ハルソンはススッと少年に近づくと、容赦なく技をかけた。
だが、その人は、まるで風のように受け身を取った。投げられる前に相手の動きが分かっているように見える。しかも畳に落ちる音が小さい。円を描くように袴が舞い、転がってすっと立ち上がる。
ハルソンの眉がわずかに動いた。しだいに力がこもっていく。だが、少年は変わらない。どんなに強く投げられても、まるで風に吹かれるやなぎのように、静かに受けてまた戻る。
みんな準備運動を忘れ、かたずをのんで二人を見ていた。
やがて、息が上がってきたのはハルソンの方だった。
そのとき、道場の前の入り口から師範が入ってきた。
「そこまで」
低く、しかしすみずみにまで届く声がひびいた。
「力で投げるのは合気道ではない」
ハルソンは、肩で息をしながらも、すぐに頭を下げた。
少年も静かに礼を返し、何事もなかったように黙って座った。
弘樹は、ただその少年を見つめていた。痛みも恐怖も遠のいていた。
道場が静まりかえった。全員が正座し、師範の前に並んで座る。
師範は、少年を手招きしてとなりに座らせ、ゆっくりと口を開いた。
「みんなに紹介しよう。この子は青海中学三年の城山光太君。初めて見ると思うが、四年半の間、毎週土日にずっとこの道場で稽古してたんだ。でも四月から東京に住むことになってね。今日は、わたしが『受け』を頼んだから、最後に無理をして来てくれたんだよ」
その後の稽古では、弘樹は技が変わるたびに、真っ先に光太の前に座って相手になってもらった。投げたり、投げられたり。けれど、不思議なことにどちらでも、いつもの、力がぶつかるぎこちなさが薄れていた。
光太が言った。――
「……えーと、なんて言ったって、言ってたかな……」
真理は、ちょっと思い出すように、コップの水を一口飲んだ。
「そうそう、そのシロヤマさんがこう言ったんだって……合気道知らないから、間違ってたらごめんね」
「だいじょうぶ」
言いながら、澪音はいつか遠い日の、祖母の家の畳を思い出していた。
「『投げられるときは、相手の重心と力の方向を感じて動く』って。……なんか気の流れに合わせるんだって」
「気って? 空気?」
「ううん、ただの『気』って言ってた。なんか、力の流れみたいなものらしいよ」
「ふーん……」
「でね、どの技も決める時は息を吐いて、呼吸と動作を一つにするんだって」
「難しいんだね」
「うん、よく分かんないね。でも彼は、『シロヤマさんがスローモーションでやってくれて、力の向きの変わり方がとても分かりやすかった』って。ものすごくうれしそうに言うのよ」
「そうなんだ……」
澪音は、なんだか自分もいっしょに畳の上で、二人の稽古を見ているような気がしてきた。いつの間にか真理の話に引き込まれていた。
ハンバーグの最後の一切れを口に入れると、真理の話にはますますあぶらがのっていった。
――弘樹は、以前は師範の演武を見ても、どこか打ち合わせでもしたような作り物に見えたことがあった。でも今は、それが本当の技術なのだと分かった。
まるで風と遊んでいるような気持ちになった。急に上達したはずはないが、畳の上で、こんなに楽しいと思ったのは初めてだった。何かが変わった気がした。
稽古が終わっても、弘樹の気持ちは冷めなかった。光太は長いこと師範と談笑していたが、どうしても話がしたくて、道場の外で待っていた。
やがて出てきた光太に、弘樹は思い切って声をかけた。
「ハルソンに投げられて痛くなかったですか?」
「痛かったー。でも、それほどダメージはないなって思うと、なんかうれしくて」
「どうして、合気道をやってるんですか?」
弘樹の真剣な表情を見て、笑っていた光太も真面目な顔になって答えた。
「……上手に負けるためかなあ……」
「はあ?……」
弘樹は耳を疑った。自分はずっと、相手に勝つため、相手を投げるためと思って稽古してきた。でも、光太の言葉は反対だった。
口を開けたままの弘樹に、光太が言った。
「あ、これはぼくのじいちゃんの言葉なんだ。じいちゃんがよく言うんだよ。『人生、勝つときよりも負けるときが大事』だって」
「負けが……大事?」
「負けるときこそしゃんとしろってことだと思うんだけど……」
「ああ、それで、上手に負けるって……」
そう言いながらも、まだ話が見えないでいる弘樹に光太が続けた。
「人生なんて言われても分からないよ、もちろん。まだそんな生きてないし……」
