五月のある日。
誠一は仕事、光太が勤労動員でそれぞれの工場へ出かけたあと、学校に向かう澪子に千代子がすまなそうに言った。
「ごめんね、澪。今日も弁当にご飯を入れられなくて……」
焼け残った学校では、午前中だけ授業が行われ、午後はそれぞれの班に分かれて作業をしていた。防空壕ほりや畑仕事が多かった。
「わたし、おいもの方が力が出るからおいもが一番いいよ、おかあさん」
配給の米がなくなりかけていた。疲れて帰ってくるみんなに、せめて夕食は少しでも米の入ったご飯を食べさせたいと、千代子は毎日心をくだいていた。
千代子のおかげで、食事も着る物も質素ではあったが、家族は安心して暮らすことができた。
夕方、工場が早くひけて帰っていた光太は、何か騒がしい声に気づいた。道の横の原っぱを見ると、澪子が友だちの彩子(あやこ)と二人で、四人の男子に囲まれていた。足を止めると話し声が聞こえてきた。
昼休みに遊んでいた男子が、女子にぶつかって倒したのに、そのまま走り去ったらしい。それを彩子が先生に告げ口したので、そのし返しをたくらんだようだった。
彩子を助けに入った澪子もいっしょに悪口を言われているようだ。どうやらリーダーの男子は勝也(かつや)という名の五年生で、家は町でも有数の金持ちらしい。
「なんで先生に言うんだよ。ひきょう者が!」
男子の一人が彩子に詰め寄る。気の強い彩子はひるまずに言い返した。
「ひきょう者はそっちやろ。ぶつかってけがさせて。謝りもしないで、逃げて」
「うるさい! 偉そうに言うな。おまえら、貧乏人が。帳面(ノート)も持たんくせに」
勝也がそう言って、今度は澪子に向かって言った。
「よそ者はしゃしゃり出んな」
そして、澪子のもんぺを指さして笑った。
「継ぎだらけやん。弁当もいもだけやろ? 東京者って言うても、いも女じゃん」
彩子が澪子をかばうように言った。
「そんなの関係ないやろ。ばかじゃないの?」
しかし、男子たちはかまわずにはやし立てる。
「いも弁当!」
「いも女!」
「何か言え。弱虫が」
「弱虫がー」
「よーわむしがー」
澪子は何も言えずにくちびるをかんでいた。もんぺを笑われたのがくやしくて悲しかった。千代子が遅くまで起きていて縫ってくれたもんぺだった。
木の陰でじっと様子をうかがっていた光太は、頭にかーっと血が上るのが分かった。男子たちへの怒りだったが、一方で、自分のせいで家族の食料が減っていると思うとつらかった。澪子がかわいそうだった。
でも、今はどうすれば……。
「割って入って怒鳴ったりしたら、澪がますますみじめになる……」
脈打つ鼓動を感じながら光太は迷った。が、今にも泣きだしそうな澪子を見て、黙っていることはできなかった。
いつも合気道の稽古でしてきたように、大きく息を吸い、下腹に落としてゆっくりと吐いた。そうやってたかぶった気持ちをしずめながら、子どもたちに近づいていった。
彩子がなおも言い返したところだった。
「あんたたちはどうなの! 弁当は? 服は?」
「ちょっと待った。そこまでにしよう」
夕暮れの光が光太の横顔を照らし、子どもたちの動きが止まった。
光太は男子たちを向いて、上ずる声を抑えるように、低くゆっくりとした声で話しかけた。不思議と言葉が自然に出てきた。
「きみたち、人を笑う前に自分の心を見たらどうだ」
つっ立ったまま、勝也が眉をひそめた。
「だれだよ。おっさんみたいな言い方して」
男子たちは突然現れた見知らぬ若者に驚き、荒っぽい大人のように、怒鳴るのか、なぐるのかとおびえた。が、そうしない光太に別の驚きを感じた。
「澪は弱虫じゃない。澪は……妹は、やさしくて強い。ノートは……帳面はなくても……工夫して勉強している。……小さないもを、感謝して食べている。きみたちが持っていないものを、この子は持っているんだ」
だれかが下を向き、だれかが足もとの草をふんだ。声を荒らげることなく、一言ひとこと真剣に語りかける光太の言葉が、静かに心に入ってくるような気がした。
そして思った。
「おれも帳面は持ってないし……」
「おれの弁当もいもだった……」
