君に届くのは、10分の1だけ

美術室に入るのは、久しぶりだった。

冬休みが終わっても、
律はしばらく学校へ来られなかった。

あの信号の前で、
柚希が糸の切れた人形みたいに倒れて、
柚希が亡くなってから、
まだそんなに時間は経っていなかった。

来ようと思えば来れた日も、たぶんあった。
でも、足が向かなかった。

美術室には、柚希がいたからだ。

正確には、いた場所があるだけだった。
窓際の席。
何度も鞄を置いて、
本を開いて、
ときどきこっちを見ていた席。

その空気だけが、まだ残っている気がした。

だから、行けなかった。

それでも、その日はなぜか、
行かなきゃいけない気がした。

午後の光が少しだけ傾いた美術室は、
前と同じ匂いがした。

絵の具と紙と、
少し冷えた冬の空気。

誰もいない。

静かだった。
静かすぎて、自分の足音だけが浮いて聞こえる。

律はゆっくり、窓際の席へ行く。
柚希がいつも座っていた場所だった。

椅子を引いて座る。

そこから見える景色は、
前と何も変わっていないはずなのに、
全部が少しだけ遠い。

キャンバス。
机。
筆洗いのバケツ。
窓の外の冬の空。

柚希がいないだけで、
こんなに空っぽになるんだと思った。

律はしばらく、そのまま動けなかった。

何かを考えていたわけじゃない。
考えようとすると、
すぐにあの日の信号の前へ戻ってしまうからだ。

「さようなら」

その声だけが、何度もよみがえる。

どうして、あの言葉だったんだろう。
どうして、振り返らなかったんだろう。

なんか変だな、とは思った。
でも、あのときの律には、それ以上は分からなかった。

分からないまま、
柚希はいなくなった。

律は顔を上げて、完成した絵を見る。

川沿いの道。
夕方の光。
静かな水面。

柚希が「好き」と言った絵。
二人で未来ノートを書いたあと、
やっと完成した絵。

その絵を見ているうちに、
律はふと、手を伸ばしていた。

キャンバスの裏。

そこに、何かがあることを知っていた。
柚希が、そこへノートを差し込んだ日を覚えていた。

「うん。ここがいい」

そう言った柚希の声まで、まだ思い出せた。

律はそっとキャンバスの裏へ手を回す。

指先が、紙の角に触れる。

引き抜く。

少し厚みのある、黒いノートだった。

未来ノート。