令和七年 五月。
朝の光が、レースのカーテン越しにやわらかくさし込んでいた。
大学生になった澪音は、クローゼットの前に立って数枚の服を見つめていた。春用のスカートは三枚。白のブラウスは、去年の春に買ったものと、きのう何軒か店を回って見つけたもの。
今日は上下とも新しい方にするつもりだ。
鏡の前に立ち、ブラウスのリボンを結ぶ。そで口のフリルが、手首の動きに合わせて小さく揺れた。
「……いいよね、これで」
鏡の中の自分にそっと尋ねる。飾り気はないけれど、春の光に合うように、精いっぱい選んだ衣装だった。
大学は勉強する所と割り切っていたから、服装は気にしないでいた。
祖母が亡くなって間もないのに、おしゃれをする気持ちにはなれなかった。
ただ、今日は久しぶりに、「お出かけ」の気分になっていた。
三日前、一年早く東京に来ていた真理が、澪音に会いたいとメールをくれた。
お葬式で、澪音の落ち込みようを見ていた真理は、なんとかして元気づけたいと思ったのだろう。
今日は東京暮らしの先輩として、いろんな話を聞いてあげようと思ったようだった。
駅の近くのレストランで会うことになった。早めに着いた澪音は、窓ぎわの席で水の入ったコップを両手で包むように持ちながら、行きかう人をぼんやりとながめていた。
笑い合う顔の両端で揺れるイヤリング。華やかな都会のおしゃれに身を包んだ若い子たちが、きらきらした光をまき散らしながら流れるように過ぎていく。
「やっぱりすごいな、東京は」
澪音はそっと自分の姿を確かめた。
ブラウスの下には薄青のギャザースカート。足元のストラップシューズといっしょに、一月前入学式で上京した父が、新生活用にと買ってくれたものだ。
起きてすぐとかした髪は耳の後ろをゆるく流れ、肩で分かれてその一筋がそっとリボンに寄っている。耳元に飾りは何もないけれど、それが一番自分らしかった。
「これがわたし。……これでいい……」
澪音は、ちょっと緊張している自分にふと気づいて、クスっと小さく笑った。
「え? それで十分って? おばあちゃん」
そうつぶやいて、横に置いていたキャンバス地のバッグを開ける。
内ポケットに、いつも入れている小さなハンカチがあった。白地に、淡い色のすみれの刺繍が一つ。祖母が病院で作ってくれたものだ。
それをそっとにぎりしめると、いつでも不思議と心が落ち着いた。
そのとき、真理が手を振りながら明るい声でやってきた。
「澪音ちゃん、久しぶり」
シャツ風の短いジャケットに、タイトスカート。足元は厚底のスニーカーで、耳には銀色のイヤーカフが光っている。都会の空気をそのまま運んできたような装いだった。
「待ったでしょ。ごめんね」
「ううん、そんな待ってないよ。それに外を見てるとちっとも退屈しないから……」
「澪音ちゃん、春っぽいね、その衣装。かわいい」
「えっ、……ありがと」
澪音は少し照れながら、スカートをそっと指でつまんだ。
真理のように華やかにはなれないけれど、自分なりに選んだ服をほめられて、ふんわり温かい気持ちになった。
真理はメニューを開きながら、ちらりと澪音の表情をうかがった。
「東京、慣れた?」
「大学はとっても楽しいよ。だって、好きな勉強を好きなだけできるし」
「澪音ちゃんは勉強家だもんねー」
「違うの。興味ない科目は取らなくてもすむからっていうこと」
「あ、それなら分かる。取りたくないのが多過ぎるのが問題だけどね、わたしの場合は」
真理が笑って肩をすくめる。
「でも、電車の混雑とか、夜の街とか……まだちょっと怖い」
「そうそう。それも分かる。わたしも最初、外出するたび立ちつくしたよ。だってどんな知らない駅で降りても、そこも都会なんだもん。どこもかしこも人ばかり」
澪音の口元がふっとゆるんだ。
「……真理ちゃんは、変わってないね」
「え、どっちの意味で? いい方? 悪い方?」
「もちろん、いい意味で」
「よかったー。今日はいっぱいおしゃべりしよ。澪音ちゃんの好きなやつ、頼んでね」
食事中も真理の明るさは変わらなかった。彼氏の話をしたくてたまらない様子だった。
「でね、その先輩がさ、今は同じ大学で、しかも同じ学部なんだよ。びっくりじゃない?」
真理はハンバーグを一口食べると、目を輝かせて続けた。
「中学のときは、ちょっと近寄れないくらい無口だったのに、今はめっちゃしゃべるし、笑うし……。ほんと、男って変わるもんなんだね」