「ですよね……」
「でもほら、稽古に目を向けたら、負けることって投げられることでしょ」
「はあ……まあ……」
「稽古だけでもしっかり負けようって、ずっと上手に投げられることを意識してたんだ。そしたらだんだん相手の動きに合わせられるようになって……そのうち、投げるのも楽になってた」
まるで別の世界のとびらが開いたようなひびきがあった。
「あんまりやる気のない稽古してたら、なんかこうなっちゃって……」
恥ずかしそうにまた笑う光太を見て、ほーっと力が抜けていくのを弘樹は感じた。
でも、それがどこか心地よかった。
弘樹は合気道をやめなかった。今も続けている。大学では合気道部の主将を務めているそうだ。――
すっかり話に入り込んでいた澪音に、真理の声が戻ってきた。
「『あの人は、きっと東京のどこかにいると思う。また会って、いっしょに稽古したいなあ』って、そんなこと彼が言ってたの。なんか、いい話でしょ?」
澪音は、ほほえんで「うん」とこっくりうなずいた。胸の中に、温かい風が吹いた気がした。
コーヒーをスプーンでかき混ぜながら、真理の舌はどこまでもなめらかだった。
「でもひどいと思わない?」
「ん?」
「彼がね。『おれは合気道やってるけど、きみを守れないかもな』なんて言うのよ」
「なんでだろ……」
「でしょ。そう思うよね。だから『なんでなのよ』って聞いたらね」
「なんて?」
「『弱いから』だって」
思わず「ぷっ」と澪音が笑った。
「吹くよね、やっぱり。だからわたしも笑って言ってやったの。『八年も合気道やってて何それ』って」
「そしたら?」
真理はきっとこれを言いたかったのだろう。待っていたように、にんまりと笑みを浮かべた。
「『きみを守れなくても、きみが負けるときはいっしょに負ける』って」
「すごい球……」
「ああー、ズルいよね。これってツーシーム?」
「ボールって思ったら、ググって入ってきちゃったね」
「うん、……でもちょっとキザくない?」
「いっぱい練習したのかなあ……」
「練習なんかしなくても……。わたしはストレートが好きなのに」
「きっと次は百七十キロのストレートだよ。そしたら真理ちゃん、三球見のがし三振でアウトだね」
「そうかな、来るかな……」
「来るに決まってるよ。真理ちゃん、すてきだもん」
そう言われて真理は満足げに目をつぶったが、すぐにハッとして目を開いた。
「今日は澪音ちゃんを励ますつもりの食事だったのでは? ……話を聞くつもりだったのに聞かせてしまった。ああ、またやっちゃった……」
そんな顔だった。
「ごめんね。わたしばっかりしゃべって」
「ぜんぜん。楽しいよ、真理ちゃんの話」
真理は恥ずかしそうに姿勢を正すと、気づかうように澪音を見つめて言った。
「澪音ちゃんも彼氏つくったら? ……大学、出会いあるでしょ。合コンとかはないの? 絶対、元気出るって。てか、元気出さないと」
「うん、そうだね」
澪音は笑ってみせたが、そんなことを、今まで考えてもいなかったことに気がついた。
あんなにまでして、自分を東京の大学に送り出してくれた祖母。その思いに報いるためにしっかり勉強しよう。その気持ちが強くて、恋愛に思いをはせることなどなかったのだろう。
でも、真理の話は心の片すみに残った。
幸せそうに話す彼女の笑顔を見ていると、確かに、何か温かいものが胸に灯るような気がした。
「また会おうね」
お互いに笑顔で手を振って別れた後、澪音はまた一人の夜を迎えていた。
でもその夜は、故郷の友の明るい恋バナが、移り香のようにいつまでも、澪音の心をほんのりと熱くしていた。
彼女は、ゆったりとお風呂に入り、明日の大学の予定を確認すると、早めにベッドに入った。
目をつぶると、心地よい疲れの中で真理の言葉が浮かんできた。
「わたしの彼氏って……。どこかにいるのかな、そんな人……」
そうつぶやいたとき、ふと、子どものころの祖母との会話を思い出した。
「あれ?……そういえば……おばあちゃんが言ってた人もたしか、シロヤマコウタって名前じゃなかったっけ……。未来から来た人だったって……」
少しだけ胸が高鳴るような気がしたが、
「でもあれは、おばあちゃんのおとぎ話……。同じ人なんてありえないよね、タイムマシンなんてあるわけないもの……。たまたま偶然に、同じ名前なのかな……それもすごいけど…………」
そんなことを思いながら、だんだんと深い眠りに落ちていった。
