追放された星読み令嬢は、辺境公爵に拾われる――不吉と呼ばれ婚約破棄された私が、北の地で愛されるまで

 その夜、セレナはいつものように中庭に出た。
 星図を広げ、ペンを走らせる。今夜の空は澄んでいた。北の星が鮮明に見える。

 ふと、体が重いと気づいた。
 指先から力が抜けて、ペン先が羊皮紙に細い傷を作った。
 昨夜書いた星の位置を、ひとつだけ思い出せない。そんなことは、今まで一度もなかった。
 視界が少し揺れた。立っているのに、足元が定まらない感覚がある。最近このことが増えていた。大きな星読みをした後、決まってこうなる。魔物の大群を読んだあの夜から、特に。
 柱に手をついた瞬間、背後に気配がした。

「セレナ」

 レオルドが駆け寄ってきた。城の見回りの途中だったらしい。彼はセレナの腕を支え、顔を覗き込んだ。
「顔色が悪い。中に入れ」
「大丈夫です」
「大丈夫に見えない」
 有無を言わさず、セレナは城の中へ連れて行かれた。暖炉のある部屋に座らされ、温かい飲み物を持ってこいという声が廊下の方に飛んだ。
 セレナは膝の上で手を重ねた。
 レオルドが向かいに座った。
「いつからだ」
「……何が、ですか」
「体調が優れないのは」
 セレナは少し黙った。
「星読みには」
 言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「代償があります」
 レオルドの表情が動いた。
「未来を読むたびに、自分の未来が少しずつ削れていくんです。星の運命を読み取る代わりに、自分の時間が星に吸い取られていく。幼い頃から星を読んできたので、私の場合は……既にかなり、削れています」

 静寂が落ちた。
 暖炉の炎が揺れた。
「そんな力、使うな」
 レオルドが言った。低く、怒りが滲む声だった。
「でも」
「使うな」
「……でも誰かを救えるなら、使わない理由がありません」
「君が削れていいのか」
「誰かの未来が守れるなら」
 セレナは穏やかな声で言った。動揺はなかった。
 そうでもしなければ、自分がここにいる意味をうまく信じられなかった。王都で不吉と呼ばれ続けた時間は、役に立たない自分には価値がないのだと、静かに教え込んでいた。
 自分の未来が見えないなら、他の誰かの未来を守ることに使えばいい。それが自分の星読みの意味だと思っていた。

 レオルドはしばらく黙っていた。
 それから低く、絞り出すように言った。
「君の未来は、誰が守るんだ」
 そんなことを聞かれたのは、生まれて初めてだった。
 セレナは答えられなかった。

 数日後、王都では。
 王宮の一室に三人の人間がいた。
 宮廷星術師長ガーディンが、窓の外を見ていた。老いた横顔に、炎の光が映っている。
「辺境の星読みが、領民を救ったそうだ」
 囁くような声。感情が読めない。
 王子アルトが眉を顰めた。

「セレナが? あの追放した女が?」
「魔物の大群を予知し、被害をほぼゼロに抑えた。北の公爵は相当信頼しているらしい」
 アルトは不快そうに立ち上がった。
「なぜそんな女を追放した。もう少し使い道を考えれば」
「それは今更の話です」
 部屋の隅から、涼しい声がした。
 リリアーナ・フォルティスが、椅子に腰掛けたまま微笑んでいた。金色の髪に赤い瞳。その表情は穏やかで、目だけが鋭く動いていた。
「殿下。追放されて成功した者を後悔しても、何も変わりません」
「ではどうしろというんだ」
「ならば呼び戻せばよい」

 リリアーナは立ち上がった。窓際に歩み寄り、夜空を見上げる。
「星を読む者は、王都に必要です。辺境の一公爵に独占させる理由はありません。正式な名目を用意して、王都へ戻す。それだけのことです」
 ガーディンが振り返った。その目が細くなる。
「フォルティス嬢、貴女はセレナ・アルヴェールをどう見ている」
「有能な道具です」
 リリアーナは微笑んだまま答えた。
 王都の外で力を持つ者は、いずれ王家の脅威になる。
 リリアーナはそう判断していた。
「ただし扱いを誤ると、刃になる。だから王都で管理すべきです」
 ガーディンの口元が、わずかに動いた。

 翌日。

 城の廊下をセレナが歩いていると、レオルドの側近であるオーウェンが近づいてきた。三十代の実直な男で、魔物の討伐でも先陣を切っていた人物だ。
「星読み様。少しよろしいですか」
「何でしょう」
「公爵が昨夜から機嫌が悪い。心当たりがありますか」
「……少し、言い争いました」
「言い争い」
 オーウェンが目を丸くした。

