらした目で見つめられて、ついそっぽを向いてしまったけれど、胸の中は今年一番ほかほかしていた。
それなのに自分は……。澪子のにいちゃんに「ありがとう」を言えなかった。
心の中では何度も思ったのに、声に出なかったのはなぜだろう。
ほかの子たちの手前、弱みを見せたくなかったからだろうか……。あんなにあせった顔、泣きそうになった自分の顔をみんなに見られて、恥ずかしかったからだろうか……。
「それもあるけど……。ちょっと違う気がする……」
光太っていう澪子のにいちゃんに叱られたあの日から、ずっともやもやしていた。
偉そうに、
「貧乏は恥ずかしいことじゃない」
なんて言った。
「そんなことあるか! 父ちゃんはそんなこと言わない。父ちゃんは、人の何倍も努力して金持ちになったんだ」
立派な自分の父親が言うことと違っていた。
「貧乏人はみんな、父ちゃんにへいこら頭下げてるじゃないか」
それなのに……。金持ちは偉いとばかり思っていたのに……このごろは、そうとも言えないような気がしてきた。それを認めると、これまでの自分がくずれていきそうで怖かったのかもしれない。
でも今は思う。
「どうでもいいなあ。貧乏とか金持ちとか、偉いとか偉くないとか……そんなことどうでもいいなあ……」
そう思うと、勝也はなんだか胸がすっきりと晴れてくるような気がした。そして思った。
「あのときの澪子のにいちゃん……」
その姿が、まだまぶたの裏に残っている。
……健二を助けるために迷いなく走ってくれた。あのときの背中。着いてからの判断。おれはあわてていただけだったが。足場が悪かったから、木を開くよりも早く健二を支える方が大事だった。だからすぐにいちゃんが健二を抱えた。みんなは、
「勝っちゃんが木を開いたの? すごい!」
って言ったけど……。にいちゃんは健二の頭をなでて、
「よく泣かずに待ってたね」
そう言って笑ってるだけだった。その時「自分もああなりたい」っておれは思ったんだ。……
今はすっかりふつうに歩きながら、
「にいちゃん。あのおにいちゃん、いい人だったね」
健二が勝也を見上げてぽつりと言った。こっくりとうなずきながら、勝也は心の中でしっかりと言った。
「ありがとう、にいちゃん」
若葉の間を吹き抜けてきた五月の風が、兄と弟の背中を大きな手のひらのように押していった。
勝也は仲間と山で待ち合わせをした。久しぶりにみんなで兵隊ごっこをする。そこには、いつもどんぐりを拾う樫の木や椎の木のほかに、木登りにちょうどいい名も知らぬ木が無数に生えていた。
よい木を選んでそれを陣地とし、そこから木から木へ渡っていって敵陣を占領すれば勝ちだ。とちゅうで出会った敵は泥だんごを投げてやっつける。木登りと陣取りと泥だんご投げ。三つの遊びが混じり合っていてとても面白い。
いつも置いてきぼりにされる一年生の健二(けんじ)も今日こそは遊びに入れてほしくてついてきていた。
早く着いたので、勝也はみんなが来る前に、健二に木の登り方や渡り方を練習させておこうと思った。
「まずにいちゃんが登るけん、よう見とけよ」
そう言って、健二にも登れそうな木を選んだ。
「最初はこんくらい枝の多い木がええ。あとは枝から手を離しさえせんならだいじょうぶや。枯れた枝には気いつけろよ」
言いながらするすると登って下を見たが返事がない。姿も見えない。
「おい、健二。どこや。何しよる」
やはり返事がないので、下りていくとわけが分かった。健二の顔がゆがんでいた。
「にいちゃん、動けん……。足が……」
その声が思ったよりも小さくて、かえって胸にひびいた。
太ももほどの太さの若木が二本、くっつくように斜面から上に伸びていたが、何を間違えたか、そのすき間に健二の足が挟まって抜けずにいた。木がまるで弟のももにかみついているみたいだった。
「なんでそんなとこに足を入れるか。ばか!」
そう言いながらも、胸がドキドキしてきた。
「ちょっと開けるけん、じっとしとけよ」
勝也は両手で幹を押し広げようとした。少しだけ開いた。が、健二のもう一方の足がしっかり地面についていなかったために、逆にずり落ちてしまった。
「いたたっ!……」
「うわっ、まずい……」
健二が顔をしかめて涙をためていた。それを見て勝也の背中に冷たいものが流れた。
