夕方になって帰って来た誠一や千代子が光太に感じた印象も、澪子と同じだった。
「何もかも忘れてるようだが変な子じゃない。それどころか、礼儀正しいし頭もよさそうだ」
誠一が言うと、千代子もうなずいた。
「澪がもうなついてるみたい。人みしりな子なのに」
「それにしても、帰る場所が分からんのではなあ……」
警察に任せようとも思ったが、なぜかそれはためらわれた。
「記憶が戻るまでいっしょに暮らそうか……」
だれが言うでもなく自然に決まった。自分たちも東京の人間。その東京から来たという子を、見捨ててはおけなかったのかもしれない……。
近所の人たちは、遅れてやって来た誠一の孫だと思ったようだ。
澪子はよく笑う子だったが、やせこけた犬やけがをした虫を見るだけで涙がにじむような子でもあった。
光太は彼女といっしょに過ごすようになって、家族との生活にも少しずつ慣れていった。しかし、突然昔の世界に投げ出された運命に、ときには叫びだしたくなるほど苦しくなることがあった。じっとしていると恐怖が胸にせり上がってきた。
ある晩、光太がふとんの中で震えているのに気づいた澪子が、そっと声をかけた。
「寒い? おにいちゃん」
「あ、いや……ちょっと夢をみたのかな……」
「怖い夢? わたしも怖い夢みることあるよ。空襲の夢」
光太は、小さく笑って澪子の手をにぎった。
「だいじょうぶ。澪ちゃんがいるから怖くないよ」
「澪って呼んでいいのに……」
光太は、自分がどうなるのか不安でたまらなかったが、そんなときに見る澪子の無心な笑顔に救われていた。
一人っ子の澪子も「兄」ができたことがうれしくて、すぐに「おにいちゃん」と呼ぶようになっていた。
戦争で生活は厳しかったが、誠一も千代子も、本当の兄妹のように見える二人を目を細めてながめていた。
配給の食料が少なくても、千代子はいつも光太が気がねしないように気を配った。
「はい、おにぎり。そっちがあなたで、こっちは澪の分」
「ありがとうございます、千代子さん。でも、ぼくのが大きくないですか?」
「そりゃあ、体が大きいんだから当たり前でしょ。それに、そろそろ『千代子さん』はやめてくれる?」
「はあ……」
誠一は、町のしきたりや防空訓練、畑や家の仕事を一つひとつ光太に教え、彼が早くこの町になじむように努めた。
「光太。畑の畝は、こっちの平べったい鍬で作っていくんだ。すくって乗せて、すくって乗せて、……まっすぐにな。……まあ、こんなもんだ」
「はい、誠一さん。……。……。こうですか?」
「そうそう、わしよりすじがいいな。あ、それとな。その『誠一さん』はやめてくれ。じいちゃんでいい」
「ああ、でも……」
「澪がおじいちゃんって呼ぶのに、『おにいちゃん』のおまえが誠一さんって言ってたらおかしいだろ」
「はあ……。いえ、はい」
光太は、自分が未来から来た人間だとは言わなかった。仮に信じてもらえたとしても、この家族まで混乱させてしまう。自分が過去に来ているのが真実ならば、自分の行動で未来が変わってしまうかもしれない。いつか本で読んだように……。そう思うと怖くなって、記憶喪失の少年で通すことにしたのだ。
ただ、誠一も千代子も、光太は本当に日本にいたのだろうかと、ふと思うことがあった。自分のことは知らないのに世界のことをよく知っていた。
この前の空襲では、港の向こう側の住宅地の被害が大きくて、港の中心部の施設は無傷だった。誠一が不思議がっていると、光太が言った。
「アメリカは、戦争が終わったあと、すぐに港を利用できるようにしたかったのかもしれません。」
すると誠一が顔色を変えて低い声で言った。
「そしたら、日本は負けるっていうことか? 占領されるのか? おまえ、それは絶対に人前で言ったらいかんぞ。特高(特別高等警察)の耳に入ったら、どんなことになるか分からん……」
