都合のいい女をやめた日、私は空へ戻る

個室では、店員が既に鍋のスープをテイクアウト用にパックしていた。

鶴也の視線は携帯の画面に落ちた。

──メッセージを送ってから、すでに一時間近くが経過していた。

この時間なら、時絵はもう起きているはずだ。

……見てないのか?

なぜか、鶴也の心に苛立ちが芽生えていた。

──時絵はこれまで、自分のメッセージを見れば即座に返信してきた。

だが今回は30分経っても何の反応もない。

彼は指先で何度も入力画面を行き来し、ついには音声通話を開こうとしたその瞬間——

着信音が鳴った。

画面に表示されたのは、綾子からの電話だった。

「おじさん、いつ帰ってくるの?会いたくて仕方ないの」

可愛らしい甘えた声が耳に届くも、鶴也の脳裏に綾子の姿は浮かばなかった。

「おじさん?」

返事がないことに気づき、綾子が再び声をかけた。

「……すぐ戻る」

鶴也はその違和感を時絵の異常な態度のせいにした。

彼は出来上がった火鍋を車に載せ、運転手に指示を出した。

「時絵の病室に届けてくれ」

自分は綾子のところへ向かうつもりだった。

それを見て、運転手が不思議そうに口を開いた。「旦那様、ご自身では行かれないんですか?」

時絵が返事をしなかった様子を思い出すと、鶴也は再び苛立ちを覚えた。「彼女がそこまで強がるなら、俺が行こうが行くまいが関係ないだろ」

「そんなことないですよ!小林さんはずっと旦那様のことを想ってました。あんなに真っ直ぐな子、他に見たことがありません。

覚えてますか?旦那様が酔いつぶれたあの日、小林さんが一人で個室に入って、旦那様を助けに来たんです。そのせいで取引先に無理やり酒を飲まされ、小林さんはその夜、ICUに運ばれたんですよ。

旦那様が料理人さんの作る料理に慣れないって言えば、小林さんは半年間も料理を学んで。あの白くて綺麗だったお手首、今は傷だらけです。それでも一度もおっしゃいませんでした。

小林家は名門です。そんな家のお嬢様が、旦那様のためにどれだけのものを捨ててきたか……プライドも……今日、火鍋を持ち帰ったのも…心のどこかで彼女のことが気になってたからじゃないですか?

お二人が付き合い始めた時、誰もが『絵に描いたような理想のカップル』って言ってました。あの頃の小林さんは、本当に幸せそうでした。でも、今じゃ……」

運転手は深いため息をつき、静かに首を振った。

鶴也の脳裏に、あの明るく快活な女の姿がふと浮かんだ。

──陽気で、朗らかで、時にうるさいほどよく喋る。

まるで鳴き止まないヒバリみたいだった。

けれどそんな彼女は、いつも自分の睡眠時間を気にかけ、ぐっすり眠れているかどうかさえ気にしていた。

付き合い始めてからは、ますます遠慮がちになり、自分に嫌われないよう細心の注意を払っていた。

大好きだったパイロットを諦めてまで、自分の「彼女」であろうと努力していた。

そんな彼女が、自信に満ちた女の子から、いつしか繊細で怯えたような女性に変わってしまった。

その瞳も、かつての輝きはなく、ただただ、自分に見てほしいと願うような眼差しに変わっていた。

正直なところ、自分でも少しは心が動いた。

きっと、五年も彼女に頼ってきたから、少し寂しいだけだろう。

「勘違いするな。ついでに包んだだけだ。……それに、俺のことに口を挟むな」

その言葉には明らかな警告の色がにじんでいた。

運転手は再びため息をついた。

「旦那様、いつか小林さんが目を覚まし、あなたを愛するのをやめた時、初めてご自身の気持ちに気付かれるのでしょう」

その言葉は、鶴也の脳内で静かに反響を続けていた。

──やめるか……

彼は時絵の病室のドアノブに手をかけたまま、動きを止めた。

──時絵が、俺を愛さなくなる日が来るなんて……そんなこと、本当にあるのか?