十一月。
五年三組は宿泊体験学習の話題で持ちきりだった。たった一泊二日だが、初めて友だちと寝食を共にするこの行事は、ほとんどの子どもたちにとって今年一番の楽しみだった。
今年も低学年の子が、窓から手を振ったり並んだりして見送ってくれる中を歩いてバスに向かうのだろうか。その姿を想像するだけでも、くすぐったい気分がして胸がはずむ。
もちろん、光太にも楽しみだった。が、彼には一つだけ気がかりなことがあった。一日目の昼食だけは弁当持参になっていたが、その弁当を彼は用意できなかった。
何日か前、巧に映画に誘われた。映画なんて、小学生になってからみたことがなかった。一度はみたかった「ドラえもん」や「名探偵コナン」。そのどっちかにしようと巧が言った。いっしょに映画に行くお金が無性にほしくなった。
父子家庭の小磯辺(こいそべ)君が、「お父さんは弁当を作らないからぼくはコンビニ弁当だ」と笑って言っていた。それを思い出して、母親に、
「店で買ってくる子もいるからぼくもそうしたい」
と言って弁当とおやつの代金をもらった。
胸がチクリと痛んだが、毎朝自分が起きる頃にはもう仕事に出かけようとしている母親に、「弁当を作って」と言いにくかったこともあった。「だからちょうどよかったんだ」と自分に言い訳した。
自分で弁当を作ることも考えた。が、お金をもらった以上、食べないのが当然という気がした。一食ぐらい食べなくてもなんてことないとも思った。
ただ、その時間をどう過ごすかまでは考えていなかった。
当日。
「少年自然の家」には昼前に着いた。外で入所式が終わると、すぐ昼食の時間になった。みんなは三々五々友だちと連れ立って気に入った場所に散って行った。
「よいしょっと」
川上先生がリュックを背負うと、女の子たちが声をかけた。
「先生、いっしょに食べよ」
「すまん。先生はちょっと打ち合わせがあってなあ。あっちで先生たちと食べなきゃいけないんだ」
「先生のリュック、ぱんぱん! 何が入ってるんですか?」
「やっぱり特大愛妻弁当ですよね」
「えっ、いいなあー。見たいー」
「それが、……『見せたらだめ』って言われててなあ、あー残念」
「ずるいー」という声を後ろに、先生は「はっはっはー」と笑いながら建物の方に歩いていった。
光太は巧たちといっしょだった。が、リュックを開けることなく立ち上がった。
「ちょっとトイレに行ってくるから食べてて」
そう言ってトイレに行くには行ったが――。みんなが食べ終わるまでは戻れない。といって、戻らなければ変に思われる……。
光太はいったん戻ると、
「ごめん。やっぱりちょっと具合が悪いから、先生に言ってくる」
リュックを持って宿泊棟に入って行った。割り当ての自分たちの部屋に入って、そのまま畳の上に横になった。もしだれかに見つかっても、「具合が悪い」で通そうと思った。
川上先生は、一人で食べている子がいないかとみんなの所を見て回ったが、どのグループにも光太がいないことに気がついた。
あちこち探し回って、やっと光太を見つけた。
「城山、具合が悪いのか?」
光太は、こんなに早く見つかったことにとまどいながらも、サッと起き上がった。
「はい、ちょっと頭が……」
先生は光太の額に手を当てた。
「熱はないようだがな……念のため保健の先生にみてもらおう。行くぞ」
「先生、たいしたことないですから。……少し休めば治りますから」
「しかし、午後も動き回るからな。しっかりみてもらった方がいい」
先生がそう言って、ドアの近くに置いてあった光太のリュックを持ったとき……。
「おや?」
一瞬、動きが止まった。
「着替えなどでふくらんではいる。でも、軽くないか? まだ食べてない弁当が入っているなら、もうちょっと重いはず……水筒は外に出してあるし……」
先生はハッとしたが、
「分かった。じゃあ、ゆっくり横になってろ。ひどくなったら必ず言うんだぞ」