「すみません。気をつけます」
それ以上、誠一にとがめられることはなかった。しかし光太は、自分が知っていることを、軽々しく口に出してはいけないのだと改めて思った。何よりも、この親切な家族に迷惑はかけられないと。
ある朝、二人いっしょに家を出て仕事先に向かいながら、誠一がぽつりと話しかけた。
「光太。……おまえ、名前と歳と東京から来たこと以外、ほんとに何も分からんのか」
光太はびっくりしたが、少し考えてから答えた。
「……はい。でも、ここに来てからのことは、みんな覚えています」
誠一はしばらく黙って歩いていたが、やがて明るく笑って言った。
「それならいい……。人間、今をちゃんと生きてりゃ十分だ」
また、別の日には、前よりも真剣な顔でこう言った。
「もし、何か……だれにも言えないことがあるなら、わしには話していいからな」
光太は、驚いたように誠一を見た。
「……ありがとうございます。でも、今はまだ……」
誠一はうなずいた。
「無理には聞かん。ただな、黙っていても分かるもんだ。家族ってのはな」
光太はその言葉に、まぶたが熱くなるのを感じた。
千代子には、光太の服や靴が、今まで見たことのない物だったのが不思議だった。
「これは……化学せんいと言って……東京のある工場で作られているんです……と思います……まだ、そんなに広まってはいないですけど……」
しどろもどろでふし目がちに答える光太に、千代子はそれ以上尋ねることはしなかった。生まれてすぐに亡くなった長男への思いが重なっていたのだろうか……。
ある日、たまたま二人だけになったとき、千代子がお茶をいれてくれた。
「光太、こっちの暮らしにはもう慣れた?」
「はい、だいぶ……。でも、お、かあさん。ぼく、まだここに居てもいいんでしょうか……」
千代子は湯飲みをさし出しながら、静かに言った。
「いいに決まってる……。あなたがここに居てくれるのがうれしいのよ、わたしたちは」
ゆっくり大きく息を吸って光太が言った。
「……ぼく、いつかは帰る日が来るかもしれなくて……」
「その日が来るまで……それまでの間は家族でいましょう。……ね」
お茶をすする湯飲みの向こうに千代子のやさしい笑顔があった。光太は口を強く結んでうなずいた。
澪子は、光太が未来の国から来た人なんだと感じていた。理屈を知らない子どもだからこそ見抜ける真実というものが、あるのかもしれない……。彼女には、服や靴以上に、あの銀色に光るペンが、今の世界の物とは思えなかった。
「おにいちゃん、そのペンすごい。赤いインクも出るし、鉛筆にもなるって魔法みたい」
「あ、これはちょっと、特別なやつだから……」
「未来の道具?」
「まさか……」
どぎまぎして目をそらす光太を見て、澪子はやっぱりそうだと思った。あのペンは、本当は今と未来をつなぐための道具なんだと。
ただ、それをはっきり言うのは怖かった。光太が、自分たちとまったく別の世界の人だとは思いたくなかった。
光太は、身に着けていたボールペンを、自分用に空けてもらったタンスの引き出しにしまった。
「ねえ、おにいちゃん。戦争が終わった未来って、どうなるかな……」
長いまつ毛を上げ、澄んだひとみで見上げる澪子に光太は口ごもった。大人を信じきっているひとみだった。現代の環境破壊や核兵器の競争、世界でくり返されている争いの話などとてもできなかった。
「澪が大人になるころの日本は、とっても豊かで平和な国になると思うよ」
そう答えると、澪子は「ほっ」と息をついて、夢みるように言った。
「早く戦争が終わるといいな」
そんな日々が重なるにつれて、光太はしだいに自分の運命を受け入れ、ここで精いっぱい生きようと思うようになった。
「きっといつか帰る日は来る。でもその時までは、ここで、一生懸命……」
