悪辣魔王の腕のなか

 言葉にすると滑稽すぎて恥ずかしくなるけれど、自分は勝手に恋愛ドラマさながらの甘い展開を想像していたのだと思う。だから、彼の表情を認めた瞬間、頭から冷水を浴びせられたみたいに全身が硬くこわばった。

「この結婚は俺に利益をもたらす。つまり、君は俺にとって大切にする価値のある女ということだ」

 響司の瞳はひどく冷たくて、衣都を映しているようで映していなかった。
 ためらいもなく伸ばされた大きな手が衣都の頬をさらりと撫でる。
 なにも映さないその瞳に魅入られてしまったように、身じろぎすらできない。

「椿屋衣都、綺麗な名前だな。けど、柚木衣都のほうがもっといい」

 耳元でささやく声には不思議な艶があって、頭の芯がクラクラと痺れる。

「君にとっても最良の選択だ。俺と結婚して柚木衣都になれ」 

 この声をずっと聞いていると、洗脳されてしまいそうだ。
 衣都は必死に理性をたぐりよせ、一歩あとずさり彼の手から逃れた。

「ま、待ってください。利益ってどういう意味ですか?」

 彼のこれは、間違いなく誠実な求婚ではない。響司の真意が衣都にはさっぱりつかめなかった。

「あぁ。司法解剖に使うメスは特殊でね、どれでもいいってわけにはいかない。俺の法医学ドクターとしての道に、ツバキのメスは必要不可欠だ」
「メ、メスのために結婚を決断すると?」

 それが彼の利益なのだろうか。にっこりと満足げに響司はほほ笑む。