悪辣魔王の腕のなか

プロローグ

「君が妻になってくれるのなら……生涯をかけて大切にする」

 数秒前に発したプロポーズめいた甘い台詞とは裏腹の、冷めきった薄っぺらな笑み。
 その目は、たしかにこちらに向いているのに衣都(いと)を映してはいなかった。
 美しいアーモンド型をした、ノワールの瞳。
 ノワールは黒色を表すフランス語だが、暗いとか悪いとかそういった意味合いもあるそうだ柚木響司(ゆずききょうじ)の瞳は黒ではなく、ノワールだ。
 恐ろしいほどに魅惑的。けれど、決して触れてはならない。そんな危うさをはらんでいる。

「この結婚は俺に利益をもたらす。つまり、君は俺にとって大切にする価値のある女ということだ」

 彼が大切にしたいのは、衣都ではなく利益だけ。その利益を失えば、おそらくこの男はなんの逡巡もなく自分を捨てる。それがはっきりと理解できた。
 頭がくらりとして、世界がわずかに揺らぐ。
 おそらく彼は、自分とは別の世界を生きている。衣都の考える普通や常識は彼には通用しない。未知への恐れで、心臓がキュッと小さく縮こまった。

(野生の獣に出くわしたときの心境って、こんな感じなんじゃないだろうか?)

 逃げたほうがいい。この人と結婚なんか……絶対にすべきじゃない。
 理性がそう警告しているのに、どうしても目をそらせない。
 ためらいもなくスッと伸びてきた彼の手が、頬の輪郭をなぞるように動く。
 響司が触れている左の頬が熱くなって、その熱はじわじわと全身に広がる。
 まるで彼の世界に浸食されていくみたいに――。

椿屋(つばきや)衣都、綺麗な名前だな。けど、柚木衣都のほうがもっといい」