もう自分一人ではどうにもできないのは明らかだった。だれかと、それも大人と二人でやらなければ、いくらすき間を広げても、その分ずり落ちるからかえって危険だ。
「待っとき。だれか呼んでくるけん」
そう言い残して勝也は坂を駆け下りた。すべったり、足がもつれて転びそうになったりしたが、止まれなかった。頭の中で、
「このまま抜けんかったら……骨が折れたら……」
そんな言葉がぐるぐる回った。
道に出ると彩子と澪子がいた。偶然だったが、この前けんかしたばかりだ。そのまま走り過ぎようとしたら彩子が声をかけた。
「どうしたん。あわてて」
「健二が木に足を挟んだ。どうしても抜けん」
「待って。家におかあさんがいるかもしれない」
澪子がそう言うと勝也の足が止まった。
すぐに三人で走った。しかし、千代子はいなかった。今日は買い出しに行くと言っていた千代子が、まだ家にいるかもしれないと思ったのだが。
「どうする? だれか大人のいる所は……」
彩子が言って、
「だれかいませんかー!」
近くの家に向かって叫んだが、顔を出す人はいなかった。勝也が自分の家に走り出した。
そのとき、
「あ、おにいちゃん!」
工場から帰って来る光太を見つけて澪子が手を振って呼んだ。
今日は工場に材料が入らなかったのだろう。する仕事がなくなって、「帰ってよし」になったようだ。このごろは、そんなことがたまにあった。
「おにいちゃん、勝也君の弟の健二君が、木に、足が……」
澪子がそう言うと、笑顔だった光太の顔が引き締まった。
「どこ!」
「あっちです」
聞くのと同時に勝也と走り出した。澪子と彩子も、とちゅうで会った男子たちと後を追った。
現場に着くと、健二は泣きもしないでじっとしていた。光太は木を見るとすぐに言った。
「勝也君、ぼくが健二君を支えるから木を広げて。体を入れて背中と両手を使うといい。」
言われるままに、勝也が木と木の間に体を入れて、背中と両手を付けた。
「いいよ。かけ声でゆっくり開いて」
「はい」
「いち、にい、の、さん!」
光太が言い、勝也が背中と両手をつっ張ると、木の間が開いていった。すき間ができたところで、光太がゆっくりと健二の足を上げて外した。
「抜けたよ」
その声と同時に健二が泣き出した。不安と緊張が一気にほどけた涙だった。勝也も泣きそうになったが、にいちゃんだからこらえていた。
そこへ子どもたちがやってきた。
「え? もう抜けたの? 抜けるとこ見たかったのになあ」
「あほぬかせ! 見せもんじゃないわい」
彩子と勝也の言い合いにみんなが笑うと、光太が、健二の頭をぽんぽんとなでて言った。
「よく泣かずに待ってたね」
光太が健二の足をみている間に、澪子が腰の手ぬぐいを近くの湧き水でぬらしてきた。ズボンが破れてこすった所に少しだけ血がにじんでいたが、幸い骨はどうもしていないようだ。
澪子が健二の足をふいてやっている間、勝也は何も言えないでいた。
「じゃあ、ぼくはこれで」
手をあげて光太が帰り、子どもたちが残された。
「うちらも行こうか」
彩子が澪子をうながして言うと、勝也が不思議そうな顔をして言った。
「そういえば、おまえら、なんでここにおるんや?」
「いちごを摘みに来たんよ」
彩子が小さなかごを見せると、勝也が笑った。
「今ごろ来てもあるもんかい。草いちごはもう終わっとる」
「えっ、この下のやぶにあるって聞いたのに……」
「どうしようか……」
「でも行くだけ行ってみよ」
道の下のやぶは毎年草いちごの赤い実がたくさん見られる所だったが、勝也が言ったとおり、どんなに目をこらしてみても赤い色はどこにもなかった。
考えてみれば、この時期、毎日お腹のすいている子どもたちが、道ばたの野いちごを見のがすわけはなかったのだが……。
がっかりして帰ろうとしていると、後ろの方で勝也の声がした。
「整列! これより、われわれは敵陣に深く入り、木いちごをとることとする」
「はい!」
「はい!」
「おーい、おまえら。ちょっと待っとれ! 木いちごをとってやるけん」
呼ばれて引き返すと、男子たちが一列に並んでいた。
「この非常時に際し、……わが隊は、お国のために出陣する」
そう言って、勝也が兵隊のように敬礼をした。それは照れ隠しのようにも見えたが……。その挙手の礼の勢いにつられて、彩子と澪子も言ってしまった。
「ご武運を!」
「ご武運を……」
