ぼくたちは送迎の車で、やっとお屋敷に帰ってきた。
とくに何かをやったわけでもないのに、なぜかものすごく疲れていて、へとへとだった。
ダイニングルームのイスに、へにゃりと座ると、実折くんが紅茶を淹れてくれた。
「主さま。アールグレイです」
見ると、李豆くんはダイニングテーブルの花をととのえている。
安蘭くんは、ティーワゴンでスイーツを運んできていた。
みんな、しっかりと執事としての仕事をしてくれている。
「ありがとう。みんなも疲れているのに、ごめんね」
「いえ。……内申点のためですから」
実折くんはあっさりというけれど、表情ははじめて出会ったときよりも、おだやかなものに見えた。
実折くんに「すごいよ」と褒めたときも、「別に」と答えていたときがあった。
でも、そのころよりもずっと、打ち解けてきた——ような気がする。
安蘭くんが運んできたティーワゴンには、ケーキスタンドが乗っていた。
さまざまなチョコレートが、宝石のように乗せられている。
「どうぞ、主さま。ヴェルール・ノワールのショコラアソートだ」
安蘭くんがデザートプレートに、ミニトングでチョコレートを三つ乗せて、渡してくれる。
「何味?」
「ラベンダー、ゆず、ペッパー&チリだな。アールグレイにも、あうとおもうぜ」
ぼくはラベンダーのチョコレートを選んで、ぱくりと食べた。
ハーブの華やかなかおりと、チョコレートの甘さがマッチしていて、はじめての味わいだ。
「うん、おいしい」
「そうか。よかった。選んだかいがあったな」
李豆くんがデザインしてくれた白いフラワーポットには、トルコキキョウ、アイリス、スターチス、クリーム色のカーネーションが彩りよくいけられている。
ブルーとホワイトを基調とした、上品な仕上がりだ。
「李豆くん。フラワーアレンジメントもできるの?」
うれしそうに、李豆くんが振り返る。
「うん。主さまの執事になるときに、ひととおりのことは勉強したよ。まあ、勉強したっていっても短期間のことだったからね。ぼくら三人、それぞれ得意分野を作ることにしたんだ。実折は紅茶やコーヒーをおいしく淹れる、安蘭は気分にあったスイーツを選ぶ、ぼくは季節にあったフラワーアレンジメントを作る……こんなかんじにね」
「そうだったんだ。たしかに、実折くんが淹れてくれた紅茶は、ぼく好みの濃さですごくおいしい。疲れたからチョコレートが食べたいと思っていたら、安蘭くんがちょうど運んできてくれた。李豆くんの生けてくれた花も、見ていたら心が癒されるきれいさだよ」
「ふふ、よかった♡ いまからの時間はゆっくりするといいよ。今日は、疲れたでしょ」
「うん、ありがとう」
ぼくは、ゆずのチョコレートを口に放りこんだ。
さわやかなかおりが口のなかに広がる。
アートオークションは、土曜日。明後日だ。
八十嶋さんは、きっと来るだろう。
止めなければならない。
望月さんをこれ以上、苦しめてはいけない。
「八十嶋さんに、なんとかわかってもらわないと」
思っていたことが、つい口に出てしまっていたらしい。
いつのまにか、執事たちがぼくのそばに立っていた。
「主さまの元気を取り戻すのも、執事の役目だね」
李豆くんが、足元にひざまずいて、そっと一輪の赤いバラを差し出してきた。
キョトンとしていると、李豆くんがいたずらっぽくほほ笑む。
「シークレットパーティのとき、安蘭に同じ花をあげてたでしょ? ぼくも主さまにしてあげたいと思ってさ。これをラッキーアイテムだと思って、持っていて? いいこと、ぜったいあるよ!」
「ふん、主さまのマネなら誰にでもできるわな」
「安蘭! せっかくのぼくのアピール中に、よけいなこといわないでよ!」
安蘭くんの胸をぽこり、と叩く李豆くん。
すると実折くんが安蘭くんを押しのけ、「ふむ」とあごに手を添える。
「主さまにプレゼントを渡し、内申点を稼ごうという魂胆ですか? 小賢しいですね」
「だったら実折もすれば~?」
李豆くんが挑発するように笑うと、実折くんは光の速さでスマホを操作した。
数秒後、ぼくのスマホに実折くんから、SNSのDMが届く。
一枚の画像だけが届いた。
真っ白くて大きいサモエド――犬の写真だ。
「最近、お気に入りの動物チャンネルで見ているサモエドの『ポテト』くんです。ラッキーアイテム以上の御利益があるはずです。オレは、ポテトくんの顔を見るだけで癒されます」
「あ、ありがとう。実折くん」
早口でまくし立てられ、苦笑しながらスマホを閉じる。
いつのまにか、ぼくへのプレゼントタイムになってないか?
なんだか、安蘭くんがあわあわとあわてている。
内申点のためとはいえ、これ以上気を遣う必要はないって、安蘭くんにいわないと。
そうおもっていたら、安蘭くんがティーワゴンへと走っていき、すぐに戻ってくる。
「主さまっ。い、いまからオレ……チョコレートを画材にして、主さまの肖像画を描く! これはフードアートといって、食べれば一瞬でなくなる儚さと、ふつうの画材でつくられた作品とまた違うアプローチができる繊細なジャンルだが、いまのオレなら――」
「いや、いいいい! 気持ちだけでうれしいよっ!」
「っく……オレだけ、なにもできないなんて……!」
本心でいったことだけれど、安蘭くんは、しょんぼりとうなだれてしまった。
「う、うーん」
ぼくは考える。
「それじゃあ、今度の間藤さんのアートオークションで、いちまい何か選んでもらおうかな。もちろん、おじいさまと間藤さんの許可をとってだけどね。おじいさまなら喜んで、代理入札くれるだろうから。それをダイニングルームに飾ろうよ」
オークションは、その場で作品の金額をいいあって、競り落とすんだ。
納得のいく金額を入札できたら、晴れて作品は自分の手元に。
芸術のためなら、おじいさまはぼくたちの代わりにいくらでも代理で入札してくれるだろうからね。
「も、もちろんだ! ぜったいいい絵を選ぶぜ!」
「えー、ずるーい! ねえ、主さま。ぼくもいい?」
「オレも、選びたいです」
「えっ? ぜ……全員分は……うーん……」
へらり、と苦笑する。
でも少しだけ、気になった。
みんなが気に入る絵は、どんな絵なんだろう?
