夏。
澪音は、亡くなった祖母の家で遺品整理をしていた。
文机の一番下の引き出しの中に、絹のハンカチでていねいに包まれた一冊の日記帳とボールペンがあった。
厚くない手作りの日記帳だったが、どこで手に入れたものか、和紙が麻糸でしっかり綴じてあって、八十年もたっているのに破れたり色が変わったりしていなかった。きっと宝物のように大切にあつかわれていたのだろう。
そっと開いてみると、光太という少年との出会いから別れまでが、女の子らしい細くて丸みのある字で一字一字ていねいに書いてあった。
ページの節約のためか毎日書いてあるわけではなかったが、時々小さな字でびっしり書いてあるところもあった。
知らず知らず笑みが浮かぶような楽しい話が多かった。
けれどそんな中に、所々、震えながら書いたような出来事も記されていた。
こんな内容だった。
―― 七月八日 日曜日
今日も晴れて暑い日だった。勉強が終わって畑に水とうを持って行った。おかあさんを見つけたとき、後ろで飛行機の音が聞こえた。いきなりおにいちゃんが走ってきて、わたしをかかえて道の下の畑にとび下りた。そしてわたしにかぶさった。
そのとたんにゴーッという音と、パパパパパーンッと何かがはじける音がした。アメリカの飛行機がばく音をうならせて通り過ぎていった。おかあさんがとんできて、わたしをだいて泣いたり笑ったりした。おにいちゃんが、「子どもまでうつのか! アメリカは」と、遠くに飛んでいった飛行機をにらみながら言った。
わたしはそのときになって足がふるえてきた。こわかった。でも、うれしかった。おにいちゃんが守ってくれたから。道を見たら地面にあながいっぱいあいていた。おにいちゃんがいなかったら、わたしもきっとああなっていた。――
「知らなかったな……」
ふうっと息を吐いて澪音はつぶやいた。
「こんな恐ろしいことを、笑顔しか見せなかったあのおばあちゃんが体験していたなんて……」
ほかにも、空襲では助かったのに、その時のやけどがもとで母親が亡くなった友だちのこと。
八月になって光太が警察に連れて行かれ、帰って来るまでふとんの上で震えていたことなど、悲しい出来事が書いてあった。
―― 八月二日 木曜日
おにいちゃんは、広島と長崎におそろしいばくだんが落ちるから、みんなに教えてひなんさせるように、その日は朝からサイレンを鳴らすように、どこかにうったえに行ったらしい。でもだれにも相手にされず、特高の人につかまったのだそうだ。
おかあさんに「寝てなさい」って言われたけど、ねむれなくてときどき体がふるえた。おにいちゃんはむかえに行ったおじいちゃんと二人で夜おそく帰ってきた。
おにいちゃんのはれた顔と、おじいちゃんのやつれた顔を見て、ふすまのかげで泣いた。――
鼻がつんとして目がしらが熱くなった。祖母の悲しみと「おにいちゃん」の苦しみが同時に押し寄せ、澪音の胸に沁み込んだ。その数日後、広島と長崎に原子爆弾が落とされたのだ。
最後に書いてあったのが、光太と別れた日の出来事だった。日付けはなく、そこで日記は終わっていた。そこだけはペンで書かれた字だった。
――友だちと遊んでいたら、空が割れるような大きな音がした。心配になって走って家に帰ったらだれもいなかった。すぐにトンネルに行ったらおかあさんがいて、おにいちゃんを探していた。それからおじいちゃんが来て、けいさつや町の人たちもいっぱい来て、みんなで夜中まで探した。
だけど、おにいちゃんは見つからなかった。わたしもおかあさんも泣いた。おじいちゃんが外でなみだをふいていた。
おにいちゃんが、ぶじに未来に帰れていますように。――
いくつかの文字がにじんでぼやけていた。そして同じページに、細長い紙切れがていねいにはってあった。
「だいじょうぶ。澪ならできるよ。 兄」と書いてあった。
日記から目を離すと、澪音はぬれた目のままぼんやりと庭をながめ、やがてなつかしそうにボールペンを手に取った。なめらかで、重みがあって、少しも古びていない。
じっと見ていると祖母と過ごした遠い日がありありとよみがえってくる――。
この縁側で、祖母はよくこう言った。
「このペンはね、未来から来た人の物なの。その人はいつもわたしを守って、いつもわたしに勇気をくれた人なのよ」
そして、冗談のように笑ってつけ加えた。
「だからね。あなたが大人になって、もしこのペンの持ち主だった人に出会ったら、迷わず結婚しなさい」
その声は夢見るように明るくて、
「もしももしもの話だけどねえ……」
ため息とともに小さくなっていったけれど――。
澪音は、祖母の話をいつもおとぎ話のように聞いていた。聞くだけで楽しかった。ただ、六年生になって、一度だけ尋ねたことがあった。
「名前は? おばあちゃん、その人の名前」
「光太……。城山光太っていう人よ。おばあちゃんたちが一番苦しかったときに来てくれた人……」
そのとき澪音は、その城山光太という名前をどこかで聞いたような気がした。
「そうだ。去年真理ちゃんと行った運動会。たしかシロヤマ君って、放送で言ってたっけ…。いっしょの名字の人なんだ……」
そう思ったけれど、そのときは、それ以上は考えなかった。
「本当に、おにいちゃんは未来から来た人だった……」
あの日、祖母はボールペンを見つめ、かみしめるように言った。
今そのボールペンをにぎり、祖母との会話がはっきりとよみがえったとき、胸の奥が静かに波立つのを澪音は感じた。
「おとぎ話じゃなかったんだ……。城山光太っていう人は、ほんとにいたんだ……おばあちゃんといっしょに」
