都合のいい女をやめた日、私は空へ戻る

「……退院?」

鶴也は思わずその場でよろけた。

──彼女は明らかに綾子よりも重傷だったはずだ。

そんな彼女が、今退院なんて――あり得ない。

「本当に退院したのか?」

「はい。小林さんは、病院にいるのが嫌だとおっしゃって、自ら手続きをして出て行かれました。今ごろご自宅に戻っておられるのでは? ご自宅を確認されてはいかがでしょうか?」

その一言が、鶴也の胸に小さな希望の火を灯した。

彼は急に立ち上がり、ドレスを楽しく試着中の綾子を置き去りにし、鶴也と暮らしていた郊外の邸宅へ向かった。

車がゆっくりと邸宅に入るにつれ、なぜか彼の心臓は激しく鼓動を打ち始めた。

車を降りた瞬間、鶴也はまるで追われるように邸宅へと駆け込んだ。

邸内は灯りがついており、使用人たちがいつものように仕事をしていた。

彼の姿を見て、全員が一瞬手を止めた。

ここ一週間以上、彼はこの屋敷に足を踏み入れていなかったし、何より綾子との噂もあって、誰もがもう彼は戻らないものと思っていたのだ。

周囲の視線も気にせず、彼は真っ直ぐ時絵の部屋へ向かった。

だが、その部屋は既に空っぽだった。

彼女の服も、アクセサリーも、そして彼女が自分にくれた数々の贈り物すら、跡形もなく消えていた。

まるで、最初から彼女という存在がこの家にいなかったかのように。

「……盗みにでも入られたのか……?」

一瞬そう思ったが、すぐに打ち消した。

彼はさらに、台所へ、ベランダへ、裏庭へと駆け回った。

──彼女が使っていたエプロンは、ない。

彼女が育てていた多肉植物も、ない。

彼女が自分のために植えたお茶の木は、すでに掘り起こされ、土の山だけが残されていた。

まるで無我夢中のように邸内を走り回った彼は、最後にリビングのソファに崩れ落ちた。

「……旦那様、大丈夫ですか?」

使用人たちはおびえたように声をかけた。

こんな鶴也の姿は、誰一人として見たことがなかったのだ。

綾子を連れ帰った時でさえ、こんなことはなかった。

世間では、鶴也は時絵を愛していないと言われていた。

だが、今の様子は「愛していない」どころか、まるで取り憑かれたようだ。

鶴也は真っ赤な目を上げた。「時絵はどこだ?」

使用人たちは震えながら答えた。「小林さんは入院されてから、一度も戻られていません……」

「ありえない!病院にもいない、邸宅にもいないなら、いったいどこへ行ったというんだ!」

彼は立ち上がった。

その目には怒りが渦巻いていた。

「数日前……荷物をまとめているのを見かけました。旅行か何かに行かれたのかと……」

使用人の一人が、おずおずと答えた。

──数日前か。

あの事故の前か?それとも後か?

どちらにせよ、彼女が荷物をまとめていた理由は何なのか?

過去の記憶が、走馬灯のように彼の脳裏を駆け巡った。

──時絵が自分を見るときの、徐々に冷たくなっていったその瞳。

そして、もう二度と見ることのなかった、あの笑顔。

そんなはずがない。

あの女が、自分をあれほど愛していた彼女が……自分を、捨てて出ていくはずがない。

きっと今は、ただ怒っているだけだ。

鶴也はそう自分に言い聞かせた。

その時、彼の携帯が鳴った。

画面に表示されたのは時絵からのメッセージだった。

彼は目を見開き、慌てて開いた。

だが、それは一通の定時送信された音声メッセージだった。

再生ボタンを押すと、聞き覚えのある声が流れた。

綾子と時絵の会話だ。

その内容に、彼の表情はみるみる険しくなっていった。

「彼が私のことを好きなのなんて、ずっと前から知ってたわ。近づいたのも、斉藤家の財産を手に入れるためよ」

「鶴也なんてただの踏み台よ」

……

その中で響く綾子の狂気じみた言葉に、鶴也は背筋が凍りついた。

──あの純粋で無邪気な綾子が、実はこんな本性を隠していたのか?

弱々しくふるえていたあの少女が、斉藤家の財産目当てで自分に近づいていただなんて。

今の鶴也には、怒りなのか失望なのか、自分でもわからなかった。

──長年庇ってきた少女が、牙を隠して待ち構えているなんて。

一方で、ずっと足元に追いやっていた時絵こそが、本気で自分を愛していた。

この瞬間、鶴也は激しい後悔に襲われた。

──知らぬ間に、綾子は時絵を何度も脅し、家から追い出そうとしていた。

そのすべてを、自分は――見ようともしなかった。

「……調べろ」

彼の声が低く、震えていた。

「……綾子が、他に何をしていたか……全部、だ」

──きっと、まだ他にも何かを隠している。

アシスタントはすぐさま電話をかけ、調査を始めた。

そして十五分後、青ざめた顔で戻ってきた。

鶴也はその顔を見るだけで、嫌な予感を覚えた。

「お嬢様は……前回の飛行機事故の際、操縦席に細工を施すよう手配していました。……そして、小林さんの腕を意図的に掴み、瓦礫の下に閉じ込めたのも、彼女です」

──だからこそ綾子は必死に同行を懇願したのか。

鶴也が拳を固く握りしめると、目に冷たい光が走った。

沈黙の中、アシスタントの携帯が震えた。

表示された名前に、秘書が一瞬怯えたように顔をしかめた。「……旦那様。お嬢様からのお電話です……」

「出ろ」

鶴也はしわがれた声で答えた。

すでにその目からは、感情の色が消えていた——

電話が繋がるやいなや、明るい声が飛び込んできた。

「おじさん、みんなを待ってるわよ。いつ戻ってくるの?」