どれくらいたったのだろう。
猛獣のうなり声のような不気味な音が空気を震わせていた。ザーザーと何かが落ちてくる音が聞こえる。雨は止んでいたから雨の音ではない。空が赤く染まり、その中を黒い金属のかたまりが雨のように降っていた。夜の町が燃えていた。
トンネルの中で気を失っていた光太をだれかが強い力で抱え上げた。その人はそのまま肩にかついで、入り口の近くに座っていた家族の横に運んで寝かせた。
トンネルにはほかにもいくつかの家族が避難していたが、夜までの雨のせいか、いつもより少なかった。
「しっかりしろ、兄ちゃん!」
泥にまみれた男が声をかけた。老人というにはまだ若い岩永誠一(いわながせいいち)という人だった。そのそばにはやさしそうな女性、誠一の娘の千代子(ちよこ)と、孫娘で九才の澪子がいた。
誠一は二人を避難させると、消火活動のために一度町に下りたが、道が燃えていて進めなかった。そのとき反対側の入り口から入って来たので、倒れている光太に気がついたのだ。
「この人、熱がある……」
光太の顔にそっと手を触れて澪子が言った。澪子は、ときどきひびく大きな音に首をすくめながらも、水筒の水で手ぬぐいをぬらして光太の額に当てた。
光太は一度目を開けたが、何が起きているのか分からないままにまた意識が遠のいていった。
熱い夜が明けた。
港を挟んだ反対側の町のあちこちでまだ煙が出ていたが、こちら側の誠一の家は無事だった。光太は誠一に背負われて家まで連れて行かれた。
やがて気がついた光太に誠一が言った。
「この辺で見かけないかっこうだが、どこから来たのかい?」
「東京から来ました」
「東京?……東京……ひどい空襲があったと聞いたが……。焼け出されたのか……。東京のどこだ?」
「住所は……まだ正確には覚えてませんが、……文京区の……あ、東京ドームの近くでした」
「東京どうむ? 何だ、それは。……それで、こっちにはいつ来た?」
「きのうの午後……」
「何日もかかったろう……東京をいつ出た?」
「きのうの朝です」
「はあ? ……おまえさん、だいじょうぶか。名まえは言えるか? 歳は?」
「城山(しろやま)光太と言います。十五です」
光太は体を起こすと、大きく息を吸い、言葉を切って尋ねた。
「ここは、どこですか? ぼくは、どうなったんですか?」
「あんたはトンネルの中で倒れていたんだよ。きのうはひどい空襲だったからな。覚えてないのか?」
「空襲? さっきも、空襲って……。空襲ってなんのことですか?」
「なんのことって、空襲は空襲だろ。東京は大変だったって聞いたぞ」
「そんな……。空襲って……」
光太はそう言ってまた目を閉じた。夢だと思った。夢に違いないと。怖い夢を見て、どうせ夢だからと安心して眠ったことがこれまでにもあった。
千代子と澪子が心配そうにのぞきこんでいた。誠一は二人に首を振って言った。
「けがはないようだが、どうも言うことがおかしい。頭を打ってるのかもしれんな。わしは町を見に行ってくるから、落ち着くまで休ませておくがいい」
しばらくすると、近所の婦人会の人が呼びに来て千代子も出かけた。家が焼けてしまった人たちが、いくつかの寺に分かれて泊まることになるらしい。その準備をするためだった。
一人残った澪子は、時々額の手ぬぐいを井戸の水で冷やしながら、ずっと光太のそばに座っていた。
光太が目を覚ましたのは昼もかなり過ぎてからだった。そして、周りを見回して体が震えてきた。
「夢じゃなかったのか!」
半分開けられた障子の外に広がる見知らぬ風景。畳の部屋には、蛍光灯もエアコンもない。その代わりに、天井の古い電灯は黒い布でおおわれていた。いつかドラマで見た戦時中の物そっくりだった。
そして、その古い映像の中から抜け出してきたような少女――。おかっぱの髪……。格子柄のズボンは、すそがしぼってある……。
「これは、もんぺ?……こんなにくっきりした夢があるだろうか。それに、この湿った土のにおいと、物が焦げたようなにおいは……」
とまどいながら自分を見ている光太に、澪子はためらいがちにおにぎりをさし出した。千代子が置いていってくれた。
「え、いいんですか? ……ありがとう……」
半身を起こすと、光太はそれを両手で受け取って頭を下げた。