こんなに四人で盛りあがったのは、初めてなんじゃないかな。
執事たちのおかげで緊張していた気持ちが、ほぐれていくのを感じた。
■
ついに、土曜日。
間藤さんの、アートオークションの日になった。
会場は、間藤さんのアトリエ。
これまでの過去作やデッサンが出品されるらしい。
このあいだのハデなシークレットパーティとは違い、今回のアートオークションは、ささやかに行われるみたいだ。
間藤さんのアトリエは、ピンクやイエローの壁紙が貼られ、豪華な額縁にはさまざまな絵が飾られている。
いたるところにある、大きな観葉植物は高い天井に届くほどに育ち、フランス窓からは温かな光が差しこんでいる。
しかし、カーテンはしっかりと光がさえぎられるものになっており、絵を光から守るため、ふだんは閉められているようだ。
すでに多くの参加者が、壁に飾られた絵をまじまじと鑑賞している。
「やあ、十六夜の後輩たち。よく来てくれたね」
アトリエの入り口で、きょろきょろしていたぼくたちに、間藤さんが駆け寄ってくる。
「菅主理事長から聞いてるよ。競り落としたいものがあったら、遠慮なくパドルをあげてくれてかまわないからね。すでに、下見会がはじまっているよ。さあ、こちらへどうぞ」
間藤さんに着いていくとちゅう、李豆くんがぼくに耳打ちをしてきた。
「主さま。パドルってなに? 下見会って?」
「ぼくもアートオークションは、はじめてだよ。おじいさまから聞いた話では、下見会では、出品されている作品を事前に見られるみたい。あそこの壁に飾られている絵は、出品予定の作品たちのようだよ」
「へえ〜!」
「パドルは、参加者にくばられる番号札のこと。オークションのときには、パドルをあげて、入札したい金額をいうんだ」
「そうなんだ……わっ〜! なんか、緊張してきた……!」
「ぼ、ぼくもだよ……」
しかし、安蘭くんと実折くんは、まったく緊張していないようすだ。
安蘭くんは、小さいころにアートオークションに行ったことがあるらしい。
実折くんも知識として知っているようで、オークションの流れもわかっているみたい。
下見会では、朝焼けシリーズ以前の初期のころの作品が多く出品されるようだ。
ぼくは、真剣に作品を鑑賞している安蘭くんの隣に、そっと立つ。
「気に入った絵はあった?」
今回のアートオークションでは、安蘭くんが落札したい絵を入札して競り落とすのも目的のひとつ。
いつもより、安蘭くんも目が輝いているのがわかる。
「ビビッとくるものがあれば、オレはすぐに決めるぜ。でも、まだピンとくるものは——ん? あれは……」
安蘭くんの目に止まったのは、大きな銀杏の木と夕陽が溶けこむように描かれた一枚だった。
間藤さんが、感心したようにいう。
「あれは、わたしが描いたゆいいつの夕陽だよ。『夕陽に染まる銀杏』というタイトルで、朝焼けではない貴重な、初期のころの作品だね」
安蘭くんの瞳が、きらりと光った。
「オレ、この絵を競り落とすっ」
オークションがはじまる。
参加者はアトリエの中央にて集まり、立ち見スタイルで進んでいく。
意外にも、なごやかな雰囲気のなか、間藤さんの知り合いのオークショニアによって作品が運ばれてくる。
パドルが次々とあがり、わきあいあいと作品が落札されていくけれど、ほとんどがかなりの金額で落札されていく。
やがて、安蘭くんのお目当ての『夕陽に染まる銀杏』がぼくたちのまえに登場する。
「いよいよだね」
「がんばれ、安蘭」
ぼくと李豆くんが応援し、安蘭くんがうなずいた。
さっそく、資産家らしい身なりの男性がパドルをあげた。
「二百万!」
そこからは、なだれるようにパドルがあがり、安蘭くんは、なかなかパドルをあげない。
ぼくは安蘭くんに、気遣うように耳打ちする。
「安蘭くん。おじいさまは、いくら使ってもいいといってくれているから、入札額を気にする必要はないよ」
「わ、わかってるけど緊張で、この勢いに入っていけなくて……」
実折くんが、ふしぎそうに腕を組んだ。
「フィギュアスケートの大会に出てたときは、そんなこと一度もいったことなかったでしょうに」
「うるせえな。こ、こっちのほうが緊張するんだよ」
「まったく……」
実折くんが、安蘭くんに何かを渡した。
それを見た安蘭くんは、目を丸くする。
「おまえ、なんでこれ」
「どうせ、油断して持って来ていなかったんでしょう。体力無尽蔵アスリートが聞いてあきれますね」
なんて嫌味っぽくいっている実折くんだけど、安蘭くんの瞳は手のなかのものを釘づけだった。
それは、個包装されたヘーゼルナッツのミルクチョコレートだった。
ついのぞきこんでしまい、安蘭くんが恥ずかしそうに顔を赤らめさせた。
「フィギュアの大会に出る前は、いつも『これを食べれば緊張なんてなくなる』って、思いこんでいどんでたんだ。だから、いつもいい成績を出せていたんだが、まさかアートオークションでこんなに緊張するとは思ってなくて」
「そっか。それを実折くんが予測して――用意してきてくれてたんだ」
ぼくがいうと、実折くんは不満そうにそっぽを向いてしまう。
「データにもとづいて、準備していただけです。主さまにお手をわずらわせないよう執事として、当然のことをしただけです」
でも、安蘭くんはうれしそうだ。
実折くんも、まんざらもなさそうだよね。
李豆くんと顔を見あわせて、にやにやとしてしまう。
安蘭くんがチョコレートを食べ、いきおいよく『78』と書かれたパドルをあげた。
「八百万!」
すると、オークショニアの声が響き渡る。
「八百万円、八百万円……ほか、いらっしゃいませんか?」
アトリエ内に、波が打ち寄せるまえような静けさがおとずれた。
「……『78』番、八百万円で落札されました!」
安蘭くんがよろこびにあふれた顔で、ぼくを振り返った――そのとき。
