「歩乃、おはよう」
「うん。 澄奈、おはよう」
挨拶したのは、級友・栗原澄奈。
それを皮切りに、他の女子も私に駆け寄った。
「おはよ歩乃、今日来るの遅くない? 休みかと思ったよー」
「えー、もしかして、休みの方が良かった? ちょっと寝坊しちゃってさー……」
「歩乃ちゃんが寝坊なんて珍しいねー。 何かあった?」
そう聞いたのは、赤口由良。 クラスのリーダー格の女子。
私は、由良の言葉の真意を探るように、少し黙った。
これは、スムーズに会話を進めるため。 正しく反応すれば、由良が……みんなが、楽しく話せる。
そして刹那、求められた対応を理解して、にっこりと口を開く。
「……いや、深夜アニメが面白くって夜更かししちゃっただけだから、だいじょーぶ」
今、季節は黄鶯睍睆。 立春も過ぎ、もうすぐ春が来る時期だ。
春には、進学やクラス替えが行われる。 私はそれが……大嫌いだ。
だってそうしてクラスが変われば、当然周りの人達も変わる。
それはつまり、『積み上げてきた信頼と居場所を無に還す』ことに他ならない。
一年かけて創り上げたそれを無くすなんて、私はいやだ。
けれど時間は待ってはくれず、幕切れはあっさりとしている。
独りぼっちで過ごす春は、冬と比べても断トツで寒々としていて、私はそれが怖い。
春が……それ以上に独りでいることが、私は嫌いなんだ。
「―――じゃあ、今年度最後の席替え、始めようか」
ホームルームの開始早々に発されたその台詞に、体が硬直した。
今の席は教室のど真ん中で、みんなと丁度良く関われる位置だったのに……。
いやな席になったらどうしよう。 もしも、独りぼっちになったら……。
ふと、前席の澄奈が私を振り向く。
「席替え、楽しみだね」
「……そうだね、澄奈。 私もとってもワクワクしてる」
動揺がバレないように、私はそう告げて笑った。
…………そうだ、席を変えたって、根本はなにも変わらない。
ただ、今まで通り、全方位に糸を張り巡らせて……相手と、ちゃんと関わるんだ。
独りぼっちにならないためには、そうしなきゃいけないから。
「歩乃、机動かさないの?」
訝しげな澄奈に聞かれて、私がぱっと辺りを見渡すと、みんな、もう机を動かしている。
私は、机を持ち上げるより先に、澄奈への対応を頭に浮かべた。
「……あっ、ほんとだ、ごめんー。 昨日テレビの特集で観たマカロンのこと考えててさー」
「あははっ、歩乃ってばやっぱり天然だねー」
思った通りの反応。 澄奈が背を向けたのを確認してから、机を動かした。
新しい、私の『勢力圏』は……教室内で、一番窓側の、一番後ろの席。
隣の席は、沢野煌くんだ。
真っ黒のマッシュヘアに、リムが線のように細いスクエアメガネをかけている男子。
無愛想でいつも独りでいて、その上ずっと本を読んでいる。
ちなみに前の席には、花川蒼汰くんという、不登校の子の机がある。
だから実質、私が自然に話せる場所にいるのは、沢野くんのみだ。
「えっと……、おはよう、沢野くん」
そういえば沢野くんとは、両手の指で足りるほどしか喋ったことがない。
だけどそんなことは関係なくて、いつも通り、『正解』の態度・台詞で接するだけ。
「これから、クラス替えまでよろしくね」
にこやかに言った後、ニュートラルな表情を作ってみせる。
こうして演じ続けるのはしんどいけど、独りぼっちの酷寒に比べたらずっとましだ。
もしも沢野くんが、心を許してくれたら……私は、安心してこの席にいられる。
そのためになら、沢野くんの求める態度を作り出すことだって厭わない。
沢野くんの思い描く通りに。 沢野くんが欲しい言葉を、表情を、行動を―――
「あいにく、操り人形は趣味じゃないんだ」
ぱっと、耳の中に滑り込んできたその言葉。
それは、ぼぅっとしていた頭を醒ますためにかけられたような、冷や水に他ならなかった。
「操り人形、て……そんな」
普段なら、沢野くんの顔色を窺って、最善の対応を実行していたはずなのに。
そんな余裕もなく、ニュートラルも、自然も、天然も、全ての仮面を割られたんだ。
この……沢野煌という、たった独りの男子に。
信じられない、意味が分からない。
ぼやぼやとそんなことを考えているうちに、授業が終わってしまった。
沢野くんが、隣から不機嫌そうな声を発する。
「何やってるのか、よく分かんないんだけど……くだらないこと考えるなら、集中すれば?」
「…………くだらなくなんてない。 私だって、必死なの」
……沢野くんに妙なこと言われたせいで、ペースが乱れてるんだから。
そう続けるのは憚られて、睨むように素っ気なく告げた。
こんなふうにするの、初めて……本当に、調子が狂う。
「妙なことってなに?」
机から文庫本を取り出しながら、沢野くんは訊いた。
わざわざ問いかけてくるところも、本当に意地が悪い。
「さあね」
敢えて何も言ってやらない。
彼は本から片時も目を離さず、ページを捲りながら言った。
「操り人形って言ったこと?」
「っ……」
