トンネルの向こうからさしこむ光の中で

 平成二十五年、十月。
 山野優芽(やまのゆめ)は、今日もゆううつだった。この時期になると、学校と晴天がうらめしくなる。
 二学期になってまもなく運動会の練習が始まった。優芽は足が遅かった。今もスタートの笛を聞くだけで、胸がドキドキしてしまう。  
 かけっこでビリになるのはもう慣れたし、お母さんたちもあきらめていて、笑ってくれるからいい。だけど四年生から始まった学級全員リレーは絶対いやだ。
 
 去年は最悪だった。一位でバトンをもらったのに、優芽の足は鉛のように重かった。抜かれて、抜かれて、離されて、そのままクラスごと沈んでいった。
 男子が、「チェッ」と舌打ちするのが聞こえ、別の子の、「あいつがいなかったら一位だったのになあ」と言う声が聞こえたときは、目の前が暗くなった。実際、顔が真っ青になって、その後の他の学年の競技など目にも耳にも入らなかった。
 
 自分がビリになるだけならいい。でも、学級全員ビリにさせてしまうのはたまらなくつらかった。それ以上ひどく責められなかったのは、
「パパがお医者で、この学校の校医さんにもなってるからかな……」
 そう思ったりした。
 
 でも、女の子たちも口には出さないが、きっと「あーあ」と思っていただろう。逆になぐさめられたとしても、それはそれでみじめなことに変わりはないが。
「この世になんで運動会なんかあるの? やりたい子だけでやればいいのに」
 いつもそう思う。その日だけは、「もう、消えていたい」と本気で思ってしまう。勉強では負けない自信があるが、足が遅いのだけはどうにもならなかった。

 ところが、今年はなんだか様子が違っていた。先生が張りきった声で言った。
「全員でやるということは、協力してやれってことだ。足の速い子と遅い子とどうやったら協力できるのかな? みんなで考えてみよう」
 教室の空気が少し変わった。でも、
「協力って言っても、足の速い子は速いし遅い子は遅い。リレーでは速い子がスターで、遅い子はみんな脇役だから……」
 そう思う子が多かった。リレーに作戦があるなんて考えもしなかった。すると、先生が、
「城山君。きみの前の学校では、何かしてなかったか?」
 と聞いた。
 優芽はびっくりしたように顔を上げた。
「え? 城山君って……」
 二学期に転校してきたばかりの子だった。いつも同じような服を着て、授業中も「はいっ」と大きく手をあげることはなく、静かな印象しかなかった。
 
 意外そうに立ち上がった城山が、
「リレーゾーンを使って、速い子は長く、遅い子は短く走れるように順番を組んでいました」
 ちょっと間をおいてそう言ったが、みんなぽかんとしていた。
「どういうこと?」
「黒板で説明して」
 城山は前に出て、黒板に大きくトラックの図をかき、リレーゾーンの線を引いた。その線を示しながらゆっくりと話した。
「なるほど。速い子はリレーゾーンの一番手前に待っていて奥のラインまで。遅い子は一番奥に待っていて手前のラインまで走れば、確かに速い子は長く、遅い子は短く走れるわけだ」
 
 先生が、全員に分かるようにもう一度説明したので、みんな感心して言った。
「いいね、それ。それで行こうよ、三組は」
「うん、それがいい」
「よし、それじゃあ先生が、リレーゾーンをもっと長くしてもらえるように、先生たちに提案するよ」
 クラス中が盛り上がってきたところで、代表委員の村田和弥(むらたかずや)が言った。
「先生、みんなの五十メートル走のタイムを見せてください」
 それを参考に、和弥が中心となって、男女の代表が走順を決めることになった。
 優芽はなんとなく、今年は今までと違う運動会になりそうな気がした。
  
 優芽の前後を、女子で一番速い鈴木希愛(すずきのあ)と男子で2番目に速い永岡巧(ながおかたくみ)が走ることになった。
 ただ、それだけでは不安なので、城山に、ほかにすることがないか尋ねた。
「バトンをもらうときは、後ろを向かずに全力で走り出すといいよ」
 希愛がある地点に来たら前を向いて全力で走りだし、もう振り向かずに手だけを後ろに出すらしい。その手の中にバトンを入れるのは希愛の役目だそうだ。よく分からないのでコーチを頼んだら引き受けてくれた。
 昼休みに優芽たちが練習しているのを見て、他の子たちもまねをして、順番の前後の子どうしでバトンタッチの練習をするようになった。先生にタイムを計ってもらうと、最初よりもずいぶん速くなっていることが分かって、ますます熱が入っていった。

