トンネルの向こうからさしこむ光の中で

 九月。
 ある日、澪子は光太とトンネルの前を歩いていた。彼女は入り口に立つと、じっとしていられずに、光太の手をぎゅっとにぎった。
「おにいちゃん、ごめんなさい。これ……。わたし、かってに……」
 泣きそうな顔でボールペンをさし出すと、光太はパッとうれしそうな顔になった。
「それは澪にあげたかったものなんだ。同じものがもう一つあるから、これは澪が持っていて」
 そう言って、両手で澪子の手を包みボールペンをにぎらせた。

 澪子は胸がいっぱいになって思わず口に出した。
「おにいちゃん、ずっとここにいてくれる?」
 言いたくて言いたくてたまらなかった言葉だった。

 光太は答えられなかった。「いるよ」と言いたかったが、帰る日が近いことを知っていた。

 黙って自分を見つめる光太の目がうるむのを見て、澪子はハッとしてまつ毛をふせた。
「これは変えられないことなんだ。生まれることや死ぬことと同じように――。おにいちゃんの方が、もっと苦しいんだ」
 そんな直感が電流のように全身を走った。そして、涙をふきながら強く思った。
「もう決して、おにいちゃんに泣き顔を見せない」

 秋の夕日がトンネルをだいだい色に染め、風が静かに渡って行った。涙をためた二人に寄りそうように、赤とんぼの群れが静かに近くを飛んでいた。
 帰り道、光太と手をつないで歩きながら、澪子は心の中でつぶやいた。
「この手の温かさを、わたしは忘れない」


 数日後。
「みおちゃん、遊ぼ」
 彩子が友だちを連れて澪子を呼びにきた。外でみんなで遊んでいたとき、突然空で大きな音がした。トンネルのある方角だった。
「あれ? 今の、雷かな。晴れているのにおかしいね」
「雷っていうか、大きな布がビリビリ破れていくような音だったよ……」
「そのあと、何かが吸いこまれるような音も聞こえた……」
 口々に友だちが言い、澪子は胸がドキドキして、もう走り出していた。
「ごめんね。わたし帰る!」

 家にはだれもいなかった。息を切らしてトンネルに行ってみると、そこに千代子が立っていた。
「おかあさん!」
 呼ばれて千代子が、声を震わせて言った。
「おにいちゃんがね、仕事から早く帰って来て、しばらく部屋の中にいたの。でも急に、『出かけてきます』って言って出て行ったのよ。気になってあとを追ったら……」
 千代子は言葉を詰まらせた。光太がトンネルに入って行ったそのとき、突然雷のような、雷とは違うような、不思議な、大きな音がしたんだそうだ。
 (ころ)ぶように走ってトンネルに入ったが、光太の姿はなかった。
 誠一も仕事を早引きしてやってきた。警察や消防も来て夜中まで探したが、光太は見つからなかった。

 部屋に、服がきれいにたたまれ、来たとき身に着けていた服と靴がなくなっていた。光太は元の世界に帰ったのだと、三人だけは知っていた。だから、死んだわけではない。
 それでも、涙は止まらなかった。


 前の晩、帰ってきた誠一に、
「おじいちゃん、お風呂に入って」
 と、光太が風呂を(すす)め、ていねいに背中を流してくれたそうだ。

 今朝、食事のあと、「ごちそうさま」のときに、光太が妙に長く手を合わせていたと、千代子は言った。声はなかったが、
「ありがとうございました」
 と言っているように感じたそうだ。けげんそうに見ている千代子に気づいて、
「おかあさん。今日もおいしかったです。……とても」
 光太がにっこり笑ってそう言ったと。

 きのう勉強しているとき、光太が澪子から鉛筆を借りて、新聞紙のはしを切った細長い紙に何か書いてくれた。
「だいじょうぶ。澪ならできるよ。   兄」
 そう書いてあったと澪子が言った。

 九月二十三日の夜――。
 秋の虫が震えるように鳴いていた。


 第一部
 澪子
 了



 ここまで読んでくださって心から感謝します。第二部もお付き合いいただければ幸いです。