私は、言葉に詰まる。
その無言を肯定と取って、沢野くんは淡々と続けた。
「僕は謝らないよ。 だって、間違ったことは言ってない」
「私は、謝ってほしいなんて言ってない……!それに……『間違ってないから謝らない』じゃあ、この先やっていけないの!!」
私は咄嗟に叫んだ。 今までの努力を、全て否定されたような気がして。
声は大きくなかったから、周りの人は気づいてない。
「へー……。 『間違ってないから謝らない』ができないから、操り人形になったんだって……分からない?」
「え……そ、そんなわけないでしょう、私は、みんながいやな気持ちにならないために、こうやってきたの……!!」
「みんなのため? よく言うよ」
黒髪から、錫色がかかった瞳が覗いた。
そしてそれは、体が思わず拒否してしまうような……恐ろしく、冷たい眼だった。
聞いては駄目だと頭が警告する。 けれど、彼は止まらない。
「―――自分のためなんだろ? 今までやってきたことだって、全部」
「違う、……これは、みんなが楽しく喋るためなの! 自分のためなんかじゃない!!」
私は思わず、震える声で抗議した。 呼吸が浅くなる。
生まれて初めてだ……こんなに、動揺してしまったのは。
けれど、私の言葉など気にも留めず……沢野くんの視線は、純粋に文字だけを追っている。
「強がっても無駄。 この際だから言わせてもらうけど、独りが嫌で周りといるくせに『みんなのため』なんて、何様?」
「失礼ね……っ。 私、ちゃんと頑張ってるの。 沢野くんなんかに分かるわけない!!」
「ふん……偉そうに。 強くないくせに自立してるふりして、合わせたくもないのに周りに合わせて、……それが、そんなに楽しいかな。 僕には分からないし、分かろうとする気もないよ」
沢野くんのその台詞を聞いた途端。
ぱきりと、今まで頑張って作ってきた『木村歩乃』が音を立てて壊れた気がした。
「…………私は、沢野くんとは違うの……。 ちゃんと周りに合わせないと、捨てられる。捨てられたら、独りぼっちになっちゃう……っ!! …………沢野くんの言う通り、私は、独りが恐いよっ…………悪いかな、笑いたければ笑ってよ。 弱いって、存分に嘲ればいいじゃない……っ」
理性という名の堤防が決壊して、泣きそうになりながら沢野くんに言う。
沢野くんは笑わずに、本から視線を上げすらせず、ぽつりと言った。
「僕と違うなんて、当たり前でしょ? 同じ人間なんてどこにもいないんだから」
私は、弾かれるように沢野くんを見た。
沢野くんは、普段通りの無表情だった。
「そういう話をしてるんじゃないの……私は、貴方みたいに強くない!!」
「僕が強いかは扠置いても、君が弱いことに直結するわけじゃない」
「……、え……」
沢野くんらしい、酷な言葉だ。
答えを教えてくれない。 それでいて、正解を求めることを許さないような完成された台詞。
「……貴方は私のこと、強くない、弱くもないっていうの? じゃあ、私は……一体、なんだっていうのよっ……」
「さあ。 それは、僕が決めることじゃない」
沢野くんは立ち上がり、椅子をしまった。
「ちょっ……どこ行くの、話は終わってな……」
「図書室に本返しに行くんだ。 それに、新しく本が入ったみたいだし……早く借りたいと思って」
言われてみれば、確かに、沢野くんが持ってる本にはラベルが貼ってある。
「ちょっ……」
「まだ何かある? ……それって、僕の逃避より大事なこと?」
―――ゾクッと、肌が粟立った。
今まで度々聞いた『冷たい声』とは、比べ物にならないくらい―――温度がない。
恐ろしい。 人としての温かさを全て削ぎ落とし、捨てきったような声色。
今しがた聞いた声すら思い出せないくらい、人間味の欠片もない表情……。
「と、うひ……」
反芻する。 沢野くんへの、得体の知れない恐怖を抱いてしまう。
「もういいよね」
強制的な会話の終了が、頭の中で繰り返される。
よくない、いいわけない……私から、『正解』を奪っておいて逃げるなんて……。
信じられない。 私がそう顔を歪めたとき、彼はもう彼方だった。
―――季節は黄鶯睍睆。
室内は騒がしく、滑稽な話題で満ちている。
「クラス替え、超楽しみだよねー」
「分かる。 誰とクラスが一緒になるか、めっちゃワクワクする」
澄奈と由良の会話の輪に、そっと近づいた。
由良は私に気づいて、パッと花が咲くように微笑んだ。
「歩乃ちゃんも、クラス替え楽しみでしょ?」
「…………うん、私も楽し……」
『―――あいにく、操り人形は趣味じゃないんだ』
由良の言葉に乗ろうとしたそのとき、あの台詞がフラッシュバックしてしまう。
冷酷で、それでいてこちらを気にかけているような、あの台詞が。
「……歩乃ちゃん? どうしたの?」
不思議がる由良。 はっとして、脳内の言葉を掻き消し……笑いかけた。
「なんでもない。 クラス替え、楽しみだね」
操り人形―――その言葉が、私をいつまでも睨みつけてくる気がした。