米のご飯を食べられないのは自分たちも同じだった。勝也以外は帳面を持たなかったし、みんないもを食べていた。秋と冬はさつまいも、春と夏はじゃがいも……。一年中いもばかり……。本当は、自分たちこそいも男……。
「母親が心を込めて縫った服を大切に着るのは、笑えることか?」
みんな、同じような服を着ていた。どれも家の人が子を思いながら縫ってくれたものだ。
「貧乏は恥ずかしいことじゃない。恥ずかしいのは、だれかを笑って自分の弱さをごまかすことだろ?」
澪子を笑ったのは、ほんとは自分のみじめさを隠すためだったのかもしれない。それとも、都会の子らしく、どことなくあか抜けて見える澪子がしゃくにさわったからだろうか……。子どもたちは、そんなことを考えながら、光太をときどきちらっと見上げた。
「この人は、きっと正しいことを言っている……」
素直にそんな気がした。
風が草を揺らす音だけが聞こえた。やがて一人の子がぽつりと言った。
「ごめんなさい……」
つられるようにあとの二人も、
「ごめんなさい」
「ごめんね……」
ずっと目をそらしていた勝也も、とうとう澪子と彩子に向かって言った。
「ごめんな。……彩子もごめん」
謝った後もあまりくやしいと思わず、反対に心が軽くなったような気がするのが、子どもたちには不思議だった。勝也だけは、まだ少し口を曲げているようにも見えたが……。
澪子は、顔を上げてじっと光太を見つめていた。
「おにいちゃんが、『妹はやさしくて強い』って言ってくれた……」
何度も胸に湧き上がってくるその言葉をかみしめていた。
光太が照れくさそうな顔をして先に帰り、男子たちも去った後の帰り道。澪子と彩子はまだ胸の中に熱いものを感じながら黙って歩いた。そして、わかれ道まで来ると突然彩子が言った。
「みおちゃんのおにいちゃんって、すてきだね。……さよならー」
「さよなら……」
駆けていく彩子を見送りながら、澪子は顔が熱くなるのを感じた。小さな胸に、感謝と尊敬と、言葉にできない何かが入り混じっていた。
夕暮れの空がみかん色に染まり、道ばたの草の緑がいつもより鮮やかににおう気がした。
あちこちで小さなバッタが跳んでいた。
誠一は仕事、光太が勤労動員でそれぞれの工場へ出かけたあと、学校に向かう澪子に千代子がすまなそうに言った。
「ごめんね、澪。今日も弁当にご飯を入れられなくて……」
焼け残った学校では、午前中だけ授業が行われ、午後はそれぞれの班に分かれて作業をしていた。防空壕ほりや畑仕事が多かった。
「わたし、おいもの方が力が出るからおいもが一番いいよ、おかあさん」
配給の米がなくなりかけていた。疲れて帰ってくるみんなに、せめて夕食は少しでも米の入ったご飯を食べさせたいと、千代子は毎日心をくだいていた。
千代子のおかげで、食事も着る物も質素ではあったが、家族は安心して暮らすことができた。
夕方、工場が早くひけて帰っていた光太は、何か騒がしい声に気づいた。道の横の原っぱを見ると、澪子が友だちの彩子(あやこ)と二人で、四人の男子に囲まれていた。足を止めると話し声が聞こえてきた。
昼休みに遊んでいた男子が、女子にぶつかって倒したのに、そのまま走り去ったらしい。それを彩子が先生に告げ口したので、そのし返しをたくらんだようだった。
彩子を助けに入った澪子もいっしょに悪口を言われているようだ。どうやらリーダーの男子は勝也(かつや)という名の五年生で、家は町でも有数の金持ちらしい。
「なんで先生に言うんだよ。ひきょう者が!」
男子の一人が彩子に詰め寄る。気の強い彩子はひるまずに言い返した。
「ひきょう者はそっちやろ。ぶつかってけがさせて。謝りもしないで、逃げて」
「うるさい! 偉そうに言うな。おまえら、貧乏人が。帳面(ノート)も持たんくせに」
勝也がそう言って、今度は澪子に向かって言った。
「よそ者はしゃしゃり出んな」
そして、澪子のもんぺを指さして笑った。
「継ぎだらけやん。弁当もいもだけやろ? 東京者って言うても、いも女じゃん」
彩子が澪子をかばうように言った。
「そんなの関係ないやろ。ばかじゃないの?」
しかし、男子たちはかまわずにはやし立てる。
「いも弁当!」
「いも女!」
「何か言え。弱虫が」
「弱虫がー」
「よーわむしがー」