ざわり、とアトリエ内に、不穏などよめきがあがった。
「間藤っ!」
その怒りに満ちた声に、ぼくたちは心臓が跳ねあがった。
――八十嶋さんだ。やっぱり、来たんだ。
今回は、マスクもサングラスもしていない。
八十嶋さんがオークション参加者たちをかき分け、間藤さんの前に立ちはだかった。
間藤さんの手には、また赤いペンキが握られていた。
間藤さんに駆け寄ろうとしたとき、八十嶋さんがペンキ缶をぼくたちに向ける。
「見てたよ。この絵――競り落としたんだろう? ペンキをかけられたくなかったら、おとなしくしていろ」
とたんアトリエ内の空気が、参加者たちの動揺で震える。
ぼくたちは、その場から動けない。
八十嶋さんは、ギロッと間藤さんをにらみつける。
「……ずっと、違和感があったんだ。なんで十六夜学園の昇降口に、卒業生でもないおまえの、しかも当時はまだ無名だった間藤ドヲプの絵を、理事長が飾ったのかって! でも、すぐにわかった。資産家で有名な菅主理事長が経営する十六夜学園の昇降口に飾られれば、すぐに口コミとなってセレブのあいだで話題になる。間藤! ――おまえの絵が昇降口に飾られると、すぐにおまえはSNSで話題になり、またたくまにバズり……一気に大人気アーティストになった、おまえの計算通りにな!」
「なっ……誤解だっ! SNSで話題になったのは、ぐうぜんだし……菅主理事長が昇降口にわたしの絵を飾ってくれたのも、好意からだ」
間藤さんが戸惑っているけれど、八十嶋さんは聞く耳をもっていないようすだった。
「十六夜の卒業生でもないのにおまえが出しゃばったから、望月瀬音の絵が注目されないじゃないか!」
「それは、きみが彼の絵を買い占めているからだろう! 他の人の手に渡れば、彼は絵がもっと多くの人の目に触れる機会を得られるかもしれ――」
「わ、わたしのせいだっていいたいのか!」
アトリエに、八十嶋さんの怒鳴り声が響く。
「望月の一番のファンなんだぞ!」
八十嶋さんが、ペンキ缶のフタを開け、ブンッと振りあげた。
「安蘭くん! 八十嶋さんを止めて!」
「かしこまりました――っと!」
飛ぶように駆けだした安蘭くんは、あっというまに八十嶋さんの背後に立った。
しかし、八十嶋さんはそれを見越していたのか、振り返り、ペンキを安蘭くんにかけた。
「うわっ!」
「おまえら、やっぱり出てきたな。じゃまするな」
「それはこっちのセリフだよ!」
李豆くんが、安蘭くんに駆け寄り、ハンカチを差し出した。
八十嶋さんは背負っていたリュックから、新しいペンキ缶を取り出す。
まだ、諦めていないみたいだ。
オークション参加者たちは、何が起こっているのかわからないようで、みんなあっけに取られている。
「み、実折くん! どうしよう……!」
「うーん……」
実折くんはスマホを操作しながら、打開策を探しているようだった。
「望月さんにここへ来てもらい、説得してもらうのが、いちばんなのかもしれませんが……」
「で、でも、望月さんは、八十嶋さんに会うことは難しいとおもう……」
「オレもそう思います。しかし、他の解決策となると……八十嶋さんに関する情報が少なすぎるのです。オレたちで、八十嶋さんを説得できることができればいいのですが」
ぼくは、ハッとする。
「ぼくたちで、八十嶋さんを説得……」
十六夜学園に在学していたころは、馬術部だったという八十嶋さん。
立待乗馬クラブの光景が、頭に思い浮かぶ。
ぼくはスマホを取り出すと、すいすいと動かした。
目的のものを見つけたとたんに、頭のなかのバラバラだったパズルが完成したような気持ちになる。
ふと、ぼくは実折くんに、思いつきをたずねてみる。
「実折くん。実折くんは、ベルンっていう犬を飼っていたんだよね」
「え、ええ。サモエドという犬種の大きな犬でしたよ」
「写真をいっぱい撮って、すごく可愛がっていたっていってたよね」
「もちろんです。アルバムもたくさんありますよ」
「犬を飼ったことがないから聞くんだけど……ベルンを飼ってからは、他の犬もすきになったりする?」
「もちろんですよ。サモエド以外の犬も、だいすきです。オレは、だんぜん犬派ですね――しかし、主さま。それがどうかしましたか?」
ぼくは、にこりとうなずいた。
「少し……八十嶋さんと話してみる」
「いけません。危険ですよ。八十嶋さんは、オレたち執事にまかせてください」
「大丈夫。なんとかなるかもしれない」
安心してもらえるように、ジッと実折くんを見つめる。
実折くんは、静かに息をついた。
「万が一のために、つねに安蘭をそばにひかえさせておきましょう」
「ごめんね。ありがとう」
ぼくは睨み合っている安蘭くんと八十嶋さんに近づいた。
「主さま? どうしたの?」
李豆くんが心配そうに駆け寄ってくる。
ぼくは、八十嶋さんに向き直ると、スマホを見せつけた。
立待乗馬クラブのブログで、さっき拾いあげた記事だった。
『11月4日 タイトル:学生時代の思い出☆
みなさん、こんにちは。
立待乗馬クラブ、オーナーの八十嶋です。
わたしの学生時代の半分は、馬とともにありました。
部活はもちろん、馬術部でしたよ。
今回は、そんな若かりし日の、少し切ないお話をさせてください。
馬術部では、ブルー号という馬に乗っていました。
ブルーは、わたしにとても懐いてくれていました。
わたし以外の部員を乗せたがりませんでした。
ブルーは、とても臆病な性格だったのです。
わたしはそれを理解し、ブルーを励まし続けました。
だからこそブルーは、わたしだけに懐いてくれました。
しかしある日、他の部員にむりやり走らされたブルーは転倒し、そのまま天国へ行ってしまいました。
わたしはブルーとの急な別れに、泣きくずれました。
そんなかなしい時期に、運命のように出会ったのです。
同じ学園の美術部の生徒が描いた美しいペガサスの絵に!