口に入れると、塩気と米の甘みが舌に広がり、喉の中をすべるようにゆっくりと落ちていった。
「こんな味、いつから忘れていたんだろう」
指先に感じる米つぶの柔らかい感触。光太の胸に熱いものがこみ上げてきた。小学生の時、一度だけ弁当に涙したことがある。その時と同じだった。
「おいしい……」
おにぎりを見つめてつぶやく光太を見て、澪子はほっとして胸がいっぱいになった。
「よかった……。おにいさん、食べてくれた」
口には出さなかったが、思わず浮かべたその笑顔が一瞬光太の不安をやわらげたようだ。
おにぎりを食べてしまうと、改まった顔をして光太が言った。
「ありがとう。……なんだか元気が出てきました」
そして、澪子をじっと見て、思いきったように口を開いた。
「ここはどこですか? なぜぼくはここにいるのかな……」
そう尋ねながら、光太は答えを聞くのが怖かった。これが夢でなく現実だとしたら……。
澪子は、これまでのことをありのままに話した。空襲で避難したトンネルで祖父が光太を見つけたこと。朝になって、祖父が背負って家まで連れてきたこと。光太がそのまま寝続けていたこと。今は祖父も母も出かけて自分一人なこと。
光太の頭は混乱し、それをしずめるかのように下を向いた。
「……雷の音を聞いた。とたんに目の前から景色が消えた。……そのあと……赤く染まった空を見たような気がした。だれかが言った。空襲だったと……そのあと……そのあと……」
頭の中でかすかな記憶がうずを巻き、やがてそれが一つの形になると、光太は澪子をじっと見つめて言った。
「もしかして、今は昭和……?」
澪子には不思議な問いだったろう。彼女は首をかしげたが、小さくうなずいた。
「昭和……何年ですか?」
「昭和二十年です。二十年の三月……」
光太は目を見開き、大きな息を吐いてまた下を向いた。
「昭和二十年……戦争が終わった年……。……七十年以上も前だ。まさか!……」
心臓が破れるように打ちだした。光太は今まで感じたことのない恐怖に襲われていた。足の下の地面がくずれ、底知れない闇の中を落ちていくような恐ろしさだった。
澪子は何か話しかけたかったが、光太の沈痛な横顔を見て言葉をのみ込んだ。そして、光太が外に出てみたいと言うので、後ろからついて歩いた。
とちゅう、泥だらけのもんぺをはいた何人かの女性とすれちがった。みんな不審そうに光太を振り向いたが足早に通り過ぎて行った。
光太は時々立ち止まっては周囲を見回し、うつむいて、泣くのをこらえているようだった。それを見ると澪子は胸が詰まって涙が頬を伝った。
「この人は、どこか遠くから来たんだ。きっと空襲でひどい目にあって、みんな忘れてしまったんだ」
ふと振り向いた光太は、澪子の涙を見てハッとした。少女がいることをすっかり忘れていた。そのことが恥ずかしくなった。
「いろいろ教えてくれてありがとう。みおさん……だよね。もう戻ろうね。おじさんやおばさんにお礼を言わないと……」
帰り道、光太は平気なふりをして、できるだけくだけた話し方をした。寝ているときに聞こえた会話で、少女の名前が「みお」であることを知っていた。本当は、「みおこ」だったが、家では「みお」と呼ばれていたから、それが名前だと思ったのだろう。
「みおさんは何年生?」
「三年生です。……あ、でも、もうすぐ四年に……」
「みおって漢字でどう書くの?」
「澪は、さんずいに、れいって書きます」
「めずらしい名前だね。どんな意味だろう……」
「海の水路のことだって、おかあさんが言ってました」
少しの間考えて、光太が言った。
「じゃあ、澪さんは海の水路みたいに、大事なものをしっかりつなぐんだね。いい名前だね」
澪子は、初めて会った人に自分の名前をほめられて、はにかんだ顔で小さく答えた。
「ありがとうございます……」
一方光太は、心の中の不安を払いのけるかのように、次々と聞いていった。
「どんな勉強が好きなの?」
「好きな食べ物は?」
「どんな本を読みたい?」
しゃべることで、本当にこれは現実なのかと、確かめているようでもあった。
「……じゃあ、好きな男の子はだれ?」
「そんな人はいません!……」
顔が赤らんできたが、澪子は光太が元気になって、たくさん話しかけてくれるのがうれしくて、少しだけおしゃべりになっている自分に気づいた。