澪音は、亡くなった祖母の家で遺品整理をしていた。
文机の一番下の引き出しの中に、絹のハンカチでていねいに包まれた一冊の日記帳とボールペンがあった。
厚くない手作りの日記帳だったが、どこで手に入れたものか、和紙が麻糸でしっかり綴じてあって、八十年もたっているのに破れたり色が変わったりしていなかった。きっと宝物のように大切にあつかわれていたのだろう。
そっと開いてみると、光太という少年との出会いから別れまでが、女の子らしい細くて丸みのある字で一字一字ていねいに書いてあった。
ページの節約のためか毎日書いてあるわけではなかったが、時々小さな字でびっしり書いてあるところもあった。
知らず知らず笑みが浮かぶような楽しい話が多かった。
けれどそんな中に、所々、震えながら書いたような出来事も記されていた。
こんな内容だった。
―― 七月八日 日曜日
今日も晴れて暑い日だった。勉強が終わって畑に水とうを持って行った。おかあさんを見つけたとき、後ろで飛行機の音が聞こえた。いきなりおにいちゃんが走ってきて、わたしをかかえて道の下の畑にとび下りた。そしてわたしにかぶさった。
そのとたんにゴーッという音と、パパパパパーンッと何かがはじける音がした。アメリカの飛行機がばく音をうならせて通り過ぎていった。おかあさんがとんできて、わたしをだいて泣いたり笑ったりした。おにいちゃんが、「子どもまでうつのか! アメリカは」と、遠くに飛んでいった飛行機をにらみながら言った。
わたしはそのときになって足がふるえてきた。こわかった。でも、うれしかった。おにいちゃんが守ってくれたから。道を見たら地面にあながいっぱいあいていた。おにいちゃんがいなかったら、わたしもきっとああなっていた。――
「知らなかったな……」
ふうっと息を吐いて澪音はつぶやいた。
「こんな恐ろしいことを、笑顔しか見せなかったあのおばあちゃんが体験していたなんて……」
ほかにも、空襲では助かったのに、その時のやけどがもとで母親が亡くなった友だちのこと。
八月になって光太が警察に連れて行かれ、帰って来るまでふとんの上で震えていたことなど、悲しい出来事が書いてあった。
―― 八月二日 木曜日
おにいちゃんは、広島と長崎におそろしいばくだんが落ちるから、みんなに教えてひなんさせるように、その日は朝からサイレンを鳴らすように、どこかにうったえに行ったらしい。でもだれにも相手にされず、特高の人につかまったのだそうだ。
おかあさんに「寝てなさい」って言われたけど、ねむれなくてときどき体がふるえた。おにいちゃんはむかえに行ったおじいちゃんと二人で夜おそく帰ってきた。
おにいちゃんのはれた顔と、おじいちゃんのやつれた顔を見て、ふすまのかげで泣いた。――
鼻がつんとして目がしらが熱くなった。祖母の悲しみと「おにいちゃん」の苦しみが同時に押し寄せ、澪音の胸に沁み込んだ。その数日後、広島と長崎に原子爆弾が落とされたのだ。
最後に書いてあったのが、光太と別れた日の出来事だった。日付けはなく、そこで日記は終わっていた。そこだけはペンで書かれた字だった。
――友だちと遊んでいたら、空が割れるような大きな音がした。心配になって走って家に帰ったらだれもいなかった。すぐにトンネルに行ったらおかあさんがいて、おにいちゃんを探していた。それからおじいちゃんが来て、けいさつや町の人たちもいっぱい来て、みんなで夜中まで探した。
だけど、おにいちゃんは見つからなかった。わたしもおかあさんも泣いた。おじいちゃんが外でなみだをふいていた。
おにいちゃんが、ぶじに未来に帰れていますように。――
いくつかの文字がにじんでぼやけていた。そして同じページに、細長い紙切れがていねいにはってあった。
「だいじょうぶ。澪ならできるよ。 兄」と書いてあった。
日記から目を離すと、澪音はぬれた目のままぼんやりと庭をながめ、やがてなつかしそうにボールペンを手に取った。なめらかで、重みがあって、少しも古びていない。
じっと見ていると祖母と過ごした遠い日がありありとよみがえってくる――。
この縁側で、祖母はよくこう言った。
「このペンはね、未来から来た人の物なの。その人はいつもわたしを守って、いつもわたしに勇気をくれた人なのよ」
そして、冗談のように笑ってつけ加えた。
「だからね。あなたが大人になって、もしこのペンの持ち主だった人に出会ったら、迷わず結婚しなさい」
その声は夢見るように明るくて、
「もしももしもの話だけどねえ……」
ため息とともに小さくなっていったけれど――。
澪音は、祖母の話をいつもおとぎ話のように聞いていた。聞くだけで楽しかった。ただ、六年生になって、一度だけ尋ねたことがあった。
「名前は? おばあちゃん、その人の名前」
「光太……。城山光太っていう人よ。おばあちゃんたちが一番苦しかったときに来てくれた人……」
そのとき澪音は、その城山光太という名前をどこかで聞いたような気がした。
「そうだ。去年真理ちゃんと行った運動会。たしかシロヤマ君って、放送で言ってたっけ…。いっしょの名字の人なんだ……」
そう思ったけれど、そのときは、それ以上は考えなかった。
「本当に、おにいちゃんは未来から来た人だった……」
あの日、祖母はボールペンを見つめ、かみしめるように言った。
今そのボールペンをにぎり、祖母との会話がはっきりとよみがえったとき、胸の奥が静かに波立つのを澪音は感じた。
「おとぎ話じゃなかったんだ……。城山光太っていう人は、ほんとにいたんだ……おばあちゃんといっしょに」