わたしは、おもいました。
「ブルーだ! 絵のなかにブルーがいる!」――と。
そのペガサスは、ブルーにそっくりだったのです。
わたしはすぐにその絵の、そして作者のファンになりました☆
いまでもブルーはわたしの心のなかに、そして彼が描いた絵のなかに生き続けているのです。
みなさんも、彼の絵に会いたくなったら、ぜひ立待乗馬クラブへお越しくださいね☆
八十嶋』
ぼくのスマホをするどい目で射抜きながら、八十嶋さんは顔をしかめた。
緊張しながらも、ぼくは八十嶋さんに語りかける。
「……八十嶋さんの乗馬クラブのカウンターや壁に飾ってあった写真、あれはぜんぶ、ブルーの写真ですよね?」
「……だから、なんだっていうんだ?」
低くうなるように、八十嶋さんがいった。
ぼくは緊張で震えながらも、ぐっとこらえ、話を続ける。
「ブルーが他の人を乗せてしまったから、ブルーはケガをし、天国にいってしまったと、八十嶋さんはおもっているんですよね? だから、今度はこそはと、望月さんのペガサスの絵を他の人に渡さないようにしている……」
「――それのなにがわるいんだっ!」
八十嶋さんは、泣いていた。
ぼろぼろと涙をこぼし、ペンキ缶を握りしめている。
「わたしのブルーは、こわがりだったんだ! だから、わたしに特別に懐いてくれていた。わたしはブルーの性格をわかっていたから、こわがらせないように乗ってあげていた。ちゃんと他の部員たちにもブルーのことを説明していたのに、やつらはそれをちゃんと理解しないまま、他の馬にするようにブルーに乗った。結果、おびえたブルーはコースで転んで、そのまま……」
八十嶋さんは、その場にうずくまり、涙に声を震わせた。
ぼくは、おだやかに、しかしはっきりと八十嶋さんにいう。
「でも、わかってほしいんです。望月さんのペガサスは……ブルーではないんですよ」
「わかってるよ! でも、彼の絵でしかもう……この世でブルーに会える方法はないんだ! ぜんぶ買い占めないと、気が済まないんだよ!」
子どものように泣きじゃくりながら、八十嶋さんは叫ぶ。
ぼくは、八十嶋さんの肩にそっと触れた。
「八十嶋さん。ブルーに会いたいんでしょう?」
「え……?」
八十嶋さんが、パッと顔をあげる。
ぼくは、にっこりとほほ笑んだ。
執事たちも、八十嶋さんもキョトンとしている。
しかし、ぼくには考えがあったんだ。
「もう、こんなことは止めて……まっすぐにブルーに会いに行きましょう。ね?」
■
そして――数か月後。
立待乗馬クラブに、新しい額縁が増えていた。
大きなキャンバスに、自由に駆け回る一頭の馬。
額縁の下に、小さなキャプションがついている。
『ブルー号』
あたらしい望月瀬音さんの絵だった。
八十嶋さんは、それを涙を浮かべて見あげている。
今日は、できあがった望月さんの絵を、立待乗馬クラブに届けにきたのだ。
ぼくたち四人と八十嶋さんは、約束をしていた。
『望月さんに、ブルーの絵を描いてもらうよう依頼をしてあげる。だからこれ以上、望月さんの絵を買い占めることは止めること。もちろん、手紙やメールなどの迷惑な行為も止めること』
八十嶋さんは、絵を買い占めることばかりに気を取られて、望月さんにブルーの絵を描いてもらうということは、まったく思い浮かばなかったみたい。
ぼくたちの提案を、意外なほどにあっさり受け入れてくれた。
乗馬クラブに、ブルーの絵が飾られたとたん、八十嶋さんは頬をほてらせながら、ぼくを振り返った。
「菅主くん! ほんとうにありがとう……。きみのおかげで、わたしの乗馬クラブにブルーが戻ってきたよ。ほんとうに、ほんとうにありがとう」
ぼくの鼻にぶつかりそうなほどに接近してくる八十嶋さんを、安蘭くんが引きはがしてくれた。
「はいはい。そこまでな」
「まったく……主さまの人たらしは、あいかわらずなんだから」
李豆くんが、あきれたように両手をあげた。
スマホをながめつつ、実折くんがいう。
「それじゃあ、目的は果たしましたので、帰りましょう。主さま」
八十嶋さんが、ぼくの手を握る。
「もう帰るのかい? お茶でも飲んでいけばいいよ」
このあいだまで、ぼくたちのことを睨みつけていたはずの八十嶋さんは、くるりと手のひらを返したみたいに、すっかりとおだやかになっていた。
李豆くんが、ぼくと八十嶋さんのあいだに割って入る。
「主さまは、お屋敷でぼくたちのお茶を飲むので♡ それじゃあ、失礼しまーす」
■
立待乗馬クラブから帰ってきたぼくたちは、すぐに望月さんに許可を取り、十六夜学園の昇降口に『波打ち際のうつつ』を飾った。
おじいさまからのリクエスト『主と執事の絆を深めるためのチャレンジ』も、ぶじに完了。
ようやく、ひと段落ついて、ぼくたちは安堵の息をついた。
菅主邸。午後十四時。
ダイニングルームで、実折くんが淹れてくれたダージリンを飲みながら、ぼくはうれしさに笑みをこぼした。
「望月さん、よろこんでたね。八十嶋さんのことが落ち着いたのももちろんだけど、やっとファンに自分の絵が届けられるって」
「そうだね~。まさか淡月組で執事やるってなったときは、こんな事件を解決するなんて夢にもおもわなかったよ」
李豆くんが、ぼくの向かい側に座りながらいう。
テーブルには、ガラスの花器に色とりどりのバラが浮かぶように生けてある。
李豆くんが、選んだものだ。
実折くんも、しみじみとティーポットを揺らしながら、いう。
「まあ、はじめは乗り気じゃありませんでしたがね。続けてみれば、こういう部活もなかなか面白いです。単独行動にはない刺激がありますからね」
安蘭くんが、ぼくの前にデザート皿を出してくれた。
ラズベリージャムがたっぷりつまった、ヴィクトリアケーキだ。
「そうだ。主さま。届きましたよ。間藤ドヲプの『夕陽に染まる銀杏』!」
「ほんとう?」
フォークで、ケーキを切り分けながら、ぼくはパッと顔をあげた。
「安蘭くん、どこに飾ろうか?」
「もちろん、オレが借りている客間の壁に――」
「じゃなくて~。みんなが見られるダイニングルームがいいよね? 安蘭♡」
安蘭くんの本音を、李豆くんがかき消した。
ぎゅ、と眉根をよせる安蘭くんだったけど、すぐにくちびるのはしをつりあげ、笑う。
「まっ。たまには、意見に流されてみるのもいいな。いいぜ、ここに飾ろう。そういえば……この絵を競り落とすことになったのいきさつって、主さまへプレゼントをしていたとき、だったもんな」
「ああ、内申点を稼ごうとして……だったっけ。すっかり忘れてたねえ」
李豆くんが笑い、つられて安蘭くんも笑う。
実折くんも、少しだけほほ笑んでいるように見える。
「ぼくたちの絆、どうなったかな? 主さまはどうおもう?」
李豆くんにいわれ、ぼくはほほ笑んだ。
「ぼくは今回のことで、みんなとなかよくなれたとおもってるよ」
すると、李豆くんは不満そうにいう。
「え~? もう、なかよくなれたとおもっちゃったの?」
「ええっ?」
ぼ、 ぼくの勘違いだった?