そう言い残して出て行った。
ふうっと、光太がため息をついたのもつかの間、二分もたたないうちに先生が戻ってきた。手に何か持っていた。
「城山、ちょっと頼みがある。先生の弁当を少し食べてくれんか。まだ時間があるから、ゆっくりでいい。熱はないから少しぐらい食えるやろう」
そう言って、大きな包みを開いた。二段重ねの弁当箱が出てきた。
「いや、のろけじゃないがさ、奥さんが、一つじゃ足りないでしょうって、二人分も作ってくれてさ。食べきれんよ。……でもほら、全部食べないとせっかく作ってくれた人に悪いだろ?」
光太が何も言わないのに、先生は上の弁当箱をさし出して続けた。
「そりゃ、うれしいけどさ。先生は今からすることがあって、ゆっくり食べてられないんだよ。かといってあっちで言ったら、みんなに触られてぐちゃぐちゃになりそうでなあ。ここなら城山一人でちょうどいい。すまんが手伝ってくれんか」
先生は、光太の返事も聞かずに、
「いやー、まいったまいった。新婚もけっこう大変だぞ、城山。じゃあ頼むな。あ、箱はあとで返してもらえばいいから」
そんなに大変そうでもない声で言いながら、先生は下の弁当箱と箸箱だけ持って行ってしまった。おいしそうなおかずとご飯がちらっと見えた。
「もしかして、先生は気づいたのだろうか……」
ちらっとそんな不安がかすめたが、残された弁当箱を見て、光太のお腹がグーッと鳴った。午前の見学で動き回ってお腹がぺこぺこだった。
光太は弁当箱を手に取った。ゆっくりふたを開けて驚いた。
ご飯にはのりとグリンピースでにこにこ顔がかいてあり、その周りはすべてハートの形にくり抜いたにんじんやハムで囲まれていた。横には卵焼きや煮物、デザートのくだものがきれいにそろえて詰められていた。
こんなカラフルな、こんなやさしさいっぱいの弁当を見たことがなかった。
「この弁当は、先生の奥さんが、先生に食べてほしくて、心を込めて作ったんだ。ほんとは、ぼくが食べる弁当じゃないんだ……」
自分には食べられないとふたをしたとき、ふっと気づいた。
「なんで、箸箱があるんだろう。先生一人の分なら箸は一人分でいいのに……。それに、上にも下にもご飯とおかずがいっしょに入っている二段弁当って、なんだか変だ……」
ハッとした。「やっぱり先生は……」光太は弁当箱を見つめたまま動かなかった。急にまぶたが熱くなった。やがてまた静かにふたを取ると、ていねいに両手を合わせた。「いただきます」とつぶやいて箸をとった。
ご飯の下の方は、グリンピースの豆ご飯だった。その塩気に、にんじんや卵焼きの甘さがとけていくようだった。
「こんなおいしい弁当が……あるんだ……」
食べながら、光太の目からぽつりと涙が落ちた。
弁当がおいしくて……先生の気持ちがありがたくて……胸が熱くなっていた。ただ、その涙の中に、感謝の気持ちだけではないものが混じっていくのを光太は感じていた。
これまで光太は、おもちゃがなくても、ゲームの話に入れなくても、恥ずかしいとは思わなかった。うらやましいとも思わなかった。
でも今日は、みんなが楽しんでいるときに、こそこそ隠れなければいけなかった。
そのみじめな自分をありのままに見つめ、そんな自分に向けられたやさしさを素直に受けとったとき、胸の中を風が吹き抜けた気がした。どこかさっぱりした気持ちになった。
窮屈な殻がとれて身軽になった昆虫のように……。
そんな涙は初めてだった。
窓の外に、美しく紅葉したもみじが見えた。涙ににじんだ目に、無数の紅い葉が手を振るように揺れていた。
午後のオリエンテーリングは面白かった。みんなで作ったカレーライスはおいしかった。いっしょに入ったお風呂も、星座の観察も、夜中までのおしゃべりも、それから、次の日の自然観察をかねた登山も、すべてが初めての経験で、楽しいことばかりだった。
でも光太には、あのハートの弁当こそが、いつまでも忘れられない一番の思い出になった。