だが、その人は、まるで風のように受け身を取った。投げられる前に相手の動きが分かっているように見える。しかも畳に落ちる音が小さい。円を描くように袴が舞い、転がってすっと立ち上がる。
ハルソンの眉がわずかに動いた。しだいに力がこもっていく。だが、少年は変わらない。どんなに強く投げられても、まるで風に吹かれるやなぎのように、静かに受けてまた戻る。
みんな準備運動を忘れ、かたずをのんで二人を見ていた。
やがて、息が上がってきたのはハルソンの方だった。
そのとき、道場の前の入り口から師範が入ってきた。
「そこまで」
低く、しかしすみずみにまで届く声がひびいた。
「力で投げるのは合気道ではない」
ハルソンは、肩で息をしながらも、すぐに頭を下げた。
少年も静かに礼を返し、何事もなかったように黙って座った。
弘樹は、ただその少年を見つめていた。痛みも恐怖も遠のいていた。
道場が静まりかえった。全員が正座し、師範の前に並んで座る。
師範は、少年を手招きしてとなりに座らせ、ゆっくりと口を開いた。
「みんなに紹介しよう。この子は青海中学三年の城山光太君。初めて見ると思うが、四年半の間、毎週土日にずっとこの道場で稽古してたんだ。でも四月から東京に住むことになってね。今日は、わたしが『受け』を頼んだから、最後に無理をして来てくれたんだよ」
その後の稽古では、弘樹は技が変わるたびに、真っ先に光太の前に座って相手になってもらった。投げたり、投げられたり。けれど、不思議なことにどちらでも、いつもの、力がぶつかるぎこちなさが薄れていた。
光太が言った。――
「……えーと、なんて言ったって、言ってたかな……」
真理は、ちょっと思い出すように、コップの水を一口飲んだ。
「そうそう、そのシロヤマさんがこう言ったんだって……合気道知らないから、間違ってたらごめんね」
「だいじょうぶ」
言いながら、澪音はいつか遠い日の、祖母の家の畳を思い出していた。
「『投げられるときは、相手の重心と力の方向を感じて動く』って。……なんか気の流れに合わせるんだって」
「気って? 空気?」
「ううん、ただの『気』って言ってた。なんか、力の流れみたいなものらしいよ」
「ふーん……」
「でね、どの技も決める時は息を吐いて、呼吸と動作を一つにするんだって」
「難しいんだね」
「うん、よく分かんないね。でも彼は、『シロヤマさんがスローモーションでやってくれて、力の向きの変わり方がとても分かりやすかった』って。ものすごくうれしそうに言うのよ」
「そうなんだ……」
澪音は、なんだか自分もいっしょに畳の上で、二人の稽古を見ているような気がしてきた。いつの間にか真理の話に引き込まれていた。
ハンバーグの最後の一切れを口に入れると、真理の話にはますますあぶらがのっていった。
――弘樹は、以前は師範の演武を見ても、どこか打ち合わせでもしたような作り物に見えたことがあった。でも今は、それが本当の技術なのだと分かった。
まるで風と遊んでいるような気持ちになった。急に上達したはずはないが、畳の上で、こんなに楽しいと思ったのは初めてだった。何かが変わった気がした。
稽古が終わっても、弘樹の気持ちは冷めなかった。光太は長いこと師範と談笑していたが、どうしても話がしたくて、道場の外で待っていた。
やがて出てきた光太に、弘樹は思い切って声をかけた。
「ハルソンに投げられて痛くなかったですか?」
「痛かったー。でも、それほどダメージはないなって思うと、なんかうれしくて」
「どうして、合気道をやってるんですか?」
弘樹の真剣な表情を見て、笑っていた光太も真面目な顔になって答えた。
「……上手に負けるためかなあ……」
「はあ?……」
弘樹は耳を疑った。自分はずっと、相手に勝つため、相手を投げるためと思って稽古してきた。でも、光太の言葉は反対だった。
口を開けたままの弘樹に、光太が言った。
「あ、これはぼくのじいちゃんの言葉なんだ。じいちゃんがよく言うんだよ。『人生、勝つときよりも負けるときが大事』だって」
「負けが……大事?」
「負けるときこそしゃんとしろってことだと思うんだけど……」
「ああ、それで、上手に負けるって……」
そう言いながらも、まだ話が見えないでいる弘樹に光太が続けた。
「人生なんて言われても分からないよ、もちろん。まだそんな生きてないし……」
「ですよね……」