最初とくらべたら、すっかり打ち解けたとおもってたんだけど。
早とちりだったんなら、ショックかも……。
しかし、李豆くんが長いダイニングテーブルにもぐりこみ、下からひょっこり現れて、ぼくの隣に座った。
実折くんが「執事としてあるまじき行為ですよ」と叱っているけれど、李豆くんは無視している。
「ぼくと主さまは、親友になれるくらいに、もっともっとなかよくなれるよ。まだ卒業までに、たっぷり時間はあるもんね♡」
にっこりと、アイドルみたいに小首を傾げていう。
「親友?」
「うん!」
すると、安蘭くんと実折くんが、声をそろえていった。
「内申点を稼ぐなっ」
「内申点を稼ごうとしないでください」
「ちがうよ! ぼくは本気でなりたいんだもーん。主さまの親友に!」
わいわいと騒ぎはじめた執事たちを置いて、ぼくはヴィクトリアケーキをついばみ、紅茶を飲んだ。
生けられたバラの花を楽しみながら、つぶやく。
「そうだね。いつか、みんなと並んでお茶を飲みたいな。主と執事としてじゃなく、友達として……」
おわり
とくに何かをやったわけでもないのに、なぜかものすごく疲れていて、へとへとだった。
ダイニングルームのイスに、へにゃりと座ると、実折くんが紅茶を淹れてくれた。
「主さま。アールグレイです」
見ると、李豆くんはダイニングテーブルの花をととのえている。
安蘭くんは、ティーワゴンでスイーツを運んできていた。
みんな、しっかりと執事としての仕事をしてくれている。
「ありがとう。みんなも疲れているのに、ごめんね」
「いえ。……内申点のためですから」
実折くんはあっさりというけれど、表情ははじめて出会ったときよりも、おだやかなものに見えた。
実折くんに「すごいよ」と褒めたときも、「別に」と答えていたときがあった。
でも、そのころよりもずっと、打ち解けてきた——ような気がする。
安蘭くんが運んできたティーワゴンには、ケーキスタンドが乗っていた。
さまざまなチョコレートが、宝石のように乗せられている。
「どうぞ、主さま。ヴェルール・ノワールのショコラアソートだ」
安蘭くんがデザートプレートに、ミニトングでチョコレートを三つ乗せて、渡してくれる。
「何味?」
「ラベンダー、ゆず、ペッパー&チリだな。アールグレイにも、あうとおもうぜ」
ぼくはラベンダーのチョコレートを選んで、ぱくりと食べた。
ハーブの華やかなかおりと、チョコレートの甘さがマッチしていて、はじめての味わいだ。
「うん、おいしい」
「そうか。よかった。選んだかいがあったな」
李豆くんがデザインしてくれた白いフラワーポットには、トルコキキョウ、アイリス、スターチス、クリーム色のカーネーションが彩りよくいけられている。
ブルーとホワイトを基調とした、上品な仕上がりだ。
「李豆くん。フラワーアレンジメントもできるの?」
うれしそうに、李豆くんが振り返る。
「うん。主さまの執事になるときに、ひととおりのことは勉強したよ。まあ、勉強したっていっても短期間のことだったからね。ぼくら三人、それぞれ得意分野を作ることにしたんだ。実折は紅茶やコーヒーをおいしく淹れる、安蘭は気分にあったスイーツを選ぶ、ぼくは季節にあったフラワーアレンジメントを作る……こんなかんじにね」
「そうだったんだ。たしかに、実折くんが淹れてくれた紅茶は、ぼく好みの濃さですごくおいしい。疲れたからチョコレートが食べたいと思っていたら、安蘭くんがちょうど運んできてくれた。李豆くんの生けてくれた花も、見ていたら心が癒されるきれいさだよ」
「ふふ、よかった♡ いまからの時間はゆっくりするといいよ。今日は、疲れたでしょ」
「うん、ありがとう」
ぼくは、ゆずのチョコレートを口に放りこんだ。
さわやかなかおりが口のなかに広がる。
アートオークションは、土曜日。明後日だ。
八十嶋さんは、きっと来るだろう。
止めなければならない。
望月さんをこれ以上、苦しめてはいけない。
「八十嶋さんに、なんとかわかってもらわないと」
思っていたことが、つい口に出てしまっていたらしい。
いつのまにか、執事たちがぼくのそばに立っていた。
「主さまの元気を取り戻すのも、執事の役目だね」
李豆くんが、足元にひざまずいて、そっと一輪の赤いバラを差し出してきた。
キョトンとしていると、李豆くんがいたずらっぽくほほ笑む。
「シークレットパーティのとき、安蘭に同じ花をあげてたでしょ? ぼくも主さまにしてあげたいと思ってさ。これをラッキーアイテムだと思って、持っていて? いいこと、ぜったいあるよ!」
「ふん、主さまのマネなら誰にでもできるわな」
「安蘭! せっかくのぼくのアピール中に、よけいなこといわないでよ!」
安蘭くんの胸をぽこり、と叩く李豆くん。
すると実折くんが安蘭くんを押しのけ、「ふむ」とあごに手を添える。
「主さまにプレゼントを渡し、内申点を稼ごうという魂胆ですか? 小賢しいですね」
「だったら実折もすれば~?」
李豆くんが挑発するように笑うと、実折くんは光の速さでスマホを操作した。
数秒後、ぼくのスマホに実折くんから、SNSのDMが届く。
一枚の画像だけが届いた。
真っ白くて大きいサモエド――犬の写真だ。
「最近、お気に入りの動物チャンネルで見ているサモエドの『ポテト』くんです。ラッキーアイテム以上の御利益があるはずです。オレは、ポテトくんの顔を見るだけで癒されます」
「あ、ありがとう。実折くん」
早口でまくし立てられ、苦笑しながらスマホを閉じる。
いつのまにか、ぼくへのプレゼントタイムになってないか?
なんだか、安蘭くんがあわあわとあわてている。
内申点のためとはいえ、これ以上気を遣う必要はないって、安蘭くんにいわないと。
そうおもっていたら、安蘭くんがティーワゴンへと走っていき、すぐに戻ってくる。
「主さまっ。い、いまからオレ……チョコレートを画材にして、主さまの肖像画を描く! これはフードアートといって、食べれば一瞬でなくなる儚さと、ふつうの画材でつくられた作品とまた違うアプローチができる繊細なジャンルだが、いまのオレなら――」
「いや、いいいい! 気持ちだけでうれしいよっ!」
「っく……オレだけ、なにもできないなんて……!」
本心でいったことだけれど、安蘭くんは、しょんぼりとうなだれてしまった。
「う、うーん」
ぼくは考える。
「それじゃあ、今度の間藤さんのアートオークションで、いちまい何か選んでもらおうかな。もちろん、おじいさまと間藤さんの許可をとってだけどね。おじいさまなら喜んで、代理入札くれるだろうから。それをダイニングルームに飾ろうよ」
オークションは、その場で作品の金額をいいあって、競り落とすんだ。
納得のいく金額を入札できたら、晴れて作品は自分の手元に。
芸術のためなら、おじいさまはぼくたちの代わりにいくらでも代理で入札してくれるだろうからね。
「も、もちろんだ! ぜったいいい絵を選ぶぜ!」
「えー、ずるーい! ねえ、主さま。ぼくもいい?」
「オレも、選びたいです」
「えっ? ぜ……全員分は……うーん……」
へらり、と苦笑する。
でも少しだけ、気になった。
みんなが気に入る絵は、どんな絵なんだろう?
