ミッドナイト・ヴェノム







その後お風呂に入り、部屋着姿でリビングへと顔を出すと、ちょうど怜悧もお風呂上がりのようで、濡れた髪のままコーヒーを飲んでいた。




「いつもコーヒーはブラックのままだけど、怜悧は苦いのが好きなの?」



「別に?こっちの方が頭冴えるかなって」



「そっか。作業でもするの?」



「いーや?」




なぜか、怜悧の視線は私の目から首筋をなぞり、そして私の肩口に見えるアゲハ蝶の刺青を辿った。



そこまでじぃっと私の体を眺めると、今度は飲み干したアイスコーヒーのカップを置き、すたすたと近づいてくる。



ブラックコーヒーの話をしているだけなのに、なんでこんなに近づいてくるんだろう。




「いつもは作業の前に飲むんだけどね。今日は違う」



「……ふーん?」




怜悧がにっと笑ったので、私はわざと焦らすような相槌を打ってみた。



踏み込めば、きっと怜悧は迫ってくる。



それがわかるからこそ、あえてそれを避けてみよう。



すると、怜悧はそれに気づいたのか、ますます挑発的な笑みを深める。




「何のために飲むのか、とは聞いてこないの?」



「聞いてほしい?」



「そうだと言ったら?」




ここまでお互いが近づいて、踏み込もうと迫るのは、本当に初めての経験だ。



だからこそ、怖いけれど楽しみでもある。



それならば楽しんでやるのが筋というもの。だから私も怜悧に挑戦的な笑顔を向けてみた。




「逃げる」



「っは!」




怜悧が思わずと言ったふうに笑った隙に、私は怜悧の間合いから逃げ出した。



すぐに伸びてくる手をくるりと躱し、私は怜悧にべっと舌を出してみる。



ふふ、楽しくなってきた。




「七夏ってさ、どうしたら俺の気持ちを信じてくれる?」



「さあ?怜悧が私の気持ちを信じてくれたら、私も信じるかも」




退路を確認して、ソファを乗り越えて怜悧の手を避ける。



少しでも手に触れたら捕まるから、私がやるべきはただ避け続けることだ。



それにしても腕長いなー、怜悧。広いリビングでもすぐ捕まっちゃいそう。




「……へぇ?」




そのとき。



怜悧が私の発言に目を細めると。




「!」




だんっ、と私の進行方向を、伸びてきた怜悧の足が塞いだ。



……壁に足届くとか。どんだけ足長いの、怜悧。



そうして私が止まったその一瞬で怜悧の腕は私の腰を捕まえて、私は壁際に追い詰められた。




「……捕獲完了」



「……っ」




どうにか抜け出そうと足掻いてみるが、怜悧の腕はびくともしない。これが男女差か。



……不思議な気分だな。いつから、こんなに力に差がでていたんだろう。




「さて、逃げ出した七夏を捕まえたからには、ここからは俺の好きにできる時間かな?」




怜悧の瞳は、捕食者のような獰猛な光を帯びている。



だが、それは私が今まで見てきたターゲットたちのどの瞳とも違う。



ただ純粋に「私」を欲しがる目だ。



私は、その瞳の光が本物なのか確かめるため、さらに煽ってみることにした。




「……お好きにどうぞ?抵抗はするけど」



「上等」




そして、ぐいっと片手で抱き上げられる。



咄嗟に怜悧の首に腕を回すと、怜悧はくつくつと笑って歩き始めた。




「俺の部屋は入ったことなかったっけ?」



「ないけど……」



「それじゃーよかったね、初上陸」




怜悧が、自分の部屋に繋がるドアを開く。



私を抱き上げたまま迷いなく怜悧の部屋に入り、そして私はベッドに降ろされた。



……まさか、部屋にまで入ることになろうとは。



動揺を抑えきれないが、何もしないわけにもいかない。



だから遠慮なく近づいてくる怜悧の顔を阻もうとすると、その手を掴まれ、指を絡めた上でベッドに縫い留められた。



……私の動き、完全に読まれてるな。



怜悧の方が一枚上手であることを察してしまって、ちょっと悔しい。




「俺にこうされるのは、嫌?」



「……嫌だったら、もっと激しく抵抗してる」



「……ふ」




怜悧は、素直に言えない私を可愛がるような笑みを零すと、すっと目を細める。




「なら、これから七夏のことどうしてあげよーかな。好きにすればって言われちゃったし」



「……私のこと揶揄って楽しんでる?」



「まあね」




そう言って、怜悧は繋いだ私の手を引き寄せ、その唇に軽く触れさせた。



ふに、という柔らかい感覚が妙にくすぐったい。



こういうことをされると、今の怜悧は私だけに愛を囁く存在なのではないかと錯覚しそうになってしまう。



だけど、まだだ。まだ信じられない。



こうやって怜悧の毒に侵食された結果毒沼の底に沈められ没落した女たちの姿を、私は一番近くで見てきたのだ。



私と怜悧は、お互いの非道さを知っている。



だから簡単に信じることなんてできない。




「……まだ、か」




その様子を見て怜悧はそう呟き、しかしすぐに表情を明るくして私に迫る。




「まあいーや、これからゆっくり堕とせばいいし」



「……」



「それよりも今は七夏をどうするかって話だったよね」




ちゅ、と前触れもなく瞼に怜悧のキスが降ってきた。



うっ、こっちもくすぐったいな。



嬉しくはあるけど、恥ずかしさも相まってくすぐったさが倍増している気がする。



でもそんな私の気持ちをわかっているだろうに、怜悧はそれを考慮してくれない。