猛獣のうなり声のような不気味な音が空気を震わせていた。ザーザーと何かが落ちてくる音が聞こえる。雨は止んでいたから雨の音ではない。空が赤く染まり、その中を黒い金属のかたまりが雨のように降っていた。夜の町が燃えていた。
トンネルの中で気を失っていた光太をだれかが強い力で抱え上げた。その人はそのまま肩にかついで、入り口の近くに座っていた家族の横に運んで寝かせた。
トンネルにはほかにもいくつかの家族が避難していたが、夜までの雨のせいか、いつもより少なかった。
「しっかりしろ、兄ちゃん!」
泥にまみれた男が声をかけた。老人というにはまだ若い岩永誠一(いわながせいいち)という人だった。そのそばにはやさしそうな女性、誠一の娘の千代子(ちよこ)と、孫娘で九才の澪子がいた。
誠一は二人を避難させると、消火活動のために一度町に下りたが、道が燃えていて進めなかった。そのとき反対側の入り口から入って来たので、倒れている光太に気がついたのだ。
「この人、熱がある……」
光太の顔にそっと手を触れて澪子が言った。澪子は、ときどきひびく大きな音に首をすくめながらも、水筒の水で手ぬぐいをぬらして光太の額に当てた。
光太は一度目を開けたが、何が起きているのか分からないままにまた意識が遠のいていった。
熱い夜が明けた。
港を挟んだ反対側の町のあちこちでまだ煙が出ていたが、こちら側の誠一の家は無事だった。光太は誠一に背負われて家まで連れて行かれた。
やがて気がついた光太に誠一が言った。
「この辺で見かけないかっこうだが、どこから来たのかい?」
「東京から来ました」
「東京?……東京……ひどい空襲があったと聞いたが……。焼け出されたのか……。東京のどこだ?」
「住所は……まだ正確には覚えてませんが、……文京区の……あ、東京ドームの近くでした」
「東京どうむ? 何だ、それは。……それで、こっちにはいつ来た?」
「きのうの午後……」
「何日もかかったろう……東京をいつ出た?」
「きのうの朝です」
「はあ? ……おまえさん、だいじょうぶか。名まえは言えるか? 歳は?」
「城山(しろやま)光太と言います。十五です」
光太は体を起こすと、大きく息を吸い、言葉を切って尋ねた。
「ここは、どこですか? ぼくは、どうなったんですか?」
「あんたはトンネルの中で倒れていたんだよ。きのうはひどい空襲だったからな。覚えてないのか?」
「空襲? さっきも、空襲って……。空襲ってなんのことですか?」
「なんのことって、空襲は空襲だろ。東京は大変だったって聞いたぞ」
「そんな……。空襲って……」
光太はそう言ってまた目を閉じた。夢だと思った。夢に違いないと。怖い夢を見て、どうせ夢だからと安心して眠ったことがこれまでにもあった。
千代子と澪子が心配そうにのぞきこんでいた。誠一は二人に首を振って言った。
「けがはないようだが、どうも言うことがおかしい。頭を打ってるのかもしれんな。わしは町を見に行ってくるから、落ち着くまで休ませておくがいい」
しばらくすると、近所の婦人会の人が呼びに来て千代子も出かけた。家が焼けてしまった人たちが、いくつかの寺に分かれて泊まることになるらしい。その準備をするためだった。
一人残った澪子は、時々額の手ぬぐいを井戸の水で冷やしながら、ずっと光太のそばに座っていた。
光太が目を覚ましたのは昼もかなり過ぎてからだった。そして、周りを見回して体が震えてきた。
「夢じゃなかったのか!」
半分開けられた障子の外に広がる見知らぬ風景。畳の部屋には、蛍光灯もエアコンもない。その代わりに、天井の古い電灯は黒い布でおおわれていた。いつかドラマで見た戦時中の物そっくりだった。
そして、その古い映像の中から抜け出してきたような少女――。おかっぱの髪……。格子柄のズボンは、すそがしぼってある……。
「これは、もんぺ?……こんなにくっきりした夢があるだろうか。それに、この湿った土のにおいと、物が焦げたようなにおいは……」
とまどいながら自分を見ている光太に、澪子はためらいがちにおにぎりをさし出した。千代子が置いていってくれた。
「え、いいんですか? ……ありがとう……」
半身を起こすと、光太はそれを両手で受け取って頭を下げた。
