離れたくて、一緒にいたくて、諦められなくて。


「……消しゴムいる?」
 それは、あの出来事の数時間後。
 何事もなかったように振る舞われ、カチンとくる。
「いらない。沢野くんこそ、本を読むだけじゃなくて、ちゃんと勉強すれば?」
「それこそ、いらない。僕は、勉強したところで意味を成さない。読書が一番有効な時間の使い方だ」
「意味を成さないって、……そんなはずないでしょう。勉強は大事なの。将来のためにも……」
「……へえ。君にある未来が、僕にも訪れると思わないでほしいな。それに、君の前に来る確証もない」
 …………ふっと、彼の存在が一瞬、儚くなった。
 冷めた瞳の、あの嫌な錫色が、今は少し希薄な雰囲気を纏っている。
「……そ、そんなの誰だって一緒よ。それなのに貴方だけサボるなんて、不公平よ」
「不公平?…………誰だって同じ土俵に立っていると思ったら、それは間違いだ」
「貴方だけ、特別で上席な存在だとでも言いたいの?」
 睨むように告げた。

「特別ってところは合ってるけど……逆だよ。上席なんかじゃない……君のほうが、ずっと上だ」
「どういう……」
 言い返そうとすると、指で消しゴムをこちらに弾かれた。
「授業に集中したほうがいいよ。あぁ、それと」

「……操り人形じゃないそっちの姿のほうが、ずっと良いと思う」
 ―――刹那。
 その言葉は爆弾みたいに、頭にストックしていた皮肉を一瞬で消し飛ばした。
 ときめいたとかじゃなく、完全なる不覚だったから。

「……そんなの、わけが分からない。貴方は不快になったんじゃない?それに関しては、申し訳ないと思ってる……でも、それを良いとするなんて、不可解よ」
 咄嗟に言葉を紡ぎ出した。
 この感情は、『不可解』で済むレベルじゃない……。
 だけど私は、これ以外は、どうしてもニュアンスが違う気がした。
 今まで頑張ってきたはずなのに、こんなサボり魔にも対応できない自分が悔しい。
 行き場のない感情を抱えて、私は、机の下で拳を固く握った。
 そして、必死にシャーペンを走らせた。


「ねえねえ歩乃、今日さ、最近できたカフェ行く予定なんだけど、歩乃も一緒に来るよね?」
「歩乃ちゃん、そのカフェマカロンもあるんだって、楽しみだねー」
 すっかり、私が行くつもりのように話す二人。
 一応言っておくと、私はカフェは苦手だ。
 値段も張るし、見掛け倒しな商品もあるし、カロリーも高いし、行きたくない。
 だけど、運悪く、丁度今日は何の予定もない日。
 偽の用事を作ったところでバレるだろうし、断れない。

「カフェ、めっちゃ楽しみ。食べすぎで太らないようにしなきゃなあ」
「えー、なにそれー、折角なんだし、もっと楽しもうよっ」
 澄奈の言葉に、何様だよと少しの怒りを感じる。
 でも、円滑な人間関係のためと思うと、逆らえないし、口にも出せない。

「確かに、カフェは楽しまないとだよね。澄奈、ありが―――」
「なんでそんなこと言うわけ?」
 必死に取り繕った表情を、笑顔から無に戻すような言葉。
 こんなこと言うような、最悪の人間なんて……私にとってたった一人。

「……沢野くん、それってどういう意味?」
「別に、言葉まんまの意味だけど。質問したいなら、まずは僕のに答えてくれない?」
 すっかり沢野くんのペースに持ち込まされてる。
 周りを気にしつつ、私は慎重に口を開いた。
「そう考えたからだよ。だってカフェって、楽しんだほうがいいよね?考えてみれば、値段とか、カロリーとか、二の次だもん。友達と可愛いところに行けるんだから、無駄なことを考えなくても、それだけで楽しむ価値があるじゃん」
 私が言うと、周りの人はうんうんと頷く。
 それを見て私は、少し安心した。

「……へえ。でも、値段だとかカロリーだって、気になる人は気になるんだろうし、そう考えることと無駄をイコールで繋ごうとするのは早計ってものでしょ。値段が安くて、かつ美味しいものを振る舞う。低カロリーでも満足できる食事を作る。こういう工夫は、値段とかカロリーを気にする人達のためにあるわけだし」
 冷静な意見に、周囲の人は息を呑む。
 ディベートをしているような空気になってきて、雰囲気は張り詰めた。
「だけど、カフェはそういうのを取り入れてないよね。それって、カフェに行くときは、そういう考えが『愚問』って意味なんじゃない?カフェで楽しもうとするためには、無駄な考え方なんだよ」
 言ってやった。モチベーションを上げた私に、沢野くんは。
「けど君は、その『愚問』を頭に浮かべてしまったんでしょ。つまりは、カフェにも、そういう配慮が求められる時代ってことだ。今は少数派でも、いつかは必要になる。無駄な考えや行動なんてものは、存在しない」


 ―――無駄な考えや行動なんてものは、存在しない。


 脳内で反芻すると、徐々に頭がクリアになっていく。周りの反応も窺える。

「カフェがそんな工夫したら、雰囲気が壊れちゃう」
「でも、良さそうじゃん。俺もそうなったらなって考えたことある」
「そうそう。利用者が求めるってことは、それが大切だからなんだろうしさ」
 ……沢野くんの考えに共感する人が多い。
 そう理解した途端、目の前が白くなっていく。
 私は少数派で、周りとズレている。変わり者。孤独。独りぼっち。
 徐々に考えがヒートアップする。
 思考がマイナスな方向へと一気に進んでいく。

 ―――保健室に行ってしまおうか。
 一瞬そう考えたけど、すぐに目を閉じて打ち消した。
 逃げたと思われるのは癪だし、弱者というレッテルを貼られかねない。
 そうしたら、また誰かと会うとき、すごく怖い。
 裏で嘲られていると想像したら、いつも通りに振る舞えないから。

 冷えた体を、ぎゅっと抱きしめたその瞬間。


「ねえねえ、沢野くん。私と話さない?私、沢野くんの考えにすっごく共感したんだあ。あんな変な意見の子と話してたら、沢野くんまで頭悪くなっちゃうしさ。どうかなっ?」

 沢野くんが、隣のクラスの女子に話しかけられたのが見えた。誰かまでは分からない。
 彼女は、甘えるような瞳を沢野くんに向けた。
「いいでしょう?ほら、向こう行こうよ」
 彼女は、標的(ターゲット)の腕に手を回し、人が少ない方へ彼を誘導しようとする。

 周りの人達は、どうしていいのかというように、顔を見合わせた。
 多分あの人は、誰も逆らえないような存在なんだ。所謂陽キャ、一軍女子。
 意見したら、どうなるかは……多分、みんな知っている。
 だからきっと、何も言えない。この場にいる誰もが、そう考えて―――


「―――いいとは言ってないんだけど」

 一言。たった一句で、この空気を綺麗に粉砕した。言ったのは、当然沢野くん。
 唐突な拒否を表す台詞に、彼女は顔を真っ赤にして、沢野くんを睨みつけた。
「はあ?私を敵にして、今まで通りやっていけると思わないでよ……酷い目を見せてやるから」