こんなに四人で盛りあがったのは、初めてなんじゃないかな。
執事たちのおかげで緊張していた気持ちが、ほぐれていくのを感じた。
■
ついに、土曜日。
間藤さんの、アートオークションの日になった。
会場は、間藤さんのアトリエ。
これまでの過去作やデッサンが出品されるらしい。
このあいだのハデなシークレットパーティとは違い、今回のアートオークションは、ささやかに行われるみたいだ。
間藤さんのアトリエは、ピンクやイエローの壁紙が貼られ、豪華な額縁にはさまざまな絵が飾られている。
いたるところにある、大きな観葉植物は高い天井に届くほどに育ち、フランス窓からは温かな光が差しこんでいる。
しかし、カーテンはしっかりと光がさえぎられるものになっており、絵を光から守るため、ふだんは閉められているようだ。
すでに多くの参加者が、壁に飾られた絵をまじまじと鑑賞している。
「やあ、十六夜の後輩たち。よく来てくれたね」
アトリエの入り口で、きょろきょろしていたぼくたちに、間藤さんが駆け寄ってくる。
「菅主理事長から聞いてるよ。競り落としたいものがあったら、遠慮なくパドルをあげてくれてかまわないからね。すでに、下見会がはじまっているよ。さあ、こちらへどうぞ」
間藤さんに着いていくとちゅう、李豆くんがぼくに耳打ちをしてきた。
「主さま。パドルってなに? 下見会って?」
「ぼくもアートオークションは、はじめてだよ。おじいさまから聞いた話では、下見会では、出品されている作品を事前に見られるみたい。あそこの壁に飾られている絵は、出品予定の作品たちのようだよ」
「へえ〜!」
「パドルは、参加者にくばられる番号札のこと。オークションのときには、パドルをあげて、入札したい金額をいうんだ」
「そうなんだ……わっ〜! なんか、緊張してきた……!」
「ぼ、ぼくもだよ……」
しかし、安蘭くんと実折くんは、まったく緊張していないようすだ。
安蘭くんは、小さいころにアートオークションに行ったことがあるらしい。
実折くんも知識として知っているようで、オークションの流れもわかっているみたい。
下見会では、朝焼けシリーズ以前の初期のころの作品が多く出品されるようだ。
ぼくは、真剣に作品を鑑賞している安蘭くんの隣に、そっと立つ。
「気に入った絵はあった?」
今回のアートオークションでは、安蘭くんが落札したい絵を入札して競り落とすのも目的のひとつ。
いつもより、安蘭くんも目が輝いているのがわかる。
「ビビッとくるものがあれば、オレはすぐに決めるぜ。でも、まだピンとくるものは——ん? あれは……」
安蘭くんの目に止まったのは、大きな銀杏の木と夕陽が溶けこむように描かれた一枚だった。
間藤さんが、感心したようにいう。
「あれは、わたしが描いたゆいいつの夕陽だよ。『夕陽に染まる銀杏』というタイトルで、朝焼けではない貴重な、初期のころの作品だね」
安蘭くんの瞳が、きらりと光った。
「オレ、この絵を競り落とすっ」
オークションがはじまる。
参加者はアトリエの中央にて集まり、立ち見スタイルで進んでいく。
意外にも、なごやかな雰囲気のなか、間藤さんの知り合いのオークショニアによって作品が運ばれてくる。
パドルが次々とあがり、わきあいあいと作品が落札されていくけれど、ほとんどがかなりの金額で落札されていく。
やがて、安蘭くんのお目当ての『夕陽に染まる銀杏』がぼくたちのまえに登場する。
「いよいよだね」
「がんばれ、安蘭」
ぼくと李豆くんが応援し、安蘭くんがうなずいた。
さっそく、資産家らしい身なりの男性がパドルをあげた。
「二百万!」
そこからは、なだれるようにパドルがあがり、安蘭くんは、なかなかパドルをあげない。
ぼくは安蘭くんに、気遣うように耳打ちする。
「安蘭くん。おじいさまは、いくら使ってもいいといってくれているから、入札額を気にする必要はないよ」
「わ、わかってるけど緊張で、この勢いに入っていけなくて……」
実折くんが、ふしぎそうに腕を組んだ。
「フィギュアスケートの大会に出てたときは、そんなこと一度もいったことなかったでしょうに」
「うるせえな。こ、こっちのほうが緊張するんだよ」
「まったく……」
実折くんが、安蘭くんに何かを渡した。
それを見た安蘭くんは、目を丸くする。
「おまえ、なんでこれ」
「どうせ、油断して持って来ていなかったんでしょう。体力無尽蔵アスリートが聞いてあきれますね」
なんて嫌味っぽくいっている実折くんだけど、安蘭くんの瞳は手のなかのものを釘づけだった。
それは、個包装されたヘーゼルナッツのミルクチョコレートだった。
ついのぞきこんでしまい、安蘭くんが恥ずかしそうに顔を赤らめさせた。
「フィギュアの大会に出る前は、いつも『これを食べれば緊張なんてなくなる』って、思いこんでいどんでたんだ。だから、いつもいい成績を出せていたんだが、まさかアートオークションでこんなに緊張するとは思ってなくて」
「そっか。それを実折くんが予測して――用意してきてくれてたんだ」
ぼくがいうと、実折くんは不満そうにそっぽを向いてしまう。
「データにもとづいて、準備していただけです。主さまにお手をわずらわせないよう執事として、当然のことをしただけです」
でも、安蘭くんはうれしそうだ。
実折くんも、まんざらもなさそうだよね。
李豆くんと顔を見あわせて、にやにやとしてしまう。
安蘭くんがチョコレートを食べ、いきおいよく『78』と書かれたパドルをあげた。
「八百万!」
すると、オークショニアの声が響き渡る。
「八百万円、八百万円……ほか、いらっしゃいませんか?」
アトリエ内に、波が打ち寄せるまえような静けさがおとずれた。
「……『78』番、八百万円で落札されました!」
安蘭くんがよろこびにあふれた顔で、ぼくを振り返った――そのとき。