澪音は、フォークでサラダのトマトをそっと刺しながらうなずいた。
「ふーん、そうなんだ……」
「この前なんてさ、わたしがちょっと沈んでたら、アパートのドアをコンコンって。スーパーで大きなどら焼き買ってきてさ。もう、……わたし、ドラえもんに見えるの?」
澪音がクスクス笑うと、
「でもね、そのあと、『甘い物食べたら元気出るって言ってたろ?』って。もう、ズルいよねあんな言葉。スライダーだよ……外れてるのに、あとで入ってくるんだから」
野球ファンの真理が変化球になぞらえてうれしそうに笑った。
「そうそう、澪音ちゃん、昔いっしょに青海(せいかい)中の運動会見に行ったよね。あのとき、棒倒しで棒に登った人がいたでしょ」
「えっと、……シリヤマさん?」
「やだ、澪音ちゃん。そっちの記憶? しっかり覚えてたんだ」
「だって、あのとき真理ちゃんが……」
「ごめんごめん、で、その彼が言うにはね……」
澪音が真っ赤になったのを見て、真理があわてて話を続けた。
「彼がね、実はそのシロヤマさんに会ってるんだよ。しかも『あの人がおれの心の先輩だ』なんて言ってるの。学校の先輩じゃないのによ」
澪音は久しぶりに昔の話を聞いて祖母との会話を思い出した。
真理はかまわずに続ける。彼の話はわたしの話。そんな熱が伝わってくる。
真理の彼氏――弘樹(ひろき)が語ったというのは、彼がまだ中学生のころのこと。こんな話だった。
――三月のある日。
弘樹は、畳の上に正座したまま、じっと視線を落としていた。両ひざのすり傷は、かさぶたになってはまたつぶれ、今日も赤くにじんでいる。
「もう、限界かもな……」
そう思うことが多かった。合気道を始めたのは中二になったばかりの春。友だちに誘われ、のこのこついて行った。「おれも強くなれるかな」そんな軽い期待があっただけ。
最初は楽だった。
呼吸法を習った。
「はい、息を吸ってーーー、その息をへその下に落として」
師範に合わせて、吸った息を下腹に落とす。
「はい、えーと、では、その……後ろの所をキュッとしめて」
そう言われたときは、思わず「え?」「どこ?」と顔を見合わせて笑ってしまったが。
受け身も、マット運動のようで楽しかった。
けれど、一年が過ぎた今、週三回の稽古のたびに気分が落ち込む。
受け身はするが、いつもドタッと落ちてあちこち痛い。技をかければ力が入ってぎこちない。
「やっぱり運動神経が鈍いから、おれには無理だ。体が硬いしな……」
そう思うことが増えていた。
しかも、最近はさらにいやなことがある。ハルソンだ。このごろ、たまにやってくる。背は高くないが、がっしりとした体格の外国人。ほんとかどうか知らないが、元プロレスラーだったという噂もあった。
ハルソンは力任せに相手を投げる。かといって自分が投げられようとはしない。悪気はないのかもしれないが手加減を知らない男だ。
彼と向き合うのは、中学二年の体にはあまりにも荷が重かった。
友だちはとうにやめていた。弘樹は、父親に「根性ないなー」と笑われたくなくて、今までやめたいと言わずにいたが、「今度こそやめる!」そう思って今日は来ていた。
最後の稽古と思っていたのに、なんとハルソンが入って来た。
壁ぎわに寄り、目を合わせないようにして稽古前の柔軟運動を始めたのだが……。
体慣らしに手ごろな相手を物色していたハルソンの視線が弘樹で止まった。
「ヘイ、ユー。カモン」
呼ばれた瞬間、胃が縮んだ。
「はい?……」
声が震えた気がする。立ち上がる足が重い。ほかの子がそっと見ている。いけにえに選ばれた羊を見るように。
畳の中央に出ていくと、すぐにハルソンの手が伸びてきた。首をつかまれて前に落とされ、起きようとするところをそのまま背中から畳にたたきつけられる。勢いで頭も打ってしまった。
「うっ」
ふらっとしたが、立ち上がるとまた投げられた。今度は右に、次は左に。肘と手首が悲鳴を上げる。
だれも止めてくれない。だれも代わってくれない。師範はまだ来ない。泣きそうになった。
そのときだった。後ろの入り口から、一人の少年が静かに入ってきた。歳は弘樹とそう変わらないように見えるから中学生だろうか。でも袴をはいているから有段者だ。
少年は無言で二人の前に進み、正座して、ハルソンに深くお辞儀をした。
「――代わってくれるのか」
弘樹は、ぼう然とその背中を見つめた。