四月の終わり。牛蛙の野太い声がひびいていた。
「何もかも忘れてるようだが変な子じゃない。それどころか、礼儀正しいし頭もよさそうだ」
誠一が言うと、千代子もうなずいた。
「澪がもうなついてるみたい。人みしりな子なのに」
「それにしても、帰る場所が分からんのではなあ……」
警察に任せようとも思ったが、なぜかそれはためらわれた。
「記憶が戻るまでいっしょに暮らそうか……」
だれが言うでもなく自然に決まった。自分たちも東京の人間。その東京から来たという子を、見捨ててはおけなかったのかもしれない……。
近所の人たちは、遅れてやって来た誠一の孫だと思ったようだ。
澪子はよく笑う子だったが、やせこけた犬やけがをした虫を見るだけで涙がにじむような子でもあった。
光太は彼女といっしょに過ごすようになって、家族との生活にも少しずつ慣れていった。しかし、突然昔の世界に投げ出された運命に、ときには叫びだしたくなるほど苦しくなることがあった。じっとしていると恐怖が胸にせり上がってきた。
ある晩、光太がふとんの中で震えているのに気づいた澪子が、そっと声をかけた。
「寒い? おにいちゃん」
「あ、いや……ちょっと夢をみたのかな……」
「怖い夢? わたしも怖い夢みることあるよ。空襲の夢」
光太は、小さく笑って澪子の手をにぎった。
「だいじょうぶ。澪ちゃんがいるから怖くないよ」
「澪って呼んでいいのに……」
光太は、自分がどうなるのか不安でたまらなかったが、そんなときに見る澪子の無心な笑顔に救われていた。
一人っ子の澪子も「兄」ができたことがうれしくて、すぐに「おにいちゃん」と呼ぶようになっていた。
戦争で生活は厳しかったが、誠一も千代子も、本当の兄妹のように見える二人を目を細めてながめていた。
配給の食料が少なくても、千代子はいつも光太が気がねしないように気を配った。
「はい、おにぎり。そっちがあなたで、こっちは澪の分」
「ありがとうございます、千代子さん。でも、ぼくのが大きくないですか?」
「そりゃあ、体が大きいんだから当たり前でしょ。それに、そろそろ『千代子さん』はやめてくれる?」
「はあ……」
誠一は、町のしきたりや防空訓練、畑や家の仕事を一つひとつ光太に教え、彼が早くこの町になじむように努めた。
「光太。畑の畝は、こっちの平べったい鍬で作っていくんだ。すくって乗せて、すくって乗せて、……まっすぐにな。……まあ、こんなもんだ」
「はい、誠一さん。……。……。こうですか?」
「そうそう、わしよりすじがいいな。あ、それとな。その『誠一さん』はやめてくれ。じいちゃんでいい」
「ああ、でも……」
「澪がおじいちゃんって呼ぶのに、『おにいちゃん』のおまえが誠一さんって言ってたらおかしいだろ」
「はあ……。いえ、はい」
光太は、自分が未来から来た人間だとは言わなかった。仮に信じてもらえたとしても、この家族まで混乱させてしまう。自分が過去に来ているのが真実ならば、自分の行動で未来が変わってしまうかもしれない。いつか本で読んだように……。そう思うと怖くなって、記憶喪失の少年で通すことにしたのだ。
ただ、誠一も千代子も、光太は本当に日本にいたのだろうかと、ふと思うことがあった。自分のことは知らないのに世界のことをよく知っていた。
この前の空襲では、港の向こう側の住宅地の被害が大きくて、港の中心部の施設は無傷だった。誠一が不思議がっていると、光太が言った。
「アメリカは、戦争が終わったあと、すぐに港を利用できるようにしたかったのかもしれません。」
すると誠一が顔色を変えて低い声で言った。
「そしたら、日本は負けるっていうことか? 占領されるのか? おまえ、それは絶対に人前で言ったらいかんぞ。特高(特別高等警察)の耳に入ったら、どんなことになるか分からん……」
「すみません。気をつけます」