ざわり、とアトリエ内に、不穏などよめきがあがった。
「間藤っ!」
その怒りに満ちた声に、ぼくたちは心臓が跳ねあがった。
――八十嶋さんだ。やっぱり、来たんだ。
今回は、マスクもサングラスもしていない。
八十嶋さんがオークション参加者たちをかき分け、間藤さんの前に立ちはだかった。
間藤さんの手には、また赤いペンキが握られていた。
間藤さんに駆け寄ろうとしたとき、八十嶋さんがペンキ缶をぼくたちに向ける。
「見てたよ。この絵――競り落としたんだろう? ペンキをかけられたくなかったら、おとなしくしていろ」
とたんアトリエ内の空気が、参加者たちの動揺で震える。
ぼくたちは、その場から動けない。
八十嶋さんは、ギロッと間藤さんをにらみつける。
「……ずっと、違和感があったんだ。なんで十六夜学園の昇降口に、卒業生でもないおまえの、しかも当時はまだ無名だった間藤ドヲプの絵を、理事長が飾ったのかって! でも、すぐにわかった。資産家で有名な菅主理事長が経営する十六夜学園の昇降口に飾られれば、すぐに口コミとなってセレブのあいだで話題になる。間藤! ――おまえの絵が昇降口に飾られると、すぐにおまえはSNSで話題になり、またたくまにバズり……一気に大人気アーティストになった、おまえの計算通りにな!」
「なっ……誤解だっ! SNSで話題になったのは、ぐうぜんだし……菅主理事長が昇降口にわたしの絵を飾ってくれたのも、好意からだ」
間藤さんが戸惑っているけれど、八十嶋さんは聞く耳をもっていないようすだった。
「十六夜の卒業生でもないのにおまえが出しゃばったから、望月瀬音の絵が注目されないじゃないか!」
「それは、きみが彼の絵を買い占めているからだろう! 他の人の手に渡れば、彼は絵がもっと多くの人の目に触れる機会を得られるかもしれ――」
「わ、わたしのせいだっていいたいのか!」
アトリエに、八十嶋さんの怒鳴り声が響く。
「望月の一番のファンなんだぞ!」
八十嶋さんが、ペンキ缶のフタを開け、ブンッと振りあげた。
「安蘭くん! 八十嶋さんを止めて!」
「かしこまりました――っと!」
飛ぶように駆けだした安蘭くんは、あっというまに八十嶋さんの背後に立った。
しかし、八十嶋さんはそれを見越していたのか、振り返り、ペンキを安蘭くんにかけた。
「うわっ!」
「おまえら、やっぱり出てきたな。じゃまするな」
「それはこっちのセリフだよ!」
李豆くんが、安蘭くんに駆け寄り、ハンカチを差し出した。
八十嶋さんは背負っていたリュックから、新しいペンキ缶を取り出す。
まだ、諦めていないみたいだ。
オークション参加者たちは、何が起こっているのかわからないようで、みんなあっけに取られている。
「み、実折くん! どうしよう……!」
「うーん……」
実折くんはスマホを操作しながら、打開策を探しているようだった。
「望月さんにここへ来てもらい、説得してもらうのが、いちばんなのかもしれませんが……」
「で、でも、望月さんは、八十嶋さんに会うことは難しいとおもう……」
「オレもそう思います。しかし、他の解決策となると……八十嶋さんに関する情報が少なすぎるのです。オレたちで、八十嶋さんを説得できることができればいいのですが」
ぼくは、ハッとする。
「ぼくたちで、八十嶋さんを説得……」
十六夜学園に在学していたころは、馬術部だったという八十嶋さん。
立待乗馬クラブの光景が、頭に思い浮かぶ。
ぼくはスマホを取り出すと、すいすいと動かした。
目的のものを見つけたとたんに、頭のなかのバラバラだったパズルが完成したような気持ちになる。
ふと、ぼくは実折くんに、思いつきをたずねてみる。
「実折くん。実折くんは、ベルンっていう犬を飼っていたんだよね」
「え、ええ。サモエドという犬種の大きな犬でしたよ」
「写真をいっぱい撮って、すごく可愛がっていたっていってたよね」
「もちろんです。アルバムもたくさんありますよ」
「犬を飼ったことがないから聞くんだけど……ベルンを飼ってからは、他の犬もすきになったりする?」
「もちろんですよ。サモエド以外の犬も、だいすきです。オレは、だんぜん犬派ですね――しかし、主さま。それがどうかしましたか?」
ぼくは、にこりとうなずいた。
「少し……八十嶋さんと話してみる」
「いけません。危険ですよ。八十嶋さんは、オレたち執事にまかせてください」
「大丈夫。なんとかなるかもしれない」
安心してもらえるように、ジッと実折くんを見つめる。
実折くんは、静かに息をついた。
「万が一のために、つねに安蘭をそばにひかえさせておきましょう」
「ごめんね。ありがとう」
ぼくは睨み合っている安蘭くんと八十嶋さんに近づいた。
「主さま? どうしたの?」
李豆くんが心配そうに駆け寄ってくる。
ぼくは、八十嶋さんに向き直ると、スマホを見せつけた。
立待乗馬クラブのブログで、さっき拾いあげた記事だった。
『11月4日 タイトル:学生時代の思い出☆
みなさん、こんにちは。
立待乗馬クラブ、オーナーの八十嶋です。
わたしの学生時代の半分は、馬とともにありました。
部活はもちろん、馬術部でしたよ。
今回は、そんな若かりし日の、少し切ないお話をさせてください。
馬術部では、ブルー号という馬に乗っていました。
ブルーは、わたしにとても懐いてくれていました。
わたし以外の部員を乗せたがりませんでした。
ブルーは、とても臆病な性格だったのです。
わたしはそれを理解し、ブルーを励まし続けました。
だからこそブルーは、わたしだけに懐いてくれました。
しかしある日、他の部員にむりやり走らされたブルーは転倒し、そのまま天国へ行ってしまいました。
わたしはブルーとの急な別れに、泣きくずれました。
そんなかなしい時期に、運命のように出会ったのです。
同じ学園の美術部の生徒が描いた美しいペガサスの絵に!