瞼から目尻、頬、耳、首筋ときて鎖骨、と唇が私の輪郭をなぞっていく。



足をバタバタさせてみるけれどすぐさま怜悧の長い足で防がれ、ついに私は全身を怜悧に抑え込まれてしまった。




「怜悧、くすぐったい……」



「気持ちいいの間違いじゃなくて?」



「違うってば、ばか。早く離して」



「嫌だよ。俺の好きにする時間だってさっき言った」




怜悧の片手は私の両手を私の頭の向こうで拘束し、もう片方が艶かしい手つきで首を這う。



鼻が当たりそうな距離にまで顔が近づいたまま互いの呼吸が荒くなり、あまりの甘さに気が狂いそうだ。




「……七夏」



「なに?」




怜悧の指が、肩をなぞる。



オフショルダーのトップスから見えるアゲハ蝶の刺青の輪郭を辿られ、くすぐったくて身を捩った。



けれども、やはりすぐさま再び動きを封じられる。



力の差は歴然。



力が強くて敵わない、だなんてさっきからわかっていたことではあるけれど、ちょっと不満なのは間違いない。



何とか不意をつければいいのに、怜悧に正面から拘束されていてはそれもできない。



それが悔しくて怜悧を睨みつけると、はだけた怜悧の襟元から、私と同じような位置にあるカラスの羽の刺青が見えた。




「……この刺青、誰かに見せたことある?」




かと思えば、怜悧の口から出てきたのは妙な言葉だ。



私の肩にあるアゲハ蝶を他の誰かに見せたのか、という問いで間違いないだろうか。



それなら、今のところ私は誰かに体を見せるほどの関係まで進んだことがない。



だから首を横に振れば、怜悧は少しだけ微笑んだ後、私の肩で羽ばたくアゲハ蝶に、ちゅっとキスを落とした。




「……っ!」



「これからも誰にも見せないで。俺だけに見せて」



「……怜悧」



「俺のこのカラスの羽は、紛れもなく七夏だけが知ってるものだよ。これまでも、これからもね」




甘い言葉が、私の頭をぐるぐる回る。



肩に触れる指と唇が、私にどんどん毒を与えていく。



言葉に詰まっていると怜悧は私の片手を持ち上げ、怜悧の肩をなぞらせた。



まるで、私になら触れてほしいとでも言うかのように。




「……わかった。この蝶は怜悧と私だけの秘密」




なんとか返事すると、怜悧は感情の読めない笑みを浮かべた。



嬉しがってるのか、私が無理して繕ったのを見破ったのか、それとも私の奥の恋心を見破ったのか。



わからなかったけれど、怜悧は「忘れないでね」と言って唇を重ねた。




「ん、は……っ」



「……七夏」




なんて甘くて、酔いそうなキスなんだろう。



私のすべてをこじ開けそうなほどに強力な欲望が、うっすらと開いた怜悧の目から溢れ出ている。



今まで経験したことがないくらい深くてくらくらするような口付けが、私の呼吸を奪っていた。



怜悧の髪から私の体に滴り落ちる、小さな水滴のひとしずくさえも官能的で、すべてに反応して甘い声を出してしまいそうだ。




「ちょ、怜悧、激しすぎ……んん」



「口開けて。もっと」




私の主張さえ、今の怜悧には届かない。



俺の好きにする時間、と言っていたのは本気みたいだ。



でも、それでも……こんな……!




「……かわいい、七夏」




怜悧の舌が私のそれを吸い上げて、ちうと可愛らしい音が鳴った。



だがそれだけでは終わらない。



もう私の意識は蕩けて消えそうなのに、怜悧はまだ余裕そうだ。




「……好き。七夏が好き。信じて、お願い」




怜悧の舌が、上顎をなぞる。



お願いと言うわりには、怜悧は返事どころか息をする隙すら与えてくれないようだ。



でも、頼まれなくても、もう私の世界には怜悧しか見えない。



そして同じく、私を優しく見つめる怜悧の瞳にも、蕩けた顔をする私しか映っていないようだった。




「ん、れい、り……っ」



「……七夏」




怜悧の匂いがするベッドで、ふたりきり。



ただお互いを貪る数分間はとても魅力的で、病みつきで、甘美で、官能的で。



私は、怜悧のキスにいとも容易く陥落してしまった。




「……ふ、はぁ、はぁ…………怜悧……」



「……ごちそーさま。今日はこのくらいにしといてあげよーかな」




怜悧は、まだ余裕そうだった。



怜悧だって仕事でキスなんて必要ないからとか言ってやらないくせに、なんでこんなに上手いの?



というか、逆になんで私がこんなに下手くそなの……?



使う機会は滅多にないし使ったこともないとはいえ、いつか使うかもしれない技術ではあるのに。



いや、それとも……。



……相手が怜悧だったから、上手くできなかったのかなー……。



そう思うと同時にさっきまでの激しい口付けを思い出し、私は思わず怜悧をちらりと盗み見た。



だがそれもあっさりとバレて、怜悧は私の頬を撫でて柔らかく微笑んでくる。




「七夏、かわいかったよ」



「……」



「それじゃあ、俺はコンビニに行ってくるから。さっき言ったこと、忘れないでね」



「…………」




そうして、もう一度私の肩のアゲハ蝶に唇を落とした怜悧が扉の奥に姿を消した後、静かに起き上がり、自分でアゲハ蝶をなぞってみる。



私がなぞっても、何も面白くないし、くすぐったくもない。当然だ。でも……。




「……はあ」




まだ、このアゲハ蝶に、怜悧に触れられたときの熱が残っていた。