都合のいい女をやめた日、私は空へ戻る

──時絵と出会ってからというもの、彼女はいつも自分の後ろをついてきた。

どんな手を使ってでも、自分を喜ばせようとしていた。

海浜市の誰もが知っている——小林家のお嬢様が、自分を追いかけるために大好きな飛行を諦めたことを。

あの女が自分を愛しているのは、疑いようのない事実だ。

それに……彼女がこれからも自分を愛し続けるかなんて、重要か?

あの女なんて、ただ綾子への気持ちを隠すための隠れ蓑にすぎない。

彼女が自分を愛そうが、愛すまいが、どうでもいい。

自分にとって本当に大事なのは、綾子だけだ。

「まあ、もしかしたら小林さんも耐えきれずに、いずれ離れていくかもしれませんね」

「そんなわけがない!」

運転手の言葉を遮るように、鶴也は声を荒げた。

その声に、周囲の人たちが驚いて振り返った。

「旦那様、どうされたんですか?」

──息が乱れ、胸が苦しくて仕方がない。

時絵が、自分の元を去る?

一緒に過ごした無数の日々。

手作りの料理を抱えて、帰りを心待ちにしていたあの眼差し。

耳元でおしゃべりを止めない、あの騒がしさ。

それらがすべて、時絵と共に消え去るとしたら——

じゃあ、自分は?

彼女を愛していないはずなのに、なぜ心が痛む?

その問いの答えが、今まさに彼の中で形を成そうとしていた。

「おじさん?」

気がつけば、鶴也は時絵と綾子の病室の間まで来ていた。

ちょうどその時、綾子が姿を現し、彼を見つけて嬉しそうに駆け寄ってきた。

「来てたなら、なんで入ってこないの?あっ、私の大好きな火鍋を持ってきてくれたのね!……あれ?なんで辛鍋まであるの?」

綾子が嬉しそうに包装を開けると、もう一つ別の鍋があることに気づいた。

何かを悟ったように、彼女の笑みが凍りついた。

「これは誰の?」

「それは……」

鶴也が答えようとした瞬間、綾子の目に涙が浮かんだ。

彼は思わず言葉を飲み込んだ。

「おまけだ」

──嘘だ。

あの店は高級店で、そんなことは絶対にしない。

しかも鶴也は辛いものが嫌い——じゃあ、それは誰のため?

答えは明白だった。

綾子はぎゅっと拳を握りしめた。

そして、その鍋を奪い取ると、ごみ箱に投げ捨てた。

鶴也の表情が突然険しくなった。「何をするんだ!」

──時絵が自分を無視しているのは、明らかに怒っているからだ。

彼女のためにわざわざ火鍋を買ってきたのに――今やそれはゴミ箱の中。

これでどうやって時絵に会えばいい?

彼はこれをすべて「時絵への償い」と位置付けていた。

だが傍目には明らかだった。

鶴也の表情が変わった時、綾子は不穏な予感を抱いた。

──自分以外の女のことで、彼が怒ったのは初めてだった。

彼は時絵を愛していないはずなのに、なぜ彼女のために自分を責めるのだろう?

もしかして……この五年間で、彼は知らず知らずのうちに時絵を愛するようになってしまったのか?

綾子の背筋に冷たいものが走った。

彼女は奥歯を噛みしめ、目に涙を浮かべながら言った。「おじさん、私、辛いものの匂いが本当にダメなの……前に間違って食べて、死にかけたこともあったじゃない……忘れたの?」

その言葉に、鶴也は一瞬目を伏せた。

──いつもなら、この泣きそうな顔を見れば、すぐに彼女を抱きしめて慰めていた。

でも今日は――心は静かだった。

心のどこかで、時絵の顔がちらついて離れない。

我に返った鶴也はすぐに眉間を押さえた。

──きっと最近疲れているのせいだろう。

彼はため息をつき、綾子を抱きしめた。「ごめんよ、おじさんが悪かった。火鍋なんて、また買えばいい」

その言葉に、綾子は少しも安心しなかった。

鶴也の先ほどの反応は全て目に入っていたのだ。

──いや、絶対にそんなことは許せない。

ここまで、すべてを計算してこの立場を手に入れてきた。

長くこの世界に居座るために。

なのに……

綾子の瞳に、狡猾な光が走った。

──今、何か手を打たないと。

「おじさん、もうすぐ私の誕生日なの。今年は斉藤家の別荘で、パーティーを開いてもいい?」

期待に満ちた表情で見上げると、先ほど怒らせたばかりの鶴也は、当然それを断るはずもなかった。

「いいよ」

「やっぱり、おじさんは私のこと一番大事にしてくれるねっ!」

綾子は満面の笑みを浮かべた。

だが、鶴也は気づいていなかった。

彼が、まもなく巨大な罠に足を踏み入れることになるという事実に——