わたしは、おもいました。
「ブルーだ! 絵のなかにブルーがいる!」――と。
そのペガサスは、ブルーにそっくりだったのです。
わたしはすぐにその絵の、そして作者のファンになりました☆
いまでもブルーはわたしの心のなかに、そして彼が描いた絵のなかに生き続けているのです。
みなさんも、彼の絵に会いたくなったら、ぜひ立待乗馬クラブへお越しくださいね☆
八十嶋』
ぼくのスマホをするどい目で射抜きながら、八十嶋さんは顔をしかめた。
緊張しながらも、ぼくは八十嶋さんに語りかける。
「……八十嶋さんの乗馬クラブのカウンターや壁に飾ってあった写真、あれはぜんぶ、ブルーの写真ですよね?」
「……だから、なんだっていうんだ?」
低くうなるように、八十嶋さんがいった。
ぼくは緊張で震えながらも、ぐっとこらえ、話を続ける。
「ブルーが他の人を乗せてしまったから、ブルーはケガをし、天国にいってしまったと、八十嶋さんはおもっているんですよね? だから、今度はこそはと、望月さんのペガサスの絵を他の人に渡さないようにしている……」
「――それのなにがわるいんだっ!」
八十嶋さんは、泣いていた。
ぼろぼろと涙をこぼし、ペンキ缶を握りしめている。
「わたしのブルーは、こわがりだったんだ! だから、わたしに特別に懐いてくれていた。わたしはブルーの性格をわかっていたから、こわがらせないように乗ってあげていた。ちゃんと他の部員たちにもブルーのことを説明していたのに、やつらはそれをちゃんと理解しないまま、他の馬にするようにブルーに乗った。結果、おびえたブルーはコースで転んで、そのまま……」
八十嶋さんは、その場にうずくまり、涙に声を震わせた。
ぼくは、おだやかに、しかしはっきりと八十嶋さんにいう。
「でも、わかってほしいんです。望月さんのペガサスは……ブルーではないんですよ」
「わかってるよ! でも、彼の絵でしかもう……この世でブルーに会える方法はないんだ! ぜんぶ買い占めないと、気が済まないんだよ!」
子どものように泣きじゃくりながら、八十嶋さんは叫ぶ。
ぼくは、八十嶋さんの肩にそっと触れた。
「八十嶋さん。ブルーに会いたいんでしょう?」
「え……?」
八十嶋さんが、パッと顔をあげる。
ぼくは、にっこりとほほ笑んだ。
執事たちも、八十嶋さんもキョトンとしている。
しかし、ぼくには考えがあったんだ。
「もう、こんなことは止めて……まっすぐにブルーに会いに行きましょう。ね?」
■
そして――数か月後。
立待乗馬クラブに、新しい額縁が増えていた。
大きなキャンバスに、自由に駆け回る一頭の馬。
額縁の下に、小さなキャプションがついている。
『ブルー号』
あたらしい望月瀬音さんの絵だった。
八十嶋さんは、それを涙を浮かべて見あげている。
今日は、できあがった望月さんの絵を、立待乗馬クラブに届けにきたのだ。
ぼくたち四人と八十嶋さんは、約束をしていた。
『望月さんに、ブルーの絵を描いてもらうよう依頼をしてあげる。だからこれ以上、望月さんの絵を買い占めることは止めること。もちろん、手紙やメールなどの迷惑な行為も止めること』
八十嶋さんは、絵を買い占めることばかりに気を取られて、望月さんにブルーの絵を描いてもらうということは、まったく思い浮かばなかったみたい。
ぼくたちの提案を、意外なほどにあっさり受け入れてくれた。
乗馬クラブに、ブルーの絵が飾られたとたん、八十嶋さんは頬をほてらせながら、ぼくを振り返った。
「菅主くん! ほんとうにありがとう……。きみのおかげで、わたしの乗馬クラブにブルーが戻ってきたよ。ほんとうに、ほんとうにありがとう」
ぼくの鼻にぶつかりそうなほどに接近してくる八十嶋さんを、安蘭くんが引きはがしてくれた。
「はいはい。そこまでな」
「まったく……主さまの人たらしは、あいかわらずなんだから」
李豆くんが、あきれたように両手をあげた。
スマホをながめつつ、実折くんがいう。
「それじゃあ、目的は果たしましたので、帰りましょう。主さま」
八十嶋さんが、ぼくの手を握る。
「もう帰るのかい? お茶でも飲んでいけばいいよ」
このあいだまで、ぼくたちのことを睨みつけていたはずの八十嶋さんは、くるりと手のひらを返したみたいに、すっかりとおだやかになっていた。
李豆くんが、ぼくと八十嶋さんのあいだに割って入る。
「主さまは、お屋敷でぼくたちのお茶を飲むので♡ それじゃあ、失礼しまーす」
■
立待乗馬クラブから帰ってきたぼくたちは、すぐに望月さんに許可を取り、十六夜学園の昇降口に『波打ち際のうつつ』を飾った。
おじいさまからのリクエスト『主と執事の絆を深めるためのチャレンジ』も、ぶじに完了。
ようやく、ひと段落ついて、ぼくたちは安堵の息をついた。
菅主邸。午後十四時。
ダイニングルームで、実折くんが淹れてくれたダージリンを飲みながら、ぼくはうれしさに笑みをこぼした。
「望月さん、よろこんでたね。八十嶋さんのことが落ち着いたのももちろんだけど、やっとファンに自分の絵が届けられるって」
「そうだね~。まさか淡月組で執事やるってなったときは、こんな事件を解決するなんて夢にもおもわなかったよ」
李豆くんが、ぼくの向かい側に座りながらいう。
テーブルには、ガラスの花器に色とりどりのバラが浮かぶように生けてある。
李豆くんが、選んだものだ。
実折くんも、しみじみとティーポットを揺らしながら、いう。
「まあ、はじめは乗り気じゃありませんでしたがね。続けてみれば、こういう部活もなかなか面白いです。単独行動にはない刺激がありますからね」
安蘭くんが、ぼくの前にデザート皿を出してくれた。
ラズベリージャムがたっぷりつまった、ヴィクトリアケーキだ。
「そうだ。主さま。届きましたよ。間藤ドヲプの『夕陽に染まる銀杏』!」
「ほんとう?」
フォークで、ケーキを切り分けながら、ぼくはパッと顔をあげた。
「安蘭くん、どこに飾ろうか?」
「もちろん、オレが借りている客間の壁に――」
「じゃなくて~。みんなが見られるダイニングルームがいいよね? 安蘭♡」
安蘭くんの本音を、李豆くんがかき消した。
ぎゅ、と眉根をよせる安蘭くんだったけど、すぐにくちびるのはしをつりあげ、笑う。
「まっ。たまには、意見に流されてみるのもいいな。いいぜ、ここに飾ろう。そういえば……この絵を競り落とすことになったのいきさつって、主さまへプレゼントをしていたとき、だったもんな」
「ああ、内申点を稼ごうとして……だったっけ。すっかり忘れてたねえ」
李豆くんが笑い、つられて安蘭くんも笑う。
実折くんも、少しだけほほ笑んでいるように見える。
「ぼくたちの絆、どうなったかな? 主さまはどうおもう?」
李豆くんにいわれ、ぼくはほほ笑んだ。
「ぼくは今回のことで、みんなとなかよくなれたとおもってるよ」
すると、李豆くんは不満そうにいう。
「え~? もう、なかよくなれたとおもっちゃったの?」
「ええっ?」
ぼ、 ぼくの勘違いだった?
最初とくらべたら、すっかり打ち解けたとおもってたんだけど。
早とちりだったんなら、ショックかも……。
しかし、李豆くんが長いダイニングテーブルにもぐりこみ、下からひょっこり現れて、ぼくの隣に座った。
実折くんが「執事としてあるまじき行為ですよ」と叱っているけれど、李豆くんは無視している。
「ぼくと主さまは、親友になれるくらいに、もっともっとなかよくなれるよ。まだ卒業までに、たっぷり時間はあるもんね♡」
にっこりと、アイドルみたいに小首を傾げていう。
「親友?」
「うん!」
すると、安蘭くんと実折くんが、声をそろえていった。
「内申点を稼ぐなっ」
「内申点を稼ごうとしないでください」
「ちがうよ! ぼくは本気でなりたいんだもーん。主さまの親友に!」
わいわいと騒ぎはじめた執事たちを置いて、ぼくはヴィクトリアケーキをついばみ、紅茶を飲んだ。
生けられたバラの花を楽しみながら、つぶやく。
「そうだね。いつか、みんなと並んでお茶を飲みたいな。主と執事としてじゃなく、友達として……」
おわり