澪子は何も言えずにくちびるをかんでいた。もんぺを笑われたのがくやしくて悲しかった。千代子が遅くまで起きていて縫ってくれたもんぺだった。
木の陰でじっと様子をうかがっていた光太は、頭にかーっと血が上るのが分かった。男子たちへの怒りだったが、一方で、自分のせいで家族の食料が減っていると思うとつらかった。澪子がかわいそうだった。
でも、今はどうすれば……。
「割って入って怒鳴ったりしたら、澪がますますみじめになる……」
脈打つ鼓動を感じながら光太は迷った。が、今にも泣きだしそうな澪子を見て、黙っていることはできなかった。
いつも合気道の稽古でしてきたように、大きく息を吸い、下腹に落としてゆっくりと吐いた。そうやってたかぶった気持ちをしずめながら、子どもたちに近づいていった。
彩子がなおも言い返したところだった。
「あんたたちはどうなの! 弁当は? 服は?」
「ちょっと待った。そこまでにしよう」
夕暮れの光が光太の横顔を照らし、子どもたちの動きが止まった。
光太は男子たちを向いて、上ずる声を抑えるように、低くゆっくりとした声で話しかけた。不思議と言葉が自然に出てきた。
「きみたち、人を笑う前に自分の心を見たらどうだ」
つっ立ったまま、勝也が眉をひそめた。
「だれだよ。おっさんみたいな言い方して」
男子たちは突然現れた見知らぬ若者に驚き、荒っぽい大人のように、怒鳴るのか、なぐるのかとおびえた。が、そうしない光太に別の驚きを感じた。
「澪は弱虫じゃない。澪は……妹は、やさしくて強い。ノートは……帳面はなくても……工夫して勉強している。……小さないもを、感謝して食べている。きみたちが持っていないものを、この子は持っているんだ」
だれかが下を向き、だれかが足もとの草をふんだ。声を荒らげることなく、一言ひとこと真剣に語りかける光太の言葉が、静かに心に入ってくるような気がした。
そして思った。
「おれも帳面は持ってないし……」
「おれの弁当もいもだった……」
米のご飯を食べられないのは自分たちも同じだった。勝也以外は帳面を持たなかったし、みんないもを食べていた。秋と冬はさつまいも、春と夏はじゃがいも……。一年中いもばかり……。本当は、自分たちこそいも男……。
「母親が心を込めて縫った服を大切に着るのは、笑えることか?」
みんな、同じような服を着ていた。どれも家の人が子を思いながら縫ってくれたものだ。
「貧乏は恥ずかしいことじゃない。恥ずかしいのは、だれかを笑って自分の弱さをごまかすことだろ?」
澪子を笑ったのは、ほんとは自分のみじめさを隠すためだったのかもしれない。それとも、都会の子らしく、どことなくあか抜けて見える澪子がしゃくにさわったからだろうか……。子どもたちは、そんなことを考えながら、光太をときどきちらっと見上げた。
「この人は、きっと正しいことを言っている……」
素直にそんな気がした。
風が草を揺らす音だけが聞こえた。やがて一人の子がぽつりと言った。
「ごめんなさい……」
つられるようにあとの二人も、
「ごめんなさい」
「ごめんね……」
ずっと目をそらしていた勝也も、とうとう澪子と彩子に向かって言った。
「ごめんな。……彩子もごめん」
謝った後もあまりくやしいと思わず、反対に心が軽くなったような気がするのが、子どもたちには不思議だった。勝也だけは、まだ少し口を曲げているようにも見えたが……。
澪子は、顔を上げてじっと光太を見つめていた。
「おにいちゃんが、『妹はやさしくて強い』って言ってくれた……」
何度も胸に湧き上がってくるその言葉をかみしめていた。
光太が照れくさそうな顔をして先に帰り、男子たちも去った後の帰り道。澪子と彩子はまだ胸の中に熱いものを感じながら黙って歩いた。そして、わかれ道まで来ると突然彩子が言った。
「みおちゃんのおにいちゃんって、すてきだね。……さよならー」
「さよなら……」
駆けていく彩子を見送りながら、澪子は顔が熱くなるのを感じた。小さな胸に、感謝と尊敬と、言葉にできない何かが入り混じっていた。
夕暮れの空がみかん色に染まり、道ばたの草の緑がいつもより鮮やかににおう気がした。
あちこちで小さなバッタが跳んでいた。