口に入れると、塩気と米の甘みが舌に広がり、喉の中をすべるようにゆっくりと落ちていった。
「こんな味、いつから忘れていたんだろう」
指先に感じる米つぶの柔らかい感触。光太の胸に熱いものがこみ上げてきた。小学生の時、一度だけ弁当に涙したことがある。その時と同じだった。
「おいしい……」
おにぎりを見つめてつぶやく光太を見て、澪子はほっとして胸がいっぱいになった。
「よかった……。おにいさん、食べてくれた」
口には出さなかったが、思わず浮かべたその笑顔が一瞬光太の不安をやわらげたようだ。
おにぎりを食べてしまうと、改まった顔をして光太が言った。
「ありがとう。……なんだか元気が出てきました」
そして、澪子をじっと見て、思いきったように口を開いた。
「ここはどこですか? なぜぼくはここにいるのかな……」
そう尋ねながら、光太は答えを聞くのが怖かった。これが夢でなく現実だとしたら……。
澪子は、これまでのことをありのままに話した。空襲で避難したトンネルで祖父が光太を見つけたこと。朝になって、祖父が背負って家まで連れてきたこと。光太がそのまま寝続けていたこと。今は祖父も母も出かけて自分一人なこと。
光太の頭は混乱し、それをしずめるかのように下を向いた。
「……雷の音を聞いた。とたんに目の前から景色が消えた。……そのあと……赤く染まった空を見たような気がした。だれかが言った。空襲だったと……そのあと……そのあと……」
頭の中でかすかな記憶がうずを巻き、やがてそれが一つの形になると、光太は澪子をじっと見つめて言った。
「もしかして、今は昭和……?」
澪子には不思議な問いだったろう。彼女は首をかしげたが、小さくうなずいた。
「昭和……何年ですか?」
「昭和二十年です。二十年の三月……」
光太は目を見開き、大きな息を吐いてまた下を向いた。
「昭和二十年……戦争が終わった年……。……七十年以上も前だ。まさか!……」
心臓が破れるように打ちだした。光太は今まで感じたことのない恐怖に襲われていた。足の下の地面がくずれ、底知れない闇の中を落ちていくような恐ろしさだった。
澪子は何か話しかけたかったが、光太の沈痛な横顔を見て言葉をのみ込んだ。そして、光太が外に出てみたいと言うので、後ろからついて歩いた。
とちゅう、泥だらけのもんぺをはいた何人かの女性とすれちがった。みんな不審そうに光太を振り向いたが足早に通り過ぎて行った。
光太は時々立ち止まっては周囲を見回し、うつむいて、泣くのをこらえているようだった。それを見ると澪子は胸が詰まって涙が頬を伝った。
「この人は、どこか遠くから来たんだ。きっと空襲でひどい目にあって、みんな忘れてしまったんだ」
ふと振り向いた光太は、澪子の涙を見てハッとした。少女がいることをすっかり忘れていた。そのことが恥ずかしくなった。
「いろいろ教えてくれてありがとう。みおさん……だよね。もう戻ろうね。おじさんやおばさんにお礼を言わないと……」
帰り道、光太は平気なふりをして、できるだけくだけた話し方をした。寝ているときに聞こえた会話で、少女の名前が「みお」であることを知っていた。本当は、「みおこ」だったが、家では「みお」と呼ばれていたから、それが名前だと思ったのだろう。
「みおさんは何年生?」
「三年生です。……あ、でも、もうすぐ四年に……」
「みおって漢字でどう書くの?」
「澪は、さんずいに、れいって書きます」
「めずらしい名前だね。どんな意味だろう……」
「海の水路のことだって、おかあさんが言ってました」
少しの間考えて、光太が言った。
「じゃあ、澪さんは海の水路みたいに、大事なものをしっかりつなぐんだね。いい名前だね」
澪子は、初めて会った人に自分の名前をほめられて、はにかんだ顔で小さく答えた。
「ありがとうございます……」
一方光太は、心の中の不安を払いのけるかのように、次々と聞いていった。
「どんな勉強が好きなの?」
「好きな食べ物は?」
「どんな本を読みたい?」
しゃべることで、本当にこれは現実なのかと、確かめているようでもあった。
「……じゃあ、好きな男の子はだれ?」
「そんな人はいません!……」
顔が赤らんできたが、澪子は光太が元気になって、たくさん話しかけてくれるのがうれしくて、少しだけおしゃべりになっている自分に気づいた。