男子たちにとっては、いちご摘みも兵隊ごっこになるのだ。勝也を先頭に、みんなでやぶを棒で払って進み、トゲのある草はふみつけて、奥へ奥へと入って行った。
トゲのきついカナムグラや触ると痛いイラクサが群生しているやぶの奥の、だれも入りこまないような所に、木いちごが黄色い実をつけ始めているのを知っている者は少なかっただろう。
勝也たちは、あと数日したら摘みに来ようと話していたが、ついさっき、気が変わったようだった。
勝也は、今日の恩返しをしたかったのかもしれない。ほかの男子たちにとっては、この前の悪口のおわびの気持ちがあったのだろうか……。
男子たちの後ろから、健二を連れて女子二人もついて入った。男子たちがやぶを棒で払うたびに、ザッ、ザッ、と音がして、春の草のにおいがふわっと立ちのぼる。葉のすき間からさす光が揺れて、奥の方にたくさんの透き通るような黄色いつぶが見えた。
男子たちはチクッとトゲに刺されながらも夢中になって摘み始めた。もちろん、半分は自分の口にも入れていった。
しばらくすると、彩子と澪子が持っていたかごは、黄色い宝石のように光る可憐な野いちごでいっぱいになった。
「こんだけあれば、いくら大食いのおまえらでも十分やろ」
何か言い返すかと思ったのに、二人ともにこにこしていたので、勝也はちょっと拍子抜けした。
二人は、その野いちごを友だちの道子(みちこ)に届けるつもりだった。
空襲で大やけどを負った道子の母親は、なかなかよくなれずにまだ寝たままでいた。母親の看病や家の仕事があって、道子は学校に来なくなっていた。母親の大好きな甘いものを食べさせてあげたいと道子が言ったのを、二人は覚えていたのだった。
みんなにさよならをして健二の手を引いて帰りながら、勝也は、光太に「ありがとう」と言えなかった自分を情けないと思っていた。
野いちごを渡したとき、思いがけない収穫に彩子も澪子も、感謝にあふれた顔をして言った。
「ありがとうーー!」
「ありがとう……」
あんなにうれしそうな声で言われて、きらきらした目で見つめられて、ついそっぽを向いてしまったけれど、胸の中は今年一番ほかほかしていた。
それなのに自分は……。澪子のにいちゃんに「ありがとう」を言えなかった。
心の中では何度も思ったのに、声に出なかったのはなぜだろう。
ほかの子たちの手前、弱みを見せたくなかったからだろうか……。あんなにあせった顔、泣きそうになった自分の顔をみんなに見られて、恥ずかしかったからだろうか……。
「それもあるけど……。ちょっと違う気がする……」
光太っていう澪子のにいちゃんに叱られたあの日から、ずっともやもやしていた。
偉そうに、
「貧乏は恥ずかしいことじゃない」
なんて言った。
「そんなことあるか! 父ちゃんはそんなこと言わない。父ちゃんは、人の何倍も努力して金持ちになったんだ」
立派な自分の父親が言うことと違っていた。
「貧乏人はみんな、父ちゃんにへいこら頭下げてるじゃないか」
それなのに……。金持ちは偉いとばかり思っていたのに……このごろは、そうとも言えないような気がしてきた。それを認めると、これまでの自分がくずれていきそうで怖かったのかもしれない。
でも今は思う。
「どうでもいいなあ。貧乏とか金持ちとか、偉いとか偉くないとか……そんなことどうでもいいなあ……」
そう思うと、勝也はなんだか胸がすっきりと晴れてくるような気がした。そして思った。
「あのときの澪子のにいちゃん……」
その姿が、まだまぶたの裏に残っている。
……健二を助けるために迷いなく走ってくれた。あのときの背中。着いてからの判断。おれはあわてていただけだったが。足場が悪かったから、木を開くよりも早く健二を支える方が大事だった。だからすぐにいちゃんが健二を抱えた。みんなは、
「勝っちゃんが木を開いたの? すごい!」
って言ったけど……。にいちゃんは健二の頭をなでて、
「よく泣かずに待ってたね」
そう言って笑ってるだけだった。その時「自分もああなりたい」っておれは思ったんだ。……
今はすっかりふつうに歩きながら、
「にいちゃん。あのおにいちゃん、いい人だったね」
健二が勝也を見上げてぽつりと言った。こっくりとうなずきながら、勝也は心の中でしっかりと言った。
「ありがとう、にいちゃん」
若葉の間を吹き抜けてきた五月の風が、兄と弟の背中を大きな手のひらのように押していった。