朝の光が、レースのカーテン越しにやわらかくさし込んでいた。
大学生になった澪音は、クローゼットの前に立って数枚の服を見つめていた。春用のスカートは三枚。白のブラウスは、去年の春に買ったものと、きのう何軒か店を回って見つけたもの。
今日は上下とも新しい方にするつもりだ。
鏡の前に立ち、ブラウスのリボンを結ぶ。そで口のフリルが、手首の動きに合わせて小さく揺れた。
「……いいよね、これで」
鏡の中の自分にそっと尋ねる。飾り気はないけれど、春の光に合うように、精いっぱい選んだ衣装だった。
大学は勉強する所と割り切っていたから、服装は気にしないでいた。
祖母が亡くなって間もないのに、おしゃれをする気持ちにはなれなかった。
ただ、今日は久しぶりに、「お出かけ」の気分になっていた。
三日前、一年早く東京に来ていた真理が、澪音に会いたいとメールをくれた。
お葬式で、澪音の落ち込みようを見ていた真理は、なんとかして元気づけたいと思ったのだろう。
今日は東京暮らしの先輩として、いろんな話を聞いてあげようと思ったようだった。
駅の近くのレストランで会うことになった。早めに着いた澪音は、窓ぎわの席で水の入ったコップを両手で包むように持ちながら、行きかう人をぼんやりとながめていた。
笑い合う顔の両端で揺れるイヤリング。華やかな都会のおしゃれに身を包んだ若い子たちが、きらきらした光をまき散らしながら流れるように過ぎていく。
「やっぱりすごいな、東京は」
澪音はそっと自分の姿を確かめた。
ブラウスの下には薄青のギャザースカート。足元のストラップシューズといっしょに、一月前入学式で上京した父が、新生活用にと買ってくれたものだ。
起きてすぐとかした髪は耳の後ろをゆるく流れ、肩で分かれてその一筋がそっとリボンに寄っている。耳元に飾りは何もないけれど、それが一番自分らしかった。
「これがわたし。……これでいい……」
澪音は、ちょっと緊張している自分にふと気づいて、クスっと小さく笑った。
「え? それで十分って? おばあちゃん」
そうつぶやいて、横に置いていたキャンバス地のバッグを開ける。
内ポケットに、いつも入れている小さなハンカチがあった。白地に、淡い色のすみれの刺繍が一つ。祖母が病院で作ってくれたものだ。
それをそっとにぎりしめると、いつでも不思議と心が落ち着いた。
そのとき、真理が手を振りながら明るい声でやってきた。
「澪音ちゃん、久しぶり」
シャツ風の短いジャケットに、タイトスカート。足元は厚底のスニーカーで、耳には銀色のイヤーカフが光っている。都会の空気をそのまま運んできたような装いだった。
「待ったでしょ。ごめんね」
「ううん、そんな待ってないよ。それに外を見てるとちっとも退屈しないから……」
「澪音ちゃん、春っぽいね、その衣装。かわいい」
「えっ、……ありがと」
澪音は少し照れながら、スカートをそっと指でつまんだ。
真理のように華やかにはなれないけれど、自分なりに選んだ服をほめられて、ふんわり温かい気持ちになった。
真理はメニューを開きながら、ちらりと澪音の表情をうかがった。
「東京、慣れた?」
「大学はとっても楽しいよ。だって、好きな勉強を好きなだけできるし」
「澪音ちゃんは勉強家だもんねー」
「違うの。興味ない科目は取らなくてもすむからっていうこと」
「あ、それなら分かる。取りたくないのが多過ぎるのが問題だけどね、わたしの場合は」
真理が笑って肩をすくめる。
「でも、電車の混雑とか、夜の街とか……まだちょっと怖い」
「そうそう。それも分かる。わたしも最初、外出するたび立ちつくしたよ。だってどんな知らない駅で降りても、そこも都会なんだもん。どこもかしこも人ばかり」
澪音の口元がふっとゆるんだ。
「……真理ちゃんは、変わってないね」
「え、どっちの意味で? いい方? 悪い方?」
「もちろん、いい意味で」
「よかったー。今日はいっぱいおしゃべりしよ。澪音ちゃんの好きなやつ、頼んでね」
食事中も真理の明るさは変わらなかった。彼氏の話をしたくてたまらない様子だった。
「でね、その先輩がさ、今は同じ大学で、しかも同じ学部なんだよ。びっくりじゃない?」
真理はハンバーグを一口食べると、目を輝かせて続けた。
「中学のときは、ちょっと近寄れないくらい無口だったのに、今はめっちゃしゃべるし、笑うし……。ほんと、男って変わるもんなんだね」
