トンネルの向こうからさしこむ光の中で


 列車の窓の外を、冬枯れた田園風景が流れていく。
 澪音は窓にうつる自分の顔をぼんやりとながめながら、胸の底に沈んでいく重たいものを感じていた。

 東京の大学の入学試験に向かったのは四日前だった。そのときは張りつめた緊張感と不安の中にも、胸の底には輝く光があった。
 今は、それとは正反対の深い悲しみと重たい疲れだけがあった。

「おばあちゃんが亡くなったって……。まさか。元気そうだったのに……」

 電話の向こうの父の言葉は静かだったけれど、その静かさがかえって現実の重さを伝えていた。

 澪音はおばあちゃん子だった。一才にもならないうちに母を亡くした彼女は、小さいころから困ったことはなんでも祖母に相談した。
 そのたびに祖母は、
「だいじょうぶ。あなたは心のきれいな子だよ。澪音ならできるよ」
 となぐさめ、はげましてくれた。すると不思議なことに、どんな心配事もいつの間にか気にならないようになっていた。
 だから、何かあっても彼女はいつも安心していられた。「おばあちゃんに話してみよう」と。

 その祖母がもういない。思いたくない。
 しかし、列車は止まることなく祖母の家に向かっていた。
 
 祖母は肺がんだった。本人には知らせていなかったが、一年と三月(みつき)ほど前にがんが見つかったときに、医者が父に言ったという。
「あと一年……」

 それからしばらくして、祖母は住み慣れた家を離れて、父が選んだ病院に入院した。
 家から遠くなくて面会制限もゆるやかな病院だったから、受験前ではあったが、毎日十分でも顔を見て背中をさすってあげるのが澪音の日課になっていた。
 祖母は受験生の彼女を気づかって、
「もういいから、試験が終わってから来なさい」
 といつも言うのだが、彼女は、祖母から、
「だいじょうぶ。澪音はかしこい子だよ。東京の、あなたの選んだ大学があなたを待っているよ」
 と言われると、勉強にも元気が出るのだった。

 
 なにげなくもう一方の窓ガラスに目を向けたとき、澪音はふと、六日前の病院でのことを思い出した。
 あさっては受験に出発という日の午後。彼女はいつものように祖母に会いに行った。

 病室に入ると、いつもベッドに横になっている祖母が、その日はどうしてか窓ぎわに椅子を置いて座っていた。
「おばあちゃん、だいじょうぶ?」
 驚いて澪音が言うと、祖母は、にっこり笑った。
「このごろ、気分がいいんだよ」
 めずらしく顔にはほんのり赤みがさしていた。
「よかった。おばあちゃん、このまま元気になっていけるね」
 祖母がよくなっていきそうに思えて、背中をさする手もいつもより軽やかだった。
「さあ、あなたは勉強があるからもう行かないとね。おばあちゃんも横になるから」
 そう言われて、祖母を手伝って寝せて帰った。

 次の日も、祖母は、
「今日も気分がいいのよ。またちょっと座りたいね」
 と言って、澪音の手を借りて窓ぎわに座った。祖母はやっぱり元気そうに見えた。

 あのときは、ただそれがうれしくて深くは考えなかった。

「でも、あれはほんとだったのかな……」
 今、ハッとそう思った。
「そんなはずない――」
 
 もう何週間も、ベッドの上だけの生活だった。点滴を打ち、鼻には酸素吸入のチューブをつけていた。寝ているだけでもきつかったろうに――。

「おばあちゃんは、無理してたんだ。わたしが安心して受験に行けるように。あれはおばあちゃんのお芝居(しばい)だったんだ」
 そう気づいた瞬間、澪音の目に涙があふれた。
 列車は静かに速度を落とし始めていた。

 駅に着いたとき、空はすっかり夕暮れていた。澪音は人の流れに押されるように改札を抜け、タクシー乗り場に向かった。
 車の窓から見える街並(まちな)みは、子どものころ何度も歩いたはずなのに、どこか違う景色に見えた。

 祖母の家に着くと、玄関にはすでに親せきや近所の人たちの靴が並んでいた。そっと上がって廊下を進んだ。
 部屋の前で立ち止まると、何か気配(けはい)を察したのだろうか、障子を開けて父の伸司(しんじ)が顔を出した。
「よく来れたな、澪音。間に合ってよかった」
 ちょうど、お坊さんの読経(どきょう)が始まるところだった。彼女はうなずいて静かに中に入り、父の横に座った。

 写真の中の祖母は、いつもの笑顔だった。
 でも、その笑顔にもう会えなくなったのだと思うと、胸が締め付けられた。
 
 六日前の病室の光景がまた浮かんだ。窓ぎわに座る祖母。その背中は少しだけ小さく見えたが、元気そうだった……。
「このごろ、気分がいいんだよ」
 そう言って笑った祖母の声が、今も耳に残っている。

「あのときわたしは、ほっとして病室を出た。受験に集中しなきゃって思った。でもあれは、わたしを安心して出発させるためのお芝居だったんだ。おばあちゃんの、最後の、精いっぱいの演技だったんだ――」
 涙がまた頬を伝った。

 何週間か前、病室でいっしょになった父に、小さな声で話したことがあった。
「わたしやっぱり地元の大学でいいよ、お父さん」
「どうして。お前の勉強したいことは、こっちの大学じゃ十分にはできないだろう」
「勉強はどこでもできるよ。今はネットもあるから、たいていのことは自分でできるんだよ」
「おまえ、おばあちゃんのことを心配してるんだろう。おばあちゃんがそんなことを望んでいると思うか?」
「だって……」
 澪音は言葉に詰まった。父の言うことは正しかった。彼女は、祖母がこんな状態のときに、遠くには行けないと思っていたのだから。
 そのときの会話を祖母は聞いたのだろうか。スースーと寝息が聞こえていたから、ついそんな話をしてしまったのだが……。

「おばあちゃんは、あんな苦しいときにもわたしのことを思ってくれていた。そのやさしさに今になって気づいても、もう何も返せない――」
 
 澪音はうつむいて、泣き声がもれるのを懸命にこらえていた。