それ以上、誠一にとがめられることはなかった。しかし光太は、自分が知っていることを、軽々しく口に出してはいけないのだと改めて思った。何よりも、この親切な家族に迷惑はかけられないと。
ある朝、二人いっしょに家を出て仕事先に向かいながら、誠一がぽつりと話しかけた。
「光太。……おまえ、名前と歳と東京から来たこと以外、ほんとに何も分からんのか」
光太はびっくりしたが、少し考えてから答えた。
「……はい。でも、ここに来てからのことは、みんな覚えています」
誠一はしばらく黙って歩いていたが、やがて明るく笑って言った。
「それならいい……。人間、今をちゃんと生きてりゃ十分だ」
また、別の日には、前よりも真剣な顔でこう言った。
「もし、何か……だれにも言えないことがあるなら、わしには話していいからな」
光太は、驚いたように誠一を見た。
「……ありがとうございます。でも、今はまだ……」
誠一はうなずいた。
「無理には聞かん。ただな、黙っていても分かるもんだ。家族ってのはな」
光太はその言葉に、まぶたが熱くなるのを感じた。
千代子には、光太の服や靴が、今まで見たことのない物だったのが不思議だった。
「これは……化学せんいと言って……東京のある工場で作られているんです……と思います……まだ、そんなに広まってはいないですけど……」
しどろもどろでふし目がちに答える光太に、千代子はそれ以上尋ねることはしなかった。生まれてすぐに亡くなった長男への思いが重なっていたのだろうか……。
ある日、たまたま二人だけになったとき、千代子がお茶をいれてくれた。
「光太、こっちの暮らしにはもう慣れた?」
「はい、だいぶ……。でも、お、かあさん。ぼく、まだここに居てもいいんでしょうか……」
千代子は湯飲みをさし出しながら、静かに言った。
「いいに決まってる……。あなたがここに居てくれるのがうれしいのよ、わたしたちは」
ゆっくり大きく息を吸って光太が言った。
「……ぼく、いつかは帰る日が来るかもしれなくて……」
「その日が来るまで……それまでの間は家族でいましょう。……ね」
お茶をすする湯飲みの向こうに千代子のやさしい笑顔があった。光太は口を強く結んでうなずいた。
澪子は、光太が未来の国から来た人なんだと感じていた。理屈を知らない子どもだからこそ見抜ける真実というものが、あるのかもしれない……。彼女には、服や靴以上に、あの銀色に光るペンが、今の世界の物とは思えなかった。
「おにいちゃん、そのペンすごい。赤いインクも出るし、鉛筆にもなるって魔法みたい」
「あ、これはちょっと、特別なやつだから……」
「未来の道具?」
「まさか……」
どぎまぎして目をそらす光太を見て、澪子はやっぱりそうだと思った。あのペンは、本当は今と未来をつなぐための道具なんだと。
ただ、それをはっきり言うのは怖かった。光太が、自分たちとまったく別の世界の人だとは思いたくなかった。
光太は、身に着けていたボールペンを、自分用に空けてもらったタンスの引き出しにしまった。
「ねえ、おにいちゃん。戦争が終わった未来って、どうなるかな……」
長いまつ毛を上げ、澄んだひとみで見上げる澪子に光太は口ごもった。大人を信じきっているひとみだった。現代の環境破壊や核兵器の競争、世界でくり返されている争いの話などとてもできなかった。
「澪が大人になるころの日本は、とっても豊かで平和な国になると思うよ」
そう答えると、澪子は「ほっ」と息をついて、夢みるように言った。
「早く戦争が終わるといいな」
そんな日々が重なるにつれて、光太はしだいに自分の運命を受け入れ、ここで精いっぱい生きようと思うようになった。
「きっといつか帰る日は来る。でもその時までは、ここで、一生懸命……」
四月の終わり。牛蛙の野太い声がひびいていた。