五年三組は宿泊体験学習の話題で持ちきりだった。たった一泊二日だが、初めて友だちと寝食を共にするこの行事は、ほとんどの子どもたちにとって今年一番の楽しみだった。
今年も低学年の子が、窓から手を振ったり並んだりして見送ってくれる中を歩いてバスに向かうのだろうか。その姿を想像するだけでも、くすぐったい気分がして胸がはずむ。
もちろん、光太にも楽しみだった。が、彼には一つだけ気がかりなことがあった。一日目の昼食だけは弁当持参になっていたが、その弁当を彼は用意できなかった。
何日か前、巧に映画に誘われた。映画なんて、小学生になってからみたことがなかった。一度はみたかった「ドラえもん」や「名探偵コナン」。そのどっちかにしようと巧が言った。いっしょに映画に行くお金が無性にほしくなった。
父子家庭の小磯辺(こいそべ)君が、「お父さんは弁当を作らないからぼくはコンビニ弁当だ」と笑って言っていた。それを思い出して、母親に、
「店で買ってくる子もいるからぼくもそうしたい」
と言って弁当とおやつの代金をもらった。
胸がチクリと痛んだが、毎朝自分が起きる頃にはもう仕事に出かけようとしている母親に、「弁当を作って」と言いにくかったこともあった。「だからちょうどよかったんだ」と自分に言い訳した。
自分で弁当を作ることも考えた。が、お金をもらった以上、食べないのが当然という気がした。一食ぐらい食べなくてもなんてことないとも思った。
ただ、その時間をどう過ごすかまでは考えていなかった。
当日。
「少年自然の家」には昼前に着いた。外で入所式が終わると、すぐ昼食の時間になった。みんなは三々五々友だちと連れ立って気に入った場所に散って行った。
「よいしょっと」
川上先生がリュックを背負うと、女の子たちが声をかけた。
「先生、いっしょに食べよ」
「すまん。先生はちょっと打ち合わせがあってなあ。あっちで先生たちと食べなきゃいけないんだ」
「先生のリュック、ぱんぱん! 何が入ってるんですか?」
「やっぱり特大愛妻弁当ですよね」
「えっ、いいなあー。見たいー」
「それが、……『見せたらだめ』って言われててなあ、あー残念」
「ずるいー」という声を後ろに、先生は「はっはっはー」と笑いながら建物の方に歩いていった。
光太は巧たちといっしょだった。が、リュックを開けることなく立ち上がった。
「ちょっとトイレに行ってくるから食べてて」
そう言ってトイレに行くには行ったが――。みんなが食べ終わるまでは戻れない。といって、戻らなければ変に思われる……。
光太はいったん戻ると、
「ごめん。やっぱりちょっと具合が悪いから、先生に言ってくる」
リュックを持って宿泊棟に入って行った。割り当ての自分たちの部屋に入って、そのまま畳の上に横になった。もしだれかに見つかっても、「具合が悪い」で通そうと思った。
川上先生は、一人で食べている子がいないかとみんなの所を見て回ったが、どのグループにも光太がいないことに気がついた。
あちこち探し回って、やっと光太を見つけた。
「城山、具合が悪いのか?」
光太は、こんなに早く見つかったことにとまどいながらも、サッと起き上がった。
「はい、ちょっと頭が……」
先生は光太の額に手を当てた。
「熱はないようだがな……念のため保健の先生にみてもらおう。行くぞ」
「先生、たいしたことないですから。……少し休めば治りますから」
「しかし、午後も動き回るからな。しっかりみてもらった方がいい」
先生がそう言って、ドアの近くに置いてあった光太のリュックを持ったとき……。
「おや?」
一瞬、動きが止まった。
「着替えなどでふくらんではいる。でも、軽くないか? まだ食べてない弁当が入っているなら、もうちょっと重いはず……水筒は外に出してあるし……」
先生はハッとしたが、
「分かった。じゃあ、ゆっくり横になってろ。ひどくなったら必ず言うんだぞ」
そう言い残して出て行った。
