悪辣魔王の腕のなか

 平成どころか昭和の香りさえ漂う、茶色いタイル張りの古い三階建てのビル。ここがツバキ医療機器の本社だ。自分のデスクのある二階の営業部フロアの前に到着したところで、衣都は扉にかけた手をぴたりと止めた。漏れ聞こえてくる社員たちのお喋りのなかに、引っかかるワードがあったからだ。

「例の、柚木グループが傘下に入れてくれるかもしれないって話はどうでした?」

 そう問いかけたのは、衣都の直属の上司でもある営業部長。もうすぐ還暦のベテランで、彼には小さい頃からかわいがってもらっていた。

「うん、やっぱり衣都の結婚が条件でね。当人同士、気が合うようならいいんだが……会社のために好きでもない男と結婚させるってのはどうにもなぁ」

(お父さん、そんなふうに思ってくれていたんだ)

 なんの説明もなかったのは、衣都にプレッシャーを与えないため。奇跡的に響司と気が合う、その可能性に賭けてみたのだろう。

「そんなの悩むまでもないでしょう? 衣都ちゃんの幸せが一番大事ですよ」

 部長がきっぱりと言い切る。さらにはほかの社員たちも。

「俺たち、柚木グループに頼らなくてもいいように営業がんばりますから!」
「そうですよ。医者はモテるから浮気する男も多いんですよ。大事なお嬢さんの結婚相手がそんな男だったらどうするんですか?」
「大丈夫です。うちの機器はどこにも負けません!」