都合のいい女をやめた日、私は空へ戻る

レストランを出ると、空はすっかり暮れていた。

蒼太はとても話しやすく、そして控えめな人だった。

彼は時絵の仕事ぶりを褒め、能力を高く評価しただけで、他には何も多くを尋ねなかった。

そうした距離感が、時絵にとって心地よかった。

その後、和真は彼女を基地まで送り届けた。

宿舎の前に差しかかったところで、彼女はふと異変に気づいた。

街灯の下、鶴也がしゃがみ込んでいた。

鈍い光が彼の影を不気味に引き延ばしていた。

見るからに惨めで、みすぼらしかった。

「どこに行っていた?」

時絵が無視して通り過ぎようとしたその時、彼は彼女の腕を掴んだ。

「時絵、なぜ俺にこんな仕打ちをするんだ?……まさか、あいつが宮崎家の跡取りだからか?」

さっき、時絵が和真の車から降りるのを見た鶴也は、怒りと嫉妬で心が焼け焦げそうだった。

──彼女の柔らかな笑顔。穏やかな話し声。

かつて自分だけのものだったその全てが、今や他人のものになっているなんて。

許せない。

時絵は彼の真っ赤な目を見つめ、心の底から冷笑した。

──この期に及んで、まだ「自分は悪くない」と思っているのか。

五年間、愛し続けた相手がこのレベルだったなんて。

「鶴也、自分がどれほど滑稽か分かってる?私の脚を壊したのはあなた。治してくれたのはあの人。私を踏みにじったのはあなた。尊重してくれたのは彼。

私は人間よ、犬じゃない。……いや、犬だって、誰が本当に自分を大切にしてくれるかくらいは分かる。あんたに、私の選択を批評する資格なんてない。たとえ彼が財産を持っていなくても、私には金も地位も、何一つ困ってない。

覚えておきなさい。私、あなたを選んだ。あなたが私を選んだんじゃないのよ」

言い切った瞬間、彼女の胸の奥に長年重くのしかかっていた石が、ようやく取り払われた。

鶴也を愛していた日々は、まるで罠のようだった。

その罠からようやく抜け出せた今、彼女ははっきりとわかった。

──この男には、もう何も残っていない。

鶴也は唇を噛んだ。

彼女の言葉が鋭い刃となり、その胸を貫いた。

──全てが、事実だ。

自分が自惚れすぎていた。

時絵が永遠に傍にいてくれると思い込んでいた。

だが今、彼女の隣には別の男がいて——

その男は、自分より遥かに優れている。

家柄も、顔立ちも、何もかも。

鶴也は初めて、「恐れ」を感じた。

──彼女が本当に、他を愛してしまったか?

まさか……この手で彼女を永遠に失ったのか?

「……ごめん、時絵。俺が悪かった、全部俺のせいだ。傷つけたこと、本当に後悔してる」

「いらない」

その言葉は冷たく突き放され、もう過去に戻ることなど二度とないと告げていた。

──今思えば、私は綾子に感謝すべきだったのかもしれない。

あの女のおかげで、鶴也という人間の本性が見えたのだから。

「もういい、帰って。二度と私の前に現れないで。……私は、あなたの顔なんて、見たくもない」

鶴也の目が赤く染まった。

鼻の奥がツンとし、自尊心が彼にもう一度「引き止める」言葉を口にさせることを許さなかった。

──これまでずっと、時絵が折れてきた。

今回は、自分の番だ。

鶴也は深く息を吸い込んだ。「俺は、諦めない。時絵……いつかきっと、許してもらえる日が来ると信じてる」

その固い決意に、時絵はただむかつくだけで面白くも何ともなかった。

そんな日が来ないことを、彼女は誰よりもよく知っていたから。

それからというもの、鶴也は毎日欠かさず基地に姿を見せた。

花束を抱えて門の前で立ち尽くしたり、高級ブランドの品を送りつけたり、はたまた手料理を届けたり……

さらには、時絵のために三食自ら料理して届けるという徹底ぶりだった。

だが──

時絵は一度として、それに目を向けなかった。

贈られたものは全て、容赦なくゴミ箱行きだった。

「時絵、このお粥、すごくおいしそうだよ?ほんとに食べないの?」

──あのお粥は、かつて自分が何度もねだったものだった。

何度お願いしても作ってもらえなかった——綾子の「特別」だった。

だが今は——目にしても、心は一切動かなかった。

「いらない。飲みたければ、あげるわ」

「やったー!」

同僚が満足げに食べ終わって廊下に出たところで、ちょうど鶴也と鉢合わせた。

同僚の手にある空になった器を見て、鶴也の顔が一瞬で暗くなった。

オフィスに飛び込んできた彼は、怒りを込めて彼女を睨みつけた。

「……俺が作った粥、他人に飲ませたのか?」

彼の詰問に、時絵はただうんざりと返した。「いい加減にしてくれる?」

「でも……お前は、俺の作ったお粥が飲みたいって……」

「まだ分からないの?何度言わせれば気が済むのよ。私たちはもう終わったの。私はもうあなたを愛していない。どんなに言葉を並べても、何をしても、戻ることはない。あんたの執着は、ただただ気持ち悪いだけ」

鶴也の瞳は、彼女の一言一言で徐々に輝きを失っていった。

時絵の腕を握っていた手を緩めると、頭の中を彼女の言葉が駆け巡った。

──気持ち悪い……

そうか。

自分は……そこまでの存在になってしまったのか。

そりゃそうだ。

これだけの過ちを犯しておいて、許されるわけがない。

「わかった」

彼はゆっくりと後ろに下がり、そのまま背を向けた。

歩き出したその背中は、どこかひどく小さく、そして老けて見えた。

時絵は、彼の姿が見えなくなるまで無言で見送り、そして何事もなかったかのように、静かに自室へと戻っていった。