「あの公爵と?」
「言い争いというほどではないかもしれませんが」
「いや、十分すごいことです。あの方に面と向かって意見できる人間は、この城に一人もいません」
 セレナは答えを持たなかった。言い争うつもりはなかった。ただ、正直に話しただけだ。
「公爵は、誰かを失うことを何より恐れています」
 オーウェンが穏やかな声で言った。
「昔、守れなかった人がいた。それからずっと、この辺境を一人で守り続けてきた。誰も近くに置かなかった。そういう方です」
 セレナは廊下の先を見た。

 レオルドが一人で守り続けてきた土地。誰も近くに置かなかった男が、自分に来てくれと言った。君を守ると言った。
「……そうですか」

 夕方、セレナはレオルドを探した。
 城の北側、見張り台の下にいた。一人で北の空を見ていた。セレナが近づくと彼は振り返った。昨夜と同じ灰色の瞳。
「昨夜は」
 セレナは言った。
「心配をかけました。すみません」
 レオルドは何も言わなかった。
「でも、代償のことは変えられません。星読みはそういうものです。だから私は」
「セレナ」
 遮られた。
 レオルドが真っすぐにセレナを見た。
「俺はお前の星読みを止めたいわけじゃない」
「では」
「お前が一人で削れていくのが嫌だ」
 風が吹いた。
「代償があるなら、俺に言え。体が辛いなら、俺に言え。一人で抱えるな」

 セレナは目を瞬いた。

 誰かに、言っていいのだろうか。弱いところを、見せていいのだろうか。王都では弱みを見せれば付け込まれた。不吉と呼ばれた。だから全部一人で抱えてきた。

「……どうしてそんなに守ってくれるんですか」
「君が必要だからだ」
 レオルドはまっすぐに言った。
 その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。
 必要なのは星読みとしてであって、私自身ではないのだと、言われた気がした。
「星読みとして、ではないのか、と聞きたいか」
 セレナは何も言えなかった。見透かされたことに驚いた。
「両方だ」
 彼は続けた。
「星読みとして必要だ。それは本当のことだ。だがそれだけじゃない」
 それ以上は言わなかった。しかしセレナには、何か伝わった気がした。うまく言葉にはできないけれど。
「私は」
 セレナは言った。
「ここに残ります」
 レオルドの目が、わずかに揺れた。
「お世話になります、公爵」
「レオルドでいい」
「……レオルド、様」
「様もいらない」

 セレナは少しだけ、笑った。初めて笑った気がした。ここに来てから。

 その夜。

 セレナは一人で星を見た。
 ノートを膝に乗せ、空を見上げる。王都では気づかなかった星が、ここからは見える。北の空はどこまでも広い。
 ふと、星図に目を落とした。
 今夜も確認する。自分の星を。自分の未来を。
 ペンが止まった。

 東の空の端。そこに見えてはいけないものが見えた。複数の星が、ゆっくりと動いている。その軌跡が描く形を、セレナは知っていた。古い文献で見たことがある。星術師たちが最も恐れた配置。

 手が震えた。
 震えを抑えながら何度も、何度も計算した。答えは変わらない。
 これは。
「セレナ」
 背後でレオルドの声がした。今夜も来ていた。
「……星が」
 声が掠れた。
「王国崩壊の星が、出ています……いいえ。ずっと出ていたんです」
 レオルドが隣に立った。セレナの手元を見た。震える手で握られたペン。羊皮紙に書き込まれた計算の跡。

 長い沈黙の後、レオルドが呟いた。
「やはり君だった」
 セレナは顔を上げた。
「星が示した運命の人は」
 レオルドは夜空を見上げていた。その横顔に、どこか最初から知っていたような静けさがあった。
「え?」
「君はこの国の未来を変える。だから俺は、君の未来を守る」

 風が吹いた。北の夜に、星が瞬く。
 セレナは夜空を見上げた。王国崩壊の星が、静かにそこにある。恐ろしい。しかし同時に、不思議と心が定まっていく感覚があった。

 隣に、レオルドがいる。
 この空の下に、自分の居場所がある。
 なら、まだ星を読める。
「星は未来を示します。でも……ほんの少しだけ。変えることもできます」
 失うものがあることは、もう知っている。
 それでも読むのだと、セレナは自分で決めた。
 誰かに命じられたからではない。
 この空の下で守りたいものができてしまったからだ。
 逃げるためではなく、守るために読む。
 そう決めたのは、たぶん今が初めてだった。

北の空で、星がひとつ静かに瞬いた。