「可哀想に。まだ中身があるなんて」

放課後の教室は、まだ悪意でざわついていた。

「ねえ、あの子んち、今日もやってるのかな」
「毎晩怒鳴りあいとかウケる。ヤバいだろ」

秘密を話したのは一人だけだった。信じたのに、半日で教室じゅうに広まっていた。少女が立つだけで、ひそひそ声は波のように広がる。笑い声。好奇の視線。囁き。

人気のない渡り廊下で、少女は立ち止まる。

「……もう、やだ」

「そうでしょうね」

夕暮れ。薄闇の影の中に、白い男が立っていた。輪郭だけがはっきりしている。きれいに笑っているのに、目だけがひどく静かだ。教師でも生徒でもないのに、最初からそこにいたみたいに――自然な。

「家でも外でも傷ついて。可哀想に」

――男の声音は、哀れみ。

「そんなに痛いのに、まだ中身が残っているなんて(・・・・・・・・・・・・・)

男はしゃがみ、少女の胸元へ指先をそっと当てた。服の上から触れただけなのに、冷たさが皮膚を抜け、胸の奥へ沈んでくる。撫でられているみたいにやさしいのに、ぞっとするほど深い。爪の先が見えない場所をなぞるたび、胸の内側で何かがかすかに軋んだ。

「……え」

肺でも心臓でもない場所を、細い指がゆっくり探る。母の怒鳴り声。父の罵声。教室の視線。信じていた友達の嘲笑。触れられるたび、それらが胸の内側でぬるりと剥がれた。痛い。けれど肉が裂ける痛みではない。明日を怖がる場所だけが、丁寧に――抜かれていく。

ずる、と耳の奥で音がする。

白い指のあいだから、黒く濡れたものが糸を引いて現れた。悍ましく臓物にも見えるそれは、脈打ちながら少女の泣き声みたいな細い音を立てている。男の白い肌の上でだけ、それはやけに美しく見えた。濡れた花弁のように、ありえないほど静かに震えていた。

「ああ、これですね」

男はうっとり囁き、その塊へやさしく息を吹きかけた。ひゅ、と縮んだそれは、花びらみたいにほどけて袖の中へ吸い込まれ、消える。

その瞬間、胸が()になった。

「よかった。もう痛くないでしょう?」

――少女は頷く。渡り廊下の向こうでは、まだ誰かが誰かを悪意で笑っている。男はその声へ静かに顔を向けた。その微笑みは、救いに似ていて、ひどく冷たかった。

まるで、この都市に満ちる醜いざわめきすべてを、これから一つずつ、同じやり方で美しく空っぽにしていく未来が、もう決まりきっているみたいに。