「でもほら、稽古に目を向けたら、負けることって投げられることでしょ」
「はあ……まあ……」
「稽古だけでもしっかり負けようって、ずっと上手に投げられることを意識してたんだ。そしたらだんだん相手の動きに合わせられるようになって……そのうち、投げるのも楽になってた」
まるで別の世界のとびらが開いたようなひびきがあった。
「あんまりやる気のない稽古してたら、なんかこうなっちゃって……」
恥ずかしそうにまた笑う光太を見て、ほーっと力が抜けていくのを弘樹は感じた。
でも、それがどこか心地よかった。
弘樹は合気道をやめなかった。今も続けている。大学では合気道部の主将を務めているそうだ。――
すっかり話に入り込んでいた澪音に、真理の声が戻ってきた。
「『あの人は、きっと東京のどこかにいると思う。また会って、いっしょに稽古したいなあ』って、そんなこと彼が言ってたの。なんか、いい話でしょ?」
澪音は、ほほえんで「うん」とこっくりうなずいた。胸の中に、温かい風が吹いた気がした。
コーヒーをスプーンでかき混ぜながら、真理の舌はどこまでもなめらかだった。
「でもひどいと思わない?」
「ん?」
「彼がね。『おれは合気道やってるけど、きみを守れないかもな』なんて言うのよ」
「なんでだろ……」
「でしょ。そう思うよね。だから『なんでなのよ』って聞いたらね」
「なんて?」
「『弱いから』だって」
思わず「ぷっ」と澪音が笑った。
「吹くよね、やっぱり。だからわたしも笑って言ってやったの。『八年も合気道やってて何それ』って」
「そしたら?」
真理はきっとこれを言いたかったのだろう。待っていたように、にんまりと笑みを浮かべた。
「『きみを守れなくても、きみが負けるときはいっしょに負ける』って」
「すごい球……」
「ああー、ズルいよね。これってツーシーム?」
「ボールって思ったら、ググって入ってきちゃったね」
「うん、……でもちょっとキザくない?」
「いっぱい練習したのかなあ……」
「練習なんかしなくても……。わたしはストレートが好きなのに」
「きっと次は百七十キロのストレートだよ。そしたら真理ちゃん、三球見のがし三振でアウトだね」
「そうかな、来るかな……」
「来るに決まってるよ。真理ちゃん、すてきだもん」
そう言われて真理は満足げに目をつぶったが、すぐにハッとして目を開いた。
「今日は澪音ちゃんを励ますつもりの食事だったのでは? ……話を聞くつもりだったのに聞かせてしまった。ああ、またやっちゃった……」
そんな顔だった。
「ごめんね。わたしばっかりしゃべって」
「ぜんぜん。楽しいよ、真理ちゃんの話」
真理は恥ずかしそうに姿勢を正すと、気づかうように澪音を見つめて言った。
「澪音ちゃんも彼氏つくったら? ……大学、出会いあるでしょ。合コンとかはないの? 絶対、元気出るって。てか、元気出さないと」
「うん、そうだね」
澪音は笑ってみせたが、そんなことを、今まで考えてもいなかったことに気がついた。
あんなにまでして、自分を東京の大学に送り出してくれた祖母。その思いに報いるためにしっかり勉強しよう。その気持ちが強くて、恋愛に思いをはせることなどなかったのだろう。
でも、真理の話は心の片すみに残った。
幸せそうに話す彼女の笑顔を見ていると、確かに、何か温かいものが胸に灯るような気がした。
「また会おうね」
お互いに笑顔で手を振って別れた後、澪音はまた一人の夜を迎えていた。
でもその夜は、故郷の友の明るい恋バナが、移り香のようにいつまでも、澪音の心をほんのりと熱くしていた。
彼女は、ゆったりとお風呂に入り、明日の大学の予定を確認すると、早めにベッドに入った。
目をつぶると、心地よい疲れの中で真理の言葉が浮かんできた。
「わたしの彼氏って……。どこかにいるのかな、そんな人……」
そうつぶやいたとき、ふと、子どものころの祖母との会話を思い出した。
「あれ?……そういえば……おばあちゃんが言ってた人もたしか、シロヤマコウタって名前じゃなかったっけ……。未来から来た人だったって……」
少しだけ胸が高鳴るような気がしたが、
「でもあれは、おばあちゃんのおとぎ話……。同じ人なんてありえないよね、タイムマシンなんてあるわけないもの……。たまたま偶然に、同じ名前なのかな……それもすごいけど…………」
そんなことを思いながら、だんだんと深い眠りに落ちていった。
