悪辣魔王の腕のなか

 たった今、結婚の約束を交わした男女とは思えぬ冷めたテンションで互いに「それじゃ」と告げる。ふたりが別々の方角に歩き出そうとした、そのときだった。

 建物の陰からゆらりと出てきた中年の女性が響司の正面に立つ。彼に用だろうか。
 五十代くらいと思われるその女性は顔色が悪く、髪がボサボサに乱れていて、ただならぬ雰囲気だ。

(状況がわからないけど、私はいないほうがいいよね)

 だが、衣都が去るより早く彼女が叫ぶ。

「お願いですっ、もう一度だけ。ちゃんと調べてください」

 叫びながら、彼女は響司に突撃し、その胸をこぶしでドンッと叩いた。

「主人は病死じゃありません。こ……殺されたんです、絶対に!」

 響司の胸のなかで彼女は「うわぁぁ」と泣き崩れる。

(ここで司法解剖された方のご遺族かしら)

 法医学ドクターである響司に『調べてください』と言ってる点から、そう推測する。

「大丈夫ですか? 落ち着いて深呼吸を」

 この状況を見て見ぬふりして立ち去るわけにはいかず、衣都は彼女の背を撫でた。しかし、その頭上に信じられないほど冷たい声が落ちる。

「お引き取りください」

 響司はうんざりだと言わんばかりのため息を彼女に聞かせたあげく、同情も優しさもいっさい含まない淡々とした口調で告げる。

「ここに来られても困ります。何度もそう申しあげましたよね」
「あ、あのっ」