都合のいい女をやめた日、私は空へ戻る

入院して二日目、時絵のもとに母親からの連絡が届いた。

「免許証が予定より早く下りたわ」

時絵は「わかった」とだけ返し、すぐに退院の手続きを進めた。

──このところ綾子はまだ術後の回復期にあり、鶴也もまったく顔を見せていなかった。

彼が次に来る頃には、きっと自分はすでにこの街を離れているだろう。

退院手続きが終わると、時絵は看護師を雇い、車椅子を押してもらって飛行管理局へと向かった。

更新手続きは滞りなく終わり、彼女はそのまま再び病院へと戻った。

ちょうどこの時間、鶴也は会社にいるはずだった。

病室には綾子一人だけがいた。

彼女はゆったりとベッドに身を預けており、扉の開く音に気づくと、首だけを傾けて振り返った。

「何しに来たの?」

時絵は車椅子のまま、落ち着いた口調で言った。

「一つ、伝えたいことがあって来たの。鶴也があんたに向ける感情、ちょっと普通じゃないって気づいてるでしょ?理由、わかる?」

時絵は綾子が戸惑うと思っていた。

しかし彼女はただ軽く笑って言った。「そんなの言われなくても知ってるわよ。おじさんが私のこと好きなんでしょ?」

時絵は目を見開いた。「……知ってたの?」

「当然でしょ。バカじゃないんだから。それにずっと前から気づいてたわよ。時絵、私はね、そんなことどうでもいいの。生活に困らないなら、それでいいのよ。むしろ好都合。彼が私を好きなら、私は斉藤家の奥様になれるんだから。そしたら斉藤家の財産は半分私のものよ」

その目には、露骨な欲望の色が浮かんでいた。

時絵は何かを悟ったような表情になった。

「じゃあ、最初から全部わざとだったのね?私を追い出すために?」

「そうよ。他に理由ある?いくらあなたが彼を愛してたって、私がちょっと手招きすれば彼は私のところに戻ってくるわよ。時絵、悪いけど――あんたが愛した相手が間違ってたのよ」

綾子は胸の前で腕を組み、誇らしげに笑った。

──そういうことだったのか。

どうして彼女がいつも自分に敵意を向けていたのか、すべてが繋がった。

時絵の握り締めた拳は、静かに力を抜いた。

彼女はここに来る前、録音を仕込んでいた。

当初は綾子の嫌味を収めるつもりだったが――まさかこんな真実が録れるとは思っていなかった。

「じゃあ、もう安心していいわね」

綾子が初めて不審そうな表情を浮かべた。「……どういう意味?」

「私はもう行くわ。斉藤家の奥様の座、早く叶うといいわね」

そう言い残し、彼女は病室を後にした。

病院を出ると、時絵は先程の録音を鶴也宛てに自動送信設定した。

──配信日は3日後。

その頃には、自分はすでに国外にいるだろう。

望みは一つ──

鶴也に、綾子が決して彼の思い描いていた「純粋な少女」ではなかったと知ってもらうこと。

そして、二人の間に亀裂を入れること。

彼の心に疑念を植えつけ、互いに不信と痛みの中で生きていくように仕向けたのだ。

すべてが済んだ後、時絵は看護師と一緒に街で一番有名な火鍋へ向かった。

彼女は好きな辛味鍋を注文した。

食事を終えようとした時、店の入口に鶴也の姿が見えた。

彼女はフロア席にいたが、彼は迷いなく奥の個室へと向かっていった。

その直後、彼女の携帯が震えた。

鶴也からのメッセージだった。

「火鍋屋に着いたよ。お前が好きな辛味を注文した。あとで病院に届ける」

時絵はそのメッセージを一瞥しただけで返信せず、ポケットにしまい込んだ。

ちょうど通りがかりに彼の個室の前を通ると、中からふわりと香りが漂ってきた。

それは彼女が好む辛い香りではなく、綾子が好んでいたマイルドな海鮮鍋の香りだった。

──また嘘をついている。

だが、もうどうでもいい。

鶴也、私はもう行くわ──

空港に着くと、小林家のプライベートジェットがすでに待機していた。

「……あのクソ野郎、よくもお前をこんな姿にしやがって……!」

時絵の兄の小林俊也(こばやし としや)は、かつて明るく快活だった妹の変わり果てた姿に怒りを爆発させ、今にも鶴也を殴りに行こうとする勢いだった。

だが、時絵は兄の腕をそっと引き留めた。

「もういいの……私はあの人に、もう二度と会いたくない」

「……わかった。じゃあ、行こう。最高の医者に診てもらおうな!」

飛行機が離陸し、海浜市の街がどんどん小さくなっていった。

時絵は自分のスマホのSIMカードを折った。

──これで終わり。

さようなら、斉藤鶴也。