都合のいい女をやめた日、私は空へ戻る

ちょうどその時、オフィスの扉が再び開かれた。

入ってきたのは、スーツに身を包んだ中年の男性だった。

ひと目見ただけで、時絵はすぐにその人物がH市で有名な実業界の大物、宮崎家の当主・宮崎蒼太(みやざき そうた)であると気づいた。

「宮崎さん」

その姿を見た瞬間、鶴也も思わず立ち上がった。

H市の宮崎家はA国全体でもトップクラスの財閥であり、斉藤家の事業の多くも宮崎家のルートを通じて発展してきた。

だからこそ、鶴也も彼をよく知っていた。

「宮崎さん、先ほどはただ、取るに足らない者を少し叱っていただけです。お気に障ってしまいましたか?」

いつもは高慢な鶴也が、珍しく腰を低くして媚びを売るような言い方をした。

「取るに足らない?」

蒼太の鋭い視線が彼を真っ直ぐに射抜いた。

「斉藤さんの言う『取るに足らない』というのは、まさか……俺の息子のことか?」

その言葉が落ちた瞬間——

室内は凍りついたような沈黙に包まれた。

時絵は驚愕に目を見開いた。

彼女は信じられないという表情で和真を見つめ、彼もまた静かに彼女と目を合わせた。

「息子さんだと?この医者が……?」

鶴也は目を見開き、二人を交互に見つめた。

信じられないという色がその顔にはっきりと浮かんだ。

──外見は質素。

調べた情報でも、ただの帰国した教授に過ぎない。

宮崎家の御曹司なはずがない。

「どうした?まさか俺の言葉まで信じられないと?」

蒼太はなおも高圧的な姿勢を崩さず、冷ややかに言い放った。

そして彼はゆっくりと基地の責任者に視線を向けた。「このプロジェクト、我々宮崎家が正式に引き受けることにした。理由?小林さんの実力に見合う支援をしたいと思っただけだ。……さて、この方をお見送りいただけるかな?」

「はっ、はいっ!」

責任者は慌てて鶴也を外へと促した。

呆然と立ち尽くす鶴也の顔には、怒りと屈辱の入り混じった表情が浮かんでいた。

そんな表情を見て、時絵は思わず胸の奥がすっとした。

──生まれてこのかた、こんな恥をかいたことなんてなかったでしょう。

海浜市の王子様、今度は誰にも助けてもらえないわよ。

そう思った瞬間、心がふわっと軽くなった。

ドアが閉じると、和真がふと横を見て、そこで一人ニヤけている時絵に気づき、思わず笑みを漏らした。

「そんなに嬉しい?」

指摘されて、時絵の顔がぱっと赤く染まった。

「君が時絵だね。ずっと前から聞いてたよ。やっと会えたな。どうだい、こいつ、まあまあ悪くないだろ?」

蒼太は優しい笑顔で時絵に声をかけた。

一方、隣の和真は小さくため息をつきながら、そっと父に注意した。「……お父さん、行き過ぎだ」

時絵の頭には、別の疑問が浮かんでいた。

──どうして私の名前を前から聞いていたの?

海浜市にいた五年間、H市に戻ってきてもほとんど出歩いていない。

宮崎家の当主と関わりなど、あるはずがなかったのに——

三人でしばらく談笑した後、蒼太は仕事へ戻っていった。

「……ごめん、隠すつもりはなかったんだ」

──まさか、彼が10歳から海外で暮らしていた。

そして、一切家の後ろ盾を使わず、自分の力だけで今の地位を築いてきた。

怒る理由なんて、最初からなかった。

彼の持つ雰囲気から、普通の出自じゃないとは薄々感じていた。

けれど、まさか宮崎家の跡取りだったなんて、思いもしなかった。

「いいのよ。今日は本当に助かった。……でも、どうしてここに?」

──いつもならこの時間、彼は病院にいるはずだ。

「食事に誘おうと思ってさ。それに、父さんが君に会いたいって。メッセージを送ったんだけど、君から返事がなかったから、心配になって来ちゃった」

──普段はあまり多くを語らない彼が、珍しく立て続けに話していた。

自分に余計な不安を与えたくなかったのだろう。

そう思うと、時絵の胸の奥がじんわりと温かくなった。

「……ありがとう。今日もまた、助けられちゃった」

「俺を責めない?」

和真はうつむいた。

まるで叱られるのを待つ子供のようだった。

時絵は、思わず吹き出してしまった。

「……そんなわけないでしょ。でも次からは、ちゃんと話して」

「ってことは……これからも、君のそばにいていいってこと?」

和真の目がきらりと輝いた。

時絵はつい頭を撫でながら、確かな答えを返した。

「もちろん」