澪音は、フォークでサラダのトマトをそっと刺しながらうなずいた。
「ふーん、そうなんだ……」
「この前なんてさ、わたしがちょっと沈んでたら、アパートのドアをコンコンって。スーパーで大きなどら焼き買ってきてさ。もう、……わたし、ドラえもんに見えるの?」
澪音がクスクス笑うと、
「でもね、そのあと、『甘い物食べたら元気出るって言ってたろ?』って。もう、ズルいよねあんな言葉。スライダーだよ……外れてるのに、あとで入ってくるんだから」
野球ファンの真理が変化球になぞらえてうれしそうに笑った。
「そうそう、澪音ちゃん、昔いっしょに青海(せいかい)中の運動会見に行ったよね。あのとき、棒倒しで棒に登った人がいたでしょ」
「えっと、……シリヤマさん?」
「やだ、澪音ちゃん。そっちの記憶? しっかり覚えてたんだ」
「だって、あのとき真理ちゃんが……」
「ごめんごめん、で、その彼が言うにはね……」
澪音が真っ赤になったのを見て、真理があわてて話を続けた。
「彼がね、実はそのシロヤマさんに会ってるんだよ。しかも『あの人がおれの心の先輩だ』なんて言ってるの。学校の先輩じゃないのによ」
澪音は久しぶりに昔の話を聞いて祖母との会話を思い出した。
真理はかまわずに続ける。彼の話はわたしの話。そんな熱が伝わってくる。
真理の彼氏――弘樹(ひろき)が語ったというのは、彼がまだ中学生のころのこと。こんな話だった。
――三月のある日。
弘樹は、畳の上に正座したまま、じっと視線を落としていた。両ひざのすり傷は、かさぶたになってはまたつぶれ、今日も赤くにじんでいる。
「もう、限界かもな……」
そう思うことが多かった。合気道を始めたのは中二になったばかりの春。友だちに誘われ、のこのこついて行った。「おれも強くなれるかな」そんな軽い期待があっただけ。
最初は楽だった。
呼吸法を習った。
「はい、息を吸ってーーー、その息をへその下に落として」
師範に合わせて、吸った息を下腹に落とす。
「はい、えーと、では、その……後ろの所をキュッとしめて」
そう言われたときは、思わず「え?」「どこ?」と顔を見合わせて笑ってしまったが。
受け身も、マット運動のようで楽しかった。
けれど、一年が過ぎた今、週三回の稽古のたびに気分が落ち込む。
受け身はするが、いつもドタッと落ちてあちこち痛い。技をかければ力が入ってぎこちない。
「やっぱり運動神経が鈍いから、おれには無理だ。体が硬いしな……」
そう思うことが増えていた。
しかも、最近はさらにいやなことがある。ハルソンだ。このごろ、たまにやってくる。背は高くないが、がっしりとした体格の外国人。ほんとかどうか知らないが、元プロレスラーだったという噂もあった。
ハルソンは力任せに相手を投げる。かといって自分が投げられようとはしない。悪気はないのかもしれないが手加減を知らない男だ。
彼と向き合うのは、中学二年の体にはあまりにも荷が重かった。
友だちはとうにやめていた。弘樹は、父親に「根性ないなー」と笑われたくなくて、今までやめたいと言わずにいたが、「今度こそやめる!」そう思って今日は来ていた。
最後の稽古と思っていたのに、なんとハルソンが入って来た。
壁ぎわに寄り、目を合わせないようにして稽古前の柔軟運動を始めたのだが……。
体慣らしに手ごろな相手を物色していたハルソンの視線が弘樹で止まった。
「ヘイ、ユー。カモン」
呼ばれた瞬間、胃が縮んだ。
「はい?……」
声が震えた気がする。立ち上がる足が重い。ほかの子がそっと見ている。いけにえに選ばれた羊を見るように。
畳の中央に出ていくと、すぐにハルソンの手が伸びてきた。首をつかまれて前に落とされ、起きようとするところをそのまま背中から畳にたたきつけられる。勢いで頭も打ってしまった。
「うっ」
ふらっとしたが、立ち上がるとまた投げられた。今度は右に、次は左に。肘と手首が悲鳴を上げる。
だれも止めてくれない。だれも代わってくれない。師範はまだ来ない。泣きそうになった。
そのときだった。後ろの入り口から、一人の少年が静かに入ってきた。歳は弘樹とそう変わらないように見えるから中学生だろうか。でも袴をはいているから有段者だ。
少年は無言で二人の前に進み、正座して、ハルソンに深くお辞儀をした。
「――代わってくれるのか」
弘樹は、ぼう然とその背中を見つめた。
