診察対象外なのに、冷徹外科医に逃がしてもらえません

「……泣いてるな」

 それは、深夜二時のことだった。

 部屋の中に響く、小さな、でも確実な泣き声。

「……うん、泣いてるね」

 ベッドの中で、陽菜は目を閉じたまま答える。

 眠い。

 とにかく眠い。

 でも。

「……私、起きるね」

 体を起こそうとした、その瞬間。

「いい」

 低い声が先に落ちた。

「俺が行く」

「……え?」

 ぼんやりとしたまま、視線を向ける。

 そこにはすでに、ベッドから起き上がっている凌の姿があった。

「でも、凌さん、明日も仕事……」
「関係ない」

 即答だった。

「寝ていろ」

「……でも」
「いいと言っている」

 少しだけ強めの声。

 でも、それは怒っているわけじゃない。

 むしろ――

 完全に“決めている”声だった。

「……じゃあ、お願いしちゃいます」

 小さく言うと、凌は一度だけ頷いて、ベビーベッドのほうへ向かった。

     ◇

「……泣くな」

 低い声。

 でも、どこかぎこちない。

 陽菜は目を閉じたまま、そのやり取りに耳を澄ませる。

「……何が原因だ」

 完全に診察モードだ。

「腹か」
「眠気か」
「それとも不快か」

 赤ちゃんに問いかけている。

 当然、答えは返ってこない。

「……」

 一瞬の沈黙。

 そして。

「……とりあえず、抱き上げる」

 宣言してから動くあたりが、この人らしい。

 少しだけ布の擦れる音。

 そのあと。

「……軽いな」

 ぽつりと呟く声。

 さっきよりも、少しだけ柔らかい。

 でも。

 ――泣き止まない。

「……」

 凌の気配が、わずかに固まる。

「……なぜだ」

 真剣すぎる声。

 陽菜は思わず、くすっと笑いそうになるのを堪えた。

「……揺らすか」

 次の瞬間。

 ぎこちないリズムで、ゆら、ゆら、と動く気配。

「……これでいいのか」

 完全に手探り。

 それでも。

 数秒後。

「……あ」

 小さな声。

 泣き声が、少しだけ弱くなる。

「……そうか」

 ほんの少し、安堵が混じる。

「……これだな」

 自分で結論を出している。

 そして。

「……大丈夫だ」

 赤ちゃんに向けて、静かに言う。

「……俺がいる」

 その言葉に、陽菜はゆっくりと目を開けた。

 部屋の薄暗い明かりの中で、凌が赤ちゃんを抱いている。

 少しだけ不器用な腕の位置。

 でも、確実に支えている。

 視線は真剣で。

 でも。

 どこか優しい。

「……凌さん」

「起きるな」

 すぐに言われる。

「寝ていろと言ったはずだ」

「……様子、見たくて」

 小さく言うと、凌は一瞬だけこちらを見た。

「……問題ない」

 そのまま、また赤ちゃんに視線を戻す。

「落ち着いてきた」

 たしかに。

 さっきまでの泣き声が、今はほとんど聞こえない。

「……すごいですね」

「何がだ」

「もう泣き止ませてる」

「偶然だ」

 即答。

 でも。

 ほんの少しだけ、声が緩んでいる。

「……嬉しそうですよ」

「……そう見えるか」

「見えます」

 はっきり言うと、凌は少しだけ視線を逸らした。

 そして。

「……当然だ」

 ぽつりと呟く。

「自分の子だ」

 その一言に、胸がじんわりと温かくなる。

     ◇

「……寝たな」

 しばらくして、凌が小さく言う。

 陽菜もベッドから少し身を起こして、そっと覗き込む。

 本当に、眠っている。

 さっきまで泣いていたのが嘘みたいに、穏やかな顔で。

「……すごい」

「……だから偶然だ」

「でも、ちゃんと泣き止ませてます」

「……」

 凌は何も言わない。

 でも。

 その腕は、さっきよりもずっと自然だった。

「……置くぞ」

 慎重に、ベビーベッドへ戻す。

 その動きが、驚くほど丁寧で。

 陽菜は思わず見入ってしまう。

「……完璧です」

「……当然だ」

 言いながらも、どこかほっとしたような息が漏れている。

     ◇

 ベッドに戻ってきた凌が、陽菜の隣に腰を下ろす。

「……起きていたのか」

「途中から」

「寝ていろと言った」

「でも、見たかったので」

 正直に言うと、凌は少しだけ眉を寄せた。

 でも。

 それ以上は何も言わない。

「……凌さん」

「何だ」

「いいパパですね」

 その瞬間。

 ほんのわずかに、空気が止まった。

「……まだ判断が早い」

「そんなことないです」

「一回泣き止ませただけだ」
「それでもです」

 にっこり笑う。

「ちゃんと向き合ってるの、わかります」

「……」

 凌は少しだけ視線を落とした。

 そして。

「……当然だ」

 低く言う。

「逃げる気はない」

「……はい」

 その言葉が、この人らしい。

「……お前もだ」

「え?」

「無理をするな」

 少しだけ強い声。

「俺がいる」

 さっき赤ちゃんに言ったのと、同じ言葉。

 でも今度は、陽菜に向けて。

「……はい」

 小さく頷く。

 そのまま、そっと横になる。

 すぐ隣に、凌がいる。

 そして少し離れた場所に、赤ちゃんが眠っている。

「……不思議ですね」

「何がだ」

「三人でいるの」

 少しだけ笑う。

「でも、すごく安心します」

「……」

 凌は何も言わない。

 でも。

 その手が、そっと陽菜の手に触れた。

「……当然だ」

 低い声。

「俺がいる」

 その言葉で、すべてが満たされる。

     ◇

 冷徹外科医は、今も変わらず冷静で、厳しくて、無駄がない。

 でも。

 家に帰れば。

 不器用で、少しだけぎこちなくて。

 それでも必死に。

 父親になろうとしている。

「……凌さん」

「何だ」

「……好きです」

 眠気の中で、ぽつりと呟く。

「……ああ」

 短い返事。

 でも。

「俺もだ」

 その一言で、十分だった。

     ◇

 赤ちゃんの寝息と、静かな夜。

 その中で。

 新しい家族の時間が、ゆっくりと流れていく。