 当日。
 この時期らしいさわやかな秋晴れだった。優芽の期待とはうらはらに青空がどこまでも深く続いていた。
 優芽は、いつものように徒競走ではビリだったが、チャンス走では運よく、「そのまま走れ」のカードを拾った。縄跳びや二人三脚をさせられている子たちをしり目に、なんと一位でゴールした。
 お父さんやお母さんにうんとほめられて、お弁当が今までで一番おいしかった。照れくさかったが、生まれて初めての一位はもちろんうれしくて胸がほかほかだった。
 
 午後。
 いよいよ全校注目のリレーが始まった。
 第一走者は光太だった。どのクラスも速い子をもってくるので、だれも一番手になるのを望まなかった。
「城山君が言った作戦だから、城山君ならいいんじゃない?」
 だれかが思いつきで言ったのだが、光太が断らなかったのでそのまま決まってしまった。決して自信がありそうには見えなかった。だれも引き受けないならしかたないか……。そんな感じだった。
 
 光太はスタートではビリだった。だが、前の二人がコーナーまでせり合って、外側の一組の子が大回りしてしまい、その間にしっかり一位についていって二位でバトンを渡してくれた。
 そのあとは練習の成果か、走りでリードされてもバトンタッチで追いついて、ずっと二位か、ときには一位になることもあった。みんなハラハラして自分たちの走者を目で追っていた。

「次はわたしだ」
 そう思うと、優芽は心臓がバクバクして足がガタガタ震えそうだった。どうせならビリで来れば抜かれなくてすむのに、なんで一位なのか――。
「抜かれたらまた何か言われる」
 そればっかり思っていると、
「優芽さん、もう少し後ろ!」
 大きな声がした。光太だった。光太が立ち上がって指さしていた。
 言われるままに下がる。
(かま)えて」
 腰を落として構える。
「走れ!」
 声と同時に走り出し手を後ろに出した。その手の中に希愛がしっかりとバトンを入れてくれた。ラインぎりぎりだった。何度も練習したとおりだった。
 
 バトンタッチで離せたので、コーナーを回りきるまでは一位だった。直線になると猛スピードで後ろの二人が追って来た。
 青組の旗が揺れ青組の全学年が自分を応援していた。イノシシに追われてる子のように必死で走った。
 とうとう一人に抜かれた。しかし、すぐに次のコーナーに入った。そこを回るとリレーゾーンは目の前だ。巧がラインの上で待っていた。
「足がもつれそう……。あと少し、あと少し!」
 優芽は最後の力を振りしぼって巧の手の中にバトンを入れた。喉がゼイゼイして倒れそうだった。
 巧がすぐに二組を抜き返してまた一位になり、そのままアンカーにつないだ。
 二組のアンカーは学年一速い子だったが、和弥も懸命にリードを守り、そのままトップでゴールした。
 その瞬間、三組の全員が跳び上がった。優芽は涙が出そうになった。
 両手をあげ満面の笑みで戻ってくる和弥をみんな拍手で迎えた。今年のヒーローも和弥だった。
 
 退場して応援席に着くと、希愛が言った。
「優芽っち、がんばって走ったね」
「そうそう、山野ががんばったから一番になれた」
 巧もにこにこして言ってくれた。
「運動会って、けっこう楽しい」
 入学して初めて優芽はそう思った。
 希愛も巧も和弥もすごかった。特に、「和弥君はすごいな。足は速いし、勉強はできるし、女子にやさしいし……」
 優芽はいつもそう思う。
  
 ただ今年は、ヒーローはもう一人いるような気がした。
「城山君だ……。もしあのとき城山君が教えてくれなかったら……。だけど、先生はなんで学級会の時、城山君に聞いたんだろう」
 彼女は、授業中にときどき、光太をちらっと見るようになった。