ふうっと、光太がため息をついたのもつかの間、二分もたたないうちに先生が戻ってきた。手に何か持っていた。
「城山、ちょっと頼みがある。先生の弁当を少し食べてくれんか。まだ時間があるから、ゆっくりでいい。熱はないから少しぐらい食えるやろう」
そう言って、大きな包みを開いた。二段重ねの弁当箱が出てきた。
「いや、のろけじゃないがさ、奥さんが、一つじゃ足りないでしょうって、二人分も作ってくれてさ。食べきれんよ。……でもほら、全部食べないとせっかく作ってくれた人に悪いだろ?」
光太が何も言わないのに、先生は上の弁当箱をさし出して続けた。
「そりゃ、うれしいけどさ。先生は今からすることがあって、ゆっくり食べてられないんだよ。かといってあっちで言ったら、みんなに触られてぐちゃぐちゃになりそうでなあ。ここなら城山一人でちょうどいい。すまんが手伝ってくれんか」
先生は、光太の返事も聞かずに、
「いやー、まいったまいった。新婚もけっこう大変だぞ、城山。じゃあ頼むな。あ、箱はあとで返してもらえばいいから」
そんなに大変そうでもない声で言いながら、先生は下の弁当箱と箸箱だけ持って行ってしまった。おいしそうなおかずとご飯がちらっと見えた。
「もしかして、先生は気づいたのだろうか……」
ちらっとそんな不安がかすめたが、残された弁当箱を見て、光太のお腹がグーッと鳴った。午前の見学で動き回ってお腹がぺこぺこだった。
光太は弁当箱を手に取った。ゆっくりふたを開けて驚いた。
ご飯にはのりとグリンピースでにこにこ顔がかいてあり、その周りはすべてハートの形にくり抜いたにんじんやハムで囲まれていた。横には卵焼きや煮物、デザートのくだものがきれいにそろえて詰められていた。
こんなカラフルな、こんなやさしさいっぱいの弁当を見たことがなかった。
「この弁当は、先生の奥さんが、先生に食べてほしくて、心を込めて作ったんだ。ほんとは、ぼくが食べる弁当じゃないんだ……」
自分には食べられないとふたをしたとき、ふっと気づいた。
「なんで、箸箱があるんだろう。先生一人の分なら箸は一人分でいいのに……。それに、上にも下にもご飯とおかずがいっしょに入っている二段弁当って、なんだか変だ……」
ハッとした。「やっぱり先生は……」光太は弁当箱を見つめたまま動かなかった。急にまぶたが熱くなった。やがてまた静かにふたを取ると、ていねいに両手を合わせた。「いただきます」とつぶやいて箸をとった。
ご飯の下の方は、グリンピースの豆ご飯だった。その塩気に、にんじんや卵焼きの甘さがとけていくようだった。
「こんなおいしい弁当が……あるんだ……」
食べながら、光太の目からぽつりと涙が落ちた。
弁当がおいしくて……先生の気持ちがありがたくて……胸が熱くなっていた。ただ、その涙の中に、感謝の気持ちだけではないものが混じっていくのを光太は感じていた。
これまで光太は、おもちゃがなくても、ゲームの話に入れなくても、恥ずかしいとは思わなかった。うらやましいとも思わなかった。
でも今日は、みんなが楽しんでいるときに、こそこそ隠れなければいけなかった。
そのみじめな自分をありのままに見つめ、そんな自分に向けられたやさしさを素直に受けとったとき、胸の中を風が吹き抜けた気がした。どこかさっぱりした気持ちになった。
窮屈な殻がとれて身軽になった昆虫のように……。
そんな涙は初めてだった。
窓の外に、美しく紅葉したもみじが見えた。涙ににじんだ目に、無数の紅い葉が手を振るように揺れていた。
午後のオリエンテーリングは面白かった。みんなで作ったカレーライスはおいしかった。いっしょに入ったお風呂も、星座の観察も、夜中までのおしゃべりも、それから、次の日の自然観察をかねた登山も、すべてが初めての経験で、楽しいことばかりだった。
でも光太には、あのハートの弁当こそが、いつまでも忘れられない